2008年03月10日

Knowledge-Action Principle

今日気づいたのだが、東大でKnowledge and Actionと題したミニカンファレンスがあるみたいだ。題名を見た瞬間に、これは最近話題のknowledge-action principleないしthe value of knowledgeに関する学会に違いないと興奮したのだが、講演者を見ると、それについて話しそうなのはPascal Engelしかいないな。

Pascal Engelの批判の路線は、Richard Feldmanと同じで、knowledge-action principleは容易にknowledge-epistemic position principleに変換することができ、それ故、knowledgeに対するpurismと両立可能であるというもの。この批判はknowledge-action principleそのものの批判ではないが、そこからanti-purismを導こうと論者に対する批判になる。

そしてまたこれが言えれば、この原理で知識の価値を説明しようとする論者も批判することができる。

ただEngelの批判が成立するためには、以下の非常にもっともであり、伝統的に受け入れられてきた見解を否定しなければならない(なおこれは今適当に名付けて定式化したもので、もっとよい定式化もあると思う)。

(Supervenience) S's epistemic position supervenes on S's epistemic (truth-conducive) factors.

従って、僕はEngelの批判的議論はvalidだと思うが、soundだということを示すのは難しいと感じている。この辺について、彼がどういう見解を持っているのか聞いてみたいなー。

Engelは主に僕の指導教官の論文を批判しているわけだが、彼は現在執筆中の本でこの批判に答えるのかな?今度聞いてみよう。
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2008年01月20日

セラーズ

論文は一応書き終わったものの、まだまだ不満足な出来。僕の主張をサポートする言語的データを探そうと、いろいろと言語学関係の論文をあさっているところであります。完成するにはまだまだかかりそうだな。

さて、その中で僕にはすこし面白い論文を見つけたので報告しようと思う。ウィルフリッド・セラーズという哲学者は僕が日本で博士課程をやっていた最初の3年ぐらいにもっとも耽溺した哲学者で、修士までフッサールをやっていた僕は、セラーズと格闘することによって分析哲学に入門したというところがある。

当時は今もつづく、ブランダム、マクダウェルらによるセラーズの復権が声高に叫ばれ、研究されていたときで、すでにセラーズに眠る新たな鉱脈の可能性はあらかた掘り尽くされた感があった。そんななか僕はようやく、誰も言っていないことをセラーズに見つけ、なんとか論文を書いて、大学の紀要に発表した。この論文は当時酷評されて、非常に落ち込んだし、書き上げた後に40枚を30枚に削らなければならなかったので、1部の内容を完全に削除するしかなかった。

今この論文を読むと、削った分途中の話題の転換がものすごく性急になっているし、最後の方で論じているセラーズに対する可能的批判への応答も、今の僕には賛成できない。しかし、この論文のメインの目標であった2つの点については、今見てもなかなかいいと思っている。それは(1)セラーズが語用論的前提という概念の発明者であると明らかにする、(2)ブランダムがセラーズを解説するときに常に用いる、「理由を与え、求める」というプラクシスという概念が実際にセラーズ哲学の中に存在することを示し、その認識論的重要性を論じる、ということだった。

(2)の点については、驚くべきことにブランダムは何のテキスト的証拠も出したことがない。僕は今でもこの点に関して、この論文が出した以上のものがセラーズの論文から見つかるとは思っていない(ただし、これはブランダムのセラーズ解釈が正しいと仮定した上での話、かなり強引なので、セラーズを他の仕方でも解釈できるだろう)。(1)の点に関しては、これはかなり新しいと思っていたのだが、実は最近まったく同様のことを言っている言語学畑の論文を発見した。それは2001年に書かれていて、僕の論文は2004年なので、3年も早い。当時この存在を知っていたら、この論文はとても書かなかっただろう。同様のことは最近もあって、去年までセラーズの認識論が整合説と基礎付け主義の折衷であって、最近の解釈が言うような文脈主義ではないということを示す論文を書きたいと思っていた(なお、僕の2004年の論文は、ブランダムの解釈を正しいと想定するところから始めたので、文脈主義者としの解釈を強く支持する内容になっている)。これは日本にいるときに思いついたのだが、留学したため書く時間がなくなったしまった。ところが去年出版されたセラーズの解説書が全く同じことを言っているため、もはや書く気になれない。

やはりある程度オリジナルなことを言うのは難しいなあと思う。僕は相当セラーズを読み込んだはずだけど、結局論文一つしか書けずに、今後書く予定もない。解釈に関わる論文は、どうも労多くして実りが少ないような気がするな。ああ、そういえば、セラーズの自己知を巡る議論の批判もしようと考えていた時期もあったが、これはいかにもネタが小さいので、書くことはないだろう。もし書くとしても、自己知を巡る議論にもっと習熟した後になるだろうし。

なおこの僕の論文は現在オンラインで読むことができます。もしどうしても読みたいのだが、見つからないという奇特なひとがいれば、こそっと教えるので、連絡ください。
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2008年01月10日

最近のあれこれ

ゲティア問題について、何か書こうとしていたのだが、だらだらしているうちに、少し忙しくなってしまった。現在、まさにこの問題についての論文を執筆中なのであります。短いものなのですぐに終わると思うが、しばしお待ちを。

本日大学の本屋で、Alexander Millerの"Philosophy of Language"の第二版を見かけた。この本は大昔に読んで以来、幾度か読み返している。非常にバランスのとれた言語哲学の入門書で、また読みやすくて大変良い。認識論の方もここ数年入門書をチェックしていないので、時間をとって読みたいものだ。Richard Feldmanのものがいいらしいのだが、これは図書館にないんだよなあ。僕の指導教官であるJ先生は、Keith Lehrerの"Theory of Knowledge"、第1版を気に入っているらしく、彼の認識論入門の授業の前にしょっちゅう読み返していた。しかし、この本今は第2版しか手に入らなくて、僕もそれしか持っていないのだ。同様にJohn Pollockの"Contemporary Theories of Knowledge"も1版の方が名高いと思うのだが、これまた絶版である。

まあネットで古書店を探せば手にはいると思う。ただこちらで本を買うと日本に持ち帰るのが手間なのでだいぶ控えるようにしている。欲しい本はいろいろあるんだけどなー。最近買った本は、Stephen C. Levinsonの"Presumptive Meanings: The theory of generalized conversational implicature"。この本は最近の認識論で頻繁に参照されるので、読まざるをえない。ああ、この本が話題となる、InvariantisimとWMAの対立も紹介したいなー。うーむ、書きたいことはいろいろあるのだが、どうもさぼり気味でいかんな。知り合いであるY氏のブログのように、もうすこし学問的なことを書きたいのだが、そういうことをかくのはやはり時間がかかるということで、どうしても後回しにしてしまう。Y氏はどうやってそういう時間を捻出しているのだろうか。
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2007年12月30日

ゲティア問題(1)

ゲティア問題というやつは、その解決の難しさのせいか、近年論じられることはほとんどない。僕は最近あることで再びこの問題の重要性に気付いたのだが、それが発表できるのはもう少し先になりそうだ。

まあしかし、この発案者であるのゲティアは実にうらやましい哲学者である。なにしろゲティア問題を提唱したわずか3ページの論文以外に、彼の論文にお目にかかったことがないのだ。最近指導教官から聞いた話では、彼の就職のときに、大学側があまりにも彼の業績が少ないのを問題視したところ、哲学科の方からこの論文を参照した文献のリストが提出され、それが2百以上の膨大なものだったため、彼は面接に合格したという。本当かどうか解らないが、とにかく面白い話である。

ゲティア反例と呼ばれる古典的知識分析への反例は、彼が提示した2つ以外に、それはもう沢山あって、それら全てが同一の仕方で反例を構成するわけではない。最近その辺りを調べ始めたのだが、これはなかなかたいへんな作業である。

たいへんさの理由の一部は、ある事例に関して僕は作者が想定するのと全然違う直観をもっていたりするからである。だから、はいこれが反例になりますよと言われても、何故そうなるのかを明確に解説されない限り、どうにも納得できない。昔はその理由が、日本人であるという言語的の違いが直観に影響を及ぼすためだと思っていたのだが、こちらにきてそうでもないということに気付いた。こちらの人の直観も皆完全に同じというわけでもないのである。

これからしばらくゲティア問題について書こうかなあと思っております。
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2007年12月20日

便利なサイト

現在の英米哲学会ではかなりインターネットの影響力が強まりつつある。認識論関係は特にさかんなようで、有名な哲学者の手によるブログも幾つかあり、かなり活発に議論が行われている。

僕もいろいろとブログは読んでいるのだが、それ意外にもいろいろな哲学者の個人ページもまめにチェックしている。多くの人が研究成果としてまだ未発表の論文をアップしていたりして、なかなか便利なのだ。最近の若手の研究者をチェックするのに便利なのは、Keith DeRoseのEpistemology Pageである。広範な認識論者と論文のリストがあり、いつも参考にしているのです。

DeRoseは文脈主義関連のサイトも持っているのだが、そちらはもう2年ぐらい更新されてなくて、残念。

前の学会でRichard Feldmanが、パスワード忘れて自分のサイトが更新できないと言っていたので、同じようなことが起こっているのかもしれない。
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2007年12月11日

近況

せっかく再開したのに1ヶ月以上も開いてしまった、すいません。

11月に入ってから、博士論文の計画書を書き上げために、あまり他のことをしている余裕がありませんでした。僕の学校ではは30-50ページの計画書を書き、その口頭試問を3年目の秋学期の終わりまでに受けなければいけないのです。僕の場合、実際の試験は来月になりそうなのですが、計画書は今月中旬に審査員に渡さなければいけません。

まあ先週2回目の草稿を指導教官に見せて、本日ほとんどオッケーと言われたので、なんとか期日には間に合うでしょう。

内容は文脈主義に関わるものです。日本にいた頃から、海外に行って文脈主義の研究をしたいと思っていたのですが、まあ特に具体的に考えていたわけでもなく、ただの夢のようなものでした。あれから3、4年ぐらいで、ここまでそれがかなうとは人生はわからないものだなあ。

僕は日本の大学院に結構長いこと在籍したわけですが、やはり研究環境や待遇面でこちらの大学の方が圧倒的に優れていると思うところが多いです。最近は自分の研究が充実していることもあり、つくづく来て良かったなあと思っています。

これからはもう少し更新するので、今後もよろしくお願いします。
posted by hakutaku at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月29日

不一致の認識論2

学会二日目。まずはRichard Feldmanの発表を聞く。彼はこの外在主義全盛の時代に、孤高に内在主義を貫いていて名高い。この人の論文は論旨も明快で、また内容も非常に面白くて、僕は大好きなのだ。講演の内容は、合理的な不一致というものがあるとして、その際に二人がすべての証拠を共有しているということはできないのではないかというもの。これを示すために、証拠の証拠は証拠であるという原理を置き、対立する二人が一群の前提を共有していても、その証拠というところで異なっていると言えるはずだと議論を進めていた。なかなか明快でわかりやすかったなー。

昼からは、Jeniffer Lackeyの講演。彼女はPhilosophy and Phenomenological Researchのyoung epistemologist prizeを最近受賞していて、若手の認識論者の中では相当有名。主な業績として、 backet brigade principle of testimonial knowledgeやknowledge-assertion principleに反例を示したことがある。この辺もいつか書きたいなー。

発表はあいかわらず緻密な議論の分析を通して、様々な立場の成果があらゆる不一致に対して適用できるわけではないということを示していた。しかし相変わらず、次々といろんな例を出してくる。こういう例を考えさせたらほんとにうまいなこの人は。認識論ってのはこういう直感的事例から議論を始めるってことがゲティア問題以来常になってるようなところがある。ゲティア反例なんて、いったい今までに何種類考え出されたんだろうなー。思えばゲティア問題も、日本では完全に紹介されてない。反例にも様々なパターンがあるし、ゲティア問題は解決不可能という論考もあるし、この辺もいつか書かなくちゃな。ゲティア問題に対する最も最近のアプローチはsafety conditionというのを使うやつで、Sosa, Williamson, Pritchardなんかが支持している。Prichardの本の書評をLackeyが書いているのだが、そこでまた複雑な例を考えて、少なくともPritchardのsafety conditionには反例があるということを示していた。

僕もいま自分の立場を直観的に説明するのにうまい例がないかと思案しているのだが、なかなかいいものを思いつかない。Lackeyみたいな才能がどこかに落ちてないかな。

書きたいことはいろいろあるのだが、あれだなー、何から始めるべきか。分析系認識論に興味のある人がこれって何ですかと聞いてくれたら、できるだけ答えるようにしたいと思います。いちおうこのブログの目的は分析系認識論を紹介することなので。

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2007年10月27日

不一致の認識論1

この週末は隣の州のサスカチュワン大学でWCPA(Western Canadian Philosophical Association)の会議があり、ブランダムがゲストとして招かれている。しかし、うちの大学ではなぜかこの金、土で認識論のシンポジウムがあり、認識論をやっている僕としてはこちらに出ることにした。CPAに行く人も多いんだから、その辺意識してスケジュールを組めば良かったのになあ。

The Epistemology of Disagreementというのがシンポジウムのタイトルで、講演者はPeter van Inwagen, Richard Feldman, Jeniffier Lackeyの3人。この「不一致の認識論」というのは、本当に数年前から論じられるようになったテーマで、かなり新しいものである。このテーマで論じられる問題はいくつかあるが、例えば、認識論的に見て同格の二つの認識主体(たとえば同じ証拠を持っている認識主体)が、ある問題に対して不一致であるということは、その二人のどちらかが非合理であるということを意味するのかというのが主な問題。

とりあえず昨日はvan Inwagenの講演を聴いたが、不一致はどちらかが非合理であることを意味するが、どう考えても両者が合理的であるにも関わらず不一致が存在するというケースがあると強調していて、パラドクスとしてこの問題を理解しているように見えた。

本日はこれから他二人の講演を聴きに行きます。Lackeyはちょっと凄みのある美人で、スーツをパリッと着こなしていて実にかっこよかった。あまり哲学者に見えないと言うのは、褒め言葉にはならないかな。
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2007年10月25日

John Hawthroneの”Knowledge and Lotteries”

John Hawthroneの”Knowledge and Lotteries”という本は、まあここ数年の認識論の本の中では、Timothy Williamsonの”Knowledge and Its Limits”と共に一番話題になった本である。この本の中心問題は、Jonathan Vogelが提示したlottery propositionsと呼ばれる、一群の命題が引き起こすパラドキシカルな問題(Lottery Problem)である。この問題に対する様々な立場を分類し、彼が選び出した認識論的立場に対する諸制約をどれだけ満たせるのかという観点から、それぞれの点数表をつけていく。まず、Lottery Problemとは以下のような問題である。

1.Sは来年アフリカに行くだけの経済的余裕がないと知っている。
2.ある人が来年アフリカに行くだけの経済的余裕がないという命題は、その人が最近買った宝くじに当たらないという命題を含意するとSは知っている。
3.Sは彼が最近買った宝くじに当たらないと知っている。

1はどう考えても真に思えるし、2はトリビアルな含意を知っているということなので、真だとすることに何の問題もない。問題は3で、1、2と閉包原理から簡単に導けるにもかかわらず、これを肯定することは難しい。宝くじの当選番号が公表される前に、それを知ることは不可能だと思えるからだ。しかしもし3が偽であるとなると、同じ推論を逆にたどって、1か2を否定するしかない。2を否定することは難しい、すると1が偽なのだろうか?同種の議論は様々な命題に対して構成できるため、1を否定することは伝統的懐疑論に負けず劣らず、我々の想定する「知識」に対して破壊的な帰結を持つことになる。

この問題に対する対処方法は、Hawthroneによれば4種類しかない。

a.文脈主義
b.懐疑的不変主義(skeptical invariantism)
c.穏健な不変主義(moderate invariantism)
d.鋭敏性不変主義(sensitive invariantism)

Hawthroneの採点表ではdの立場が最も高得点になる。この立場は、最初にJeremy FantlとMatthew McGrathによって提唱された(“Evidence, Pragmatics, and Justification", The Philosophical Review 111:1, 2002)。現在ではこの二人の他にJason Stanleyによって強力な論戦が築かれている。この立場の詳細は後日解説するとして、ちょっと興味深い事実を報告しておこう。

この本を出版する前、Hawthroneはbに焦点を合わせたいと思っていたらしい。確かに彼はFantl、McGrathと異なり、3は偽でしかあり得ないという強い考えを持っているように見える。この考えは実はdの立場と相性が悪くて、bに簡単に陥ってしまう。彼がdによりページを割いたのは、編集者からの要請だったようで、僕にはこの辺りに彼の揺れ動きが見えるような気がする。

なお、現在のHawthroneはdの立場も捨ててしまったようだ。どうも徳認識論的なアプローチをとっているらしい。徳認識論からのLottery Problemの対処はJohn Grecoがいろいろと論じているが、それに近い立場ではないだろうか。この転向に、彼の元同僚で、dを一緒にもり立てたStanleyはかなり気が食わないといった感じらしい。

カナダに来て面白いことの一つは、こういうゴシップ話が聞けることだなあ。

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2007年10月13日

ドイツの分析系認識論

最近はドイツでも分析系の認識論がさかんになってきているようだ。学会も数多く開かれているし、それが本になって出版されている。また、分析系認識論の入門書もいろいろと出版され、なかなか土台が整ってきているのではないかという印象を受ける。

僕はかつてドイツ哲学をやっていたとはいえ、2001年3月以降、ドイツ語の論文は一つしか読んでいない。しかし、最近こうした状況を見るにつけ、再びドイツの論文を読んでみたいという思いになってきた。ただドイツの認識論者の論文は英語で書かれたものを最近いくつか目を通したが、やはり英語圏のものに比べると、平均的レベルは低い。

ここで何人か僕の気になるドイツの分析系認識論者を挙げておこう。Gerhard Ernst、Thomas Grundmann、Antonia Barke。この3人の中では、Antonia Barkeの論文がもっとも興味深かった。従来の文脈主義に変わって、epistemic contextualismと彼女が呼ぶ、新しい立場を出そうとしている。ただ、これはコメンタリーで指摘されているように、彼女が考えているほど既存の文脈主義と異なってはいない。彼女は最近英語で本を出版して、非常におもしろそうなので、今注文しているところである。Thomas Grundmannは、Michael Williamsの批判論文を書いていて、まあだいたい正しいが、あまり面白みのない批判をしている。彼は他にもいろいろ書いているようで、もう少し読んでみたい。Gerhard Ernestはかなり大御所っぽいが、他の人の論文に対するコメンタリーしか読んでないので、彼の本も読みたい。

しかし今の僕のドイツ語力はおそらく学部生の頃よりもないので、彼らのドイツ語の著作を読むためにもう一度勉強し直さなければならない。かねてせっかく勉強したドイツ語を完全に忘れるのはいやだなと思っていったので、これはいい動機になる。

こう考えると、日本でももう少し分析系認識論がさかんになってもいいのにな。だれか入門書でも翻訳しないかなあ。ただ21世紀に入ってから、いろいろと新しい立場が現れ、これらをすべて網羅するような入門書はこちらにもまだない。もうすぐBlackwellから、"Companion to Epistemology"と、"Epistemology: An Anthology"の第二版が出るが、これは結構最近の動向を反映したものになるはず。1版も数年前に出たばかりだが、もう大幅に変えなければならないほど、最近の動向はめまぐるしいということか。ただどちらも入門書ではなく、前者は辞典で、後者は論文集。前者は、かなりつかえます。認識論関係の辞典でよりコンパクトなものがほしい人は、Duncan PritchardとMartijn Blaauwの"Epistemology A to Z"もいい。これはPhilosophy A to Zというシリーズの1冊だが、このシリーズは便利。
posted by hakutaku at 15:44| Comment(2) | TrackBack(1) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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