2008年08月27日

最近のあれこれ

またもや更新をさぼってしまった。勉強はしているのだが、あまり成果に結びつかず、こういうときはあまり他のことをする気分になれない。あとやはりこのブログを書くモチベーションが少し失われてきていると思う。

前の記事で書いた、Walter Sinnott-Armstrong, Moral Skepticisms, Oxford University Press, 2006、のメインとなる章はかなり前に読んでみた。うーん、これは文脈主義がどういう立場なのかを極めて曖昧にしたまま書いていて、相当に混乱を招くようなところが随所にある。この点に関しては、最近のPhilosophical Quarterlyでこの本の特集があり、そこでMartijin Blaauwがほとんど僕の言いたいことを代弁してくれている。一つ付け加えると、Sinnott-Armstrongはassertion contentとsemantic contentを分けるので、Blaauwがしている分類はさらに複雑になるだろう。認識論で前者に定位した文脈主義を展開している人は、僕の知る限りGilbert Harmanしかいないが。

作者の立場は、文脈主義でもなく、ピュロン主義懐疑論だということで、路線としては、Robert Fogelinの"Pyrrhonian Reflections on Knowledge and Justification"にかなり影響を受けている。この本は名著だと思うが、あまり議論されないのが残念。一つの問題は、この本はゲティア問題の文脈主義的な解決に半分近く費やされるのだが、Stewart Cohenがこの種のゲティア問題の解決に対して強力な批判を展開していることが広く知られているということにあると思う。あともう一つ僕が問題だと思うのは、ゲティア問題が生じる状況はFogelinの分析では、通常より高基準が適用される状況だということになるのだが、これはあまり自明ではない。Keith DeRoseとAnthony Bruecknerはこの点に関して昔論争をして、そうではないというDeRoseの見解の方が広く受け入れられている。ただし、僕はDeRoseが全面的に正しいと思っているわけではなく、これは実に微妙な問題だと思う。

Sinnott-Armstrongの本にせよ、Fogelinの本にせよ、文脈主義に近い立場を展開しつつ、最終的にはある問題の解決が提示できないことを理由に懐疑論に行き着く。ただどちらも提示される問題が、本当にそれほど深刻な問題なのか、ちょっと疑わしいところがある。まあ懐疑論というのは常にそういうものなのだが。

最近はJohn McDowellを勉強し直していた。彼の認識論の全体がどういうものなのか、今までよりもよく分かったと思う。どちらかというと本文より註に書かれているアイデアの方が面白かったりする。ただ認識論的に興味深いような部分は、Williamsonが同様の路線を精緻に展開させているので、あまりMcDowellに拘泥する必要はないという思いも強くなった。
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2008年07月30日

道徳文脈主義

文脈主義というのは、近年の哲学でははやりの立場で、まあいろいろなところに現れる。特に顕著なのは、言語哲学と認識論だろう。言語哲学における文脈主義とは、ある語の意味は常に文脈に相対的であるというかなりラディカルな立場で、これに対する反論としては、Herman CappelenとErnest Leporeの"Insensitive Semantics" (2004, Blackwell)が有名で、今やいろいろ議論が行われている。思えばこの本は僕が3年前に日本で読んだ最後の哲学書だったなあ。この分野に関する知識は3年間であまり進歩していないので、忸怩たるものがある(もっともこのうちの二年は授業や進級試験などで忙しく、自分の趣味の本はあまり読めなかったのだが)。

また近年では道徳文脈主義(Moral Contextualism)というのも論じられる様になってきた。少なくとも3冊の本が倫理学における、文脈主義と呼ばれうる立場に関して書かれている。

Mark Timmons, Morality without Foundations: A Defense of Moral Contextualism, Oxford University Press, 1999.
Alan Thomas, Value and Context: The Nature of Moral and Political Knowledge, Oxford University Press, 2006.
Walter Sinnott-Armstrong, Moral Skepticisms, Oxford University Press, 2006.

Timmonsの本は昔斜め読みしたことがあるのだが、あまり覚えていない。ThomasのはMichael Williamsの文脈主義をベースにしていて興味深いのだが、まだきちんと読んでいない。Sinnott-Armstrongのは、文脈主義の1バージョンであるContrastivismを倫理に応用したもの。このContrastivismという立場は、認識論、科学哲学である程度広まりつつある。この本は近々じっくり読む予定。

この辺りも暇なときにきちんとフォローしておきたいのだが、なかなか時間がなくてできないなあ。誰か倫理に詳しい人がまとまった紹介をしてくれればいいのだが。


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2008年07月24日

知識の価値

今の認識論でホットなトピックというのは、僕が見る限り二つぐらいである。文脈主義とそのライバルたちの論争と、知識の価値というトピックである。教科書的な認識論の解説に出てくるような、内在主義/外在主義の対立、基礎付け主義/整合説の論争、自然化された認識論の意義など、やっている人もほそぼそといるが、さほど話題にはあがらない。ある程度盛り上がってるのは他には自己知に関する問題、Disjunctivismの認識論的含意といったところだろう。

知識の価値を巡る問題というのは、プラトンが最初に提唱したと言われている。要するに、我々は知識を価値のあるもの、それ故獲得する意義のあるものと想定しているが、その価値は何にあるのかという問いである。単に真なる信念を持つことと、知識を持つことを比較すると、我々は確かに知識を持つ方がより価値のあることだと考えている。この価値は何に由来するのだろうか。こうした問いを現代分析系認識論に持ち込み、いわゆるValue Turnを促したとされるのが、Duncan PritchardとJonathan Kvanvigの二人である。後者はこのテーマで本を書いており、なかなか話題になった。

さて僕の知る限り、この問いに関する答えはだいたい4種類ぐらいしかない。

1.知識は他の認知状態に比べてより安定している(Plato, Williamson)
2.知識は他の信念、行為を正当化する(Fantl&McGrath)
3.知識は間主観的な情報源である(Craig)
4.正当化された真なる信念に付け加わるような知識固有の価値はない(Kvanvig)

括弧内は代表的支持者を選んだだけで、他にもこれらの見解を支持している人は大勢いるし、彼らの間で細かい相違もある。

この問題は認識論の他の分野との連関でもさかんに論じられていて、徳認識論の論者は信頼性主義を知識固有の価値を説明できないとして攻撃している。プラトン以来忘れ去られていた問題が現代で再び盛んに論じられるというのは、なかなか痛快なことで、哲学の面白いところだなとつくづく思う。

ちなみに分析系認識論という語を僕は非常に狭い意味で使っている。英米圏で認識論と呼ばれる分野には、伝統的認識論、社会認識論、フェミニズム認識論、ベイズ認識論などがあるが、このうちの最初のものしか指示していない。なので、他の分野には、僕はよく知らないが、それぞれホットな話題があるだろう。

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2008年07月09日

Sensitivityにまつわる諸問題

ふう、最近論文を書いていたのだが、ようやく初稿ができあがったので、ひと休憩。ちょっと今日は、この前書いたまっとうな認識論のことでも書きたいと思う。知識ないし正当化の理論としては、まあいろいろあるわけだが、僕が一番個人的に好きなのは、ノージックのsensitivity条件と言われるものである。僕がこれが好きな理由は、これは外在主義的理論のうちで、唯一明確に、弁別能力に焦点を合わせたものだからだ。この辺はいつか論文を書きたいと思っているので、そのうちにまた詳しく書きたい。

さて、ノージックによれば、sensitivityとは、知識の必要条件であり、以下のように定式化される。

(Sensitivity) if p were false, S wouldn't believe that p.

Sensitivityにはよく知られた問題が、6つほどある。

1.Epistemic Closureの否定につながる。
2.この条件を満たしながらも、知識とは呼べないような例、すなわち反例がたくさんある。
3.類似した二つの命題で、一方は知っていて、他方は知らないという奇妙な事例を許してしまう。
4.必然的真理を取り扱うことができない。

僕自身はこれらの問題は大してクリティカルなものだと考えてはいない。まず1はDeRoseが示したように、sensitivityそのものはclosureと整合的に展開できる。2、3に関しても、細部をいじればまあクリアできないこともない。3はクリプキが80年代にやった講義で触れて、それは出版されてないのだが、なぜか皆知っている。この講義ノートを誰か持っていないかなあと思っているのだが、認識論者の知り合いが少ないので、まだ見つかっていない。4は、まあ可能世界を使う分析にはいつもついてまわる、例えば可能世界意味論にも同じ問題があることが知られている。だからこれはsensitivity特有の問題というわけではない。

結構決定的だなと思うのは、以下の二つである。

5.高階の信念をうまく扱えない。例えばS knows that S doesn't falsely believe that pが成立しているとする。このときSは当然sensitivityを満たすのでなければならない。しかし、

If it were false that S didn't falsely believe that p, S wouldn't believe it.

は必ず偽である。この条件文の前件が満たされるときは、Sがpを信じているときなので、当然後件は満たされない。といわけで、sensitivityはこの高階の信念をうまく扱えない。

6.S knows that pであるとき、S knows that p or qも真であるということは、トリビアルな条件さえ加えれば、疑いようもない。このことは以下のような、比較条件文からもわかる。

(a) If S knows that p, then S is in a position to know that p or q.
(b) If S knows that p or q, then S is in a position to know that p.

前件と後件の間で、Sのepistemic factor、standardrが同一であるとすると、(a)は真で、(b)は偽である。単純に言えば、これは、pを知るのは、p or qを知るよりも簡単だということである。しかし、sensitivityはこれを反映できない。何故なら、p or qを知るためには、

if it were false that p or q, that is, neither p nor q were true, S would believe neither p nor q.

が真でなければならず、pを知るためよりよりも、一つ条件が増えてしまう。すなわち、より難しくなってしまうのだ。

この5,6は、sensitivityのメカニズムそのものに由来する、かなり根深い問題である。5は確かSosaが最初に指摘して、6は誰だっただろうか。Jonathan Vogelだったかな。いやそれよりも前に誰かいたと思う。

5に関してはDeRoseとTim Blackがそれぞれの論文でなんとか乗り越えようと頑張っている。6に関しては、bite the bulletというか、Closureを否定するなら、そうなるよという論文しか見たことがないのだが、Closureを受け入れたい僕のような人にはあまり役に立たないなー。



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2008年06月30日

Purism:追記

先のPurismの定式化は重大なことを書き忘れていた。あの前に、Sがpを信じている、pが真である、ということが与えられた上で、という条件が必要だった。これらの条件はepistemic factorではないので、これなしでは先の定式化は単純に偽となる。

さらに追記。Keith DeRoseの本が彼のホームページで公開されているとかいたのは大間違いでした。僕の勘違いで、僕が見たのはCertain Doubtsからダウンロードできる部分であり、これはごく1部でしかありません。Fantl&McGrathの本は、Jeremy Fantlのページからダウンロードできます。

http://fleetwood.baylor.edu/certain_doubts/?p=829


広い意味で文脈主義と呼ばれる立場は、「知る」という関係がSとpの間に成立する条件の状況依存性を認める立場と、「知っている」という語の文脈的に変化する真理条件ないし、この語を発話するための語用論的条件に関する立場を含む。これら個々の立場はそれぞれ矛盾する訳ではないので、文脈主義と一言で言っても、実に様々な立場が可能である。さらに最近ではrelativismと呼ばれる立場や、contrastivismと呼ばれる立場も、広い意味で文脈主義と呼ばれるので、ものすごい数の立場が含まれることになる。

しかしこのブログでは文脈主義関係のことばかり書いているな。僕はそればかりやっていると思われるかも知れないのだが、文脈主義というのは、はやりとはいえ認識論の本道ではないし、ある程度真っ当な認識論的研究もしてますよーと書いておこう。真っ当な研究とは、例えば知識にとって重要なepistemic factorとは何かということである。この点に関してどの理論が一番ポピュラーなのかな。新しいという意味ではSafetyかな?文脈主義よりも本当はこの辺の真っ当な話題を先に紹介するべきだなと思う。
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2008年06月28日

Contextualism v.s Subject-Sensitive Invariantism

先ほどの記事で、「Purismと呼ぶ、知識はepistemic factorにスーパーヴィーンするというほとんど全ての認識論者が受け入れてきた見解を否定することになる」と書いたのだが、これは極めてミスリーディングな言い方だと気付いた。もう一度、僕の理解する限りでのPurismをまとめておくと、

(Purism) For all S and p, necessarily, wether or not the relation expressed by a sentence of the form 'S knows p' holds for S and p depends exclusively on the epistemic factors of S, given that p is true and S believes p.

となる。以前の定式化が問題があるのは、「知識」という語の理解の仕方によっては、文脈主義もPurismの否定だととられる可能性があるからだ。文脈主義はPurismと整合的であり、それが文脈主義の一つの魅力である。他方、Subject-Sensitive InvariantismはPurismを否定する。この両者の違いは実に微妙なところで、本職の認識論者でも区別せずに論じることが多い。例えば、Duncan PritchardがStanleyの本の書評を書いたときに、PritchardがあたかもSSIをContextualismの変種であるかのように書いたので、Stanleyが怒り心頭といった感じのコメントを書いたことがある。最近でもいったい両者のどこがちがうんだと有名なブログのCertain Doubtsでいろいろ議論されていた。

今ここで僕の理解を書いておくと、以下のようになる。まずSubject-Sensitive Invariantismという名称そのもの(これはDeRoseが命名者なのだが)がミスリーディングなので、Stanleyの言うInterest-Relative Invariantismという名前を採用して話を進めたい。この立場の含意するImpurismとは、当然Purismの否定であり、それは上記の定式化のexclusivelyを取っ払うことによって得られる。epistemic factor以外にpragmatic factorも重要だというのが、この立場の中核である。

さて文脈主義は、

(Contextualism) the semantic content expressed by 'know' varies from context to context. Then, the relation a token of the sentence 'S knows p' expresses in a context may differ from that which another token does in a different context.

という立場である。したがって'S knows p'という文の真理値が状況aとbで異なっているということの説明を、文脈主義はこの文が表す関係が変化したという点に求める。この際、そうした文脈によって異なる個々の関係をSが満たすかどうか、すなわち'S knows p'のトークンの真理条件はPurismによって与えられる。Invariantismはそもそも文脈主義の否定であり、'S knows p'という文が表す関係は、文脈によって変化しないとする立場である。Interest-Relativismはさらに、真理値の状況的変化の説明を、epistemic factorは一定であると規定されても、pragmatic factorが変化しているという点に求める。従ってImpurismが帰結する。

話がややこしいのは、ContextualismとInterest-Relativismは整合的であり、Contextualist Interest-Relativismは全く論理的に可能な立場だとということである(Interest-Relative Invariantismが端的にContextualismと対立する点は、そのInvariantismでしかない)。しかし、以前の記事で書いたように、この両者を受け入れることはファクターの過剰を招くので、Michael WilliamsとJohn Grecoぐらいしか支持者がいない。この両者にしても、ちょっと上で書いたことに対する理解が怪しいので、どこまでこのキメラ的立場にコミットしているのかは謎である。

Contextualismはあくまで'S knows p'という文のトークンが何を表現するのかということに関するlinguisticな立場であり、Interest-Relativismはどのようなファクターが「知る」という関係をSがpに対して持つことを規定するのかということに関わる、実質的な認識論的立場である。Interest-Relative InvariantismのContextualismに対する反論は、Interest-Relativismを認めれば、そうしたlinguisticな立場にコミットすることなく、これまでContextualismが説明を与えるとされてきた真理値の状況的変化を説明できるということである。

というわけで両者は全く種類の違う理論であり、やはり一緒くたにはできないよなー。ただまあ、認識論プロパー以外から見れば、両者は相当似て見えるに違いない。

実は最近ある雑誌のために書評を書いたときに、スペースの都合上、この辺をぼかして書いて、つっこみがはいらないかどきどきしながら編集者の返事を待っているところである。指導教官のJeremy Fantlにこれまずいですかねと聞くと、まあその両者を一緒にするのは認識論の内部でさえも極めて普通だから、あんまり気にしなくてもいいんじゃないとのことだった。ただStanleyのように気にする人は気にするからなー。




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新刊情報

またもや以前の書き込みから相当時間が空いてしまった。5月に旅行に行ったのと、6月は請け負った仕事や自分の勉強で大忙しで、mixiしか更新していなかった。今も忙しい日々が続いているが、少し息抜きということで…。

来年2009年は認識論内で文脈主義を巡る議論が再び活発になるのではないだろうか。というのも、文脈主義の大立役者であるKeith DeRoseの本"Knowledge, Skepticism, Context"がそれぐらいに出版されると思われるし、文脈主義のライバル一番手、Subject-Sensitive Invariantismの提唱者であるJeremy FantlとMatthew McGrathの本"Knowledge in an Uncertain World"も出版されるからである。これらの本はすでに彼らのホームページでドラフトが公開されているので、興味のある人は是非読んでみて欲しい。

DeRoseらのいわゆる標準的文脈主義はここ20年ぐらいずっと認識論ではホットなトピックだったわけだが、何故かそれについての本が出版されたことはなかった。満を侍してという感じである。Fantl&McGrathも、彼らが提唱した立場は、先にHawthorneやStanleyがそれについての本を書いてしまい、彼らはやや後手に回ってしまった感がある。しかし、彼らの本では、Hawthorne、Stanleyとの違いもいろいろと書かれているので、実に興味深い。

今のところFantl&McGrathの方しか読んでいないが、この本の特徴は過謬主義・不過謬主義の帰結を徹底して追求することにある。そしてどちらをとろうが、その帰結は'mad'であるというパラドキシカルな状況をどのように乗り越えられるかを、実に緊密な仕方で議論していく。

不過謬主義は、もちろん懐疑論と紙一重だし、過謬主義は彼らがPurismと呼ぶ、知識はepistemic factorにスーパーヴィーンするというほとんど全ての認識論者が受け入れてきた見解を否定することになる。この本では、不過謬主義を受け入れたときに生じる懐疑論は、さほどradicalなものではないのではという点も議論されていて、これも実に新しい論点である。

少し褒めすぎかなあ。隠す必要もないので書いてしまうと、Jeremy Fantlというのは僕の指導教官である。この本は僕も校正や、一部の論点にほんの少しだけ協力しているので、普段は口の悪い僕でも、悪口が言えないので困るなあ。

まあそういうことを抜きにしても、両方の本が一級の認識論者の手による刺激的なものであることに間違いはない。認識論の最前線の議論を知りたい人は、読んで損のない内容だと思う。


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2008年04月21日

文脈主義の歴史

文脈主義と言われる立場は認識論でいろいろあるのだが、現在この言葉は基本的にCohen, DeRose, Lewisらによって90年代に提唱された意味論的文脈主義を指すということが、もはや習慣化している。Cohenは88年の論文で文脈主義を議論しており、他の二人よりもやや早い(ただルイスは70年代に既に文脈主義的な認知的様相の取り扱いを提案しており、それが現在の形式意味論に与えた影響は相当に大きい)。

文脈主義の歴史という点では、コーエンよりも早くに似たような立場を肯定的、批判的に論じた人はいろいろいる。比較的有名な文脈主義の先駆者としては、David Annis, Gail Stine, Peter Ungerがいる。しかし文脈主義の基本アイデアというのは比較的シンプルで、実のところ他にも多くの人が同じようなことを考えている。というか、relevant altenatives theoryの支持者のほとんどは、relevanceの基準は文脈的に決定されるというアイデアを一度は論じている。例えば、この理論の提唱者の一人である、AustinやAlvin Goldmanがそうである。Austinは文脈主義的なアイデアを肯定的に捉えているが、Goldmanは否定的だ。他に、少なくとも僕が気づいた限りでMark Heller, David Shatz, Crispin Wrightなどが80年代にすでに文脈主義の萌芽と見なしうるようなアイデアに言及している。またDavid Whiteも91年に極めて独創的な文脈主義の1バージョンを提唱している、彼のアイデアはどちらかというとcontrastivismとの類似性が強いが。

他にはウィトゲンシュタインも文脈主義と見なせるかもしれないが、やはり彼の立場は他と異なりすぎているので、意味論的文脈主義の一立場とは見なせない。彼のアイデアに依拠するMichael Williamsもこの前書いたように統一性のない立場なので、よく分からないところだ。特に後者は、文脈主義を基礎付け主義、整合説の代案としての正当化についての立場として定義しているので、この部分を真剣に受け止めると、これは認識論的性質についての一立場であり、意味論的立場とはいえない。ただまあAnnisも同様の定義を彼の文脈主義に対してしている。

まあ、文脈主義の歴史はWilliamsによれば古代のカルネアデスまでさかのぼるらしいので、その辺まで考慮に入れるとなると、これまた一筋縄でいかないテーマなのだ。

このブログはあまり書いてない割に、毎日ブックマークからとんできてくれる人がかなりの数いるようだ。うーむ、どういうことを書くのがいいのだろうか。カナダの院生生活についてはmixiの方で書いているので、こちらでは哲学の話にフォーカスしているのだが、これで良いのかなあ。


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2008年04月10日

ウィリアムズの文脈主義の奇妙さ

昨年の夏に日本でマイケル・ウィリアムズの文脈主義についての発表をした。ウィリアムズって結構いい加減な考えをしているところが多々あって、統一的に解釈できないというのが内容だった。最近、もう一つ彼の立場の荒っぽさに気づいた。

最近の認識論でよく論じられる問題の一つが、Concessive Knowledge Ascriptionの問題という奴である。それは以下のような発話を指している。Pを何らかのトリビアルな命題としたとき、

「私はPを知っている」

と認識主体は発話することができ、かつそれは真である。しかし、

「私はPを知っている、しかしPは偽かもしれない」

この発話は非常に奇妙に、矛盾しているようにさえ聞こえる。しかし、過謬主義をとるなら、Pが偽かも知れないという可能性は常に存在するのであり、後半の文、「Pは偽かもしれない」も真でなければならない。文脈主義はこの奇妙さを以下のように説明する。文脈主義は、この文に含まれる二つの文の発話、「私はPを知っている」と「Pは偽かもしれない」は両者真であるとみなす。「Pを知っている」という発話はrelevantなあらゆる¬Pの可能性を排除できるということを意味する。しかし、「私はPを知っている」という発話の直後に文脈が変わり、新たな¬Pの可能性がrelevantになる。そしてその変化した文脈で¬Pの可能性を排除できない、すなわちPを知らないということを後半の発話は意味している。このため、両者の発話は異なる文脈でなされたものであり、それらの真理は両立可能である。矛盾しているかのようなみかけは、我々が文脈の変化に無自覚であることから生じる錯覚にすぎない。

文脈主義の対抗馬の一つであるModerate Invariantismは、二つの発話が真であるという点で、文脈主義に同意するが、矛盾のみかけを可変的な意味論的ファクターではなく、語用論的ファクターによって説明する。SはPを知っているということは、排除されない¬P可能性があることと両立可能であり、両者は真である。しかし、「私はPを知っている」という発話は、あらゆる¬P可能性を排除できるという会話の含みをもっており、それが故に続けて「Pは偽かもしれない」と続けることは、真ではあるが語用論的に不適切な発話であり、それがこの発話の奇妙さの原因である。

Moderate Invariantismは文脈主義がうまい説明を与えるとされている事例を同様にうまく説明できると主張する。もちろん、両者は両立可能で、意味論的なファクターと語用論的ファクターは共に知識帰属の際に機能していると言うことはできる。しかし、それは単にファクターの余剰を招くだけであり、倹約原理からいっても、理論的なメリットはない。しかし、僕が思うにウィリアムズは、こうした理論的に不穏な立場にコミットしている。何故なら、彼はルイスの文脈主義的なConcessive Knowledge Ascriptionの説明を批判して、語用論的な説明の方を好むと言うからである。

これは近年彼が最近認めた、彼の文脈主義は真理条件の可変性に関わるという主張と合わせると、彼の立場を極めて怪しいものにしてしまう。このような曖昧さ、余剰さは彼の著作のあちこちにあり、僕は今をもって彼の立場がいまいち理解できないでいるのである。

なお、Timothy Williamsonによるとウィリアムズはこうした現在の議論にほとんど通じておらず、それが彼の立場を不安定にしている理由だろうということを、会話した際に言っていた。
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2008年03月26日

Zotero

個人的なことなのだが、長年使い慣れたSleipnirからFirefoxに乗り換えることにした。数年前にちょっと使ってみて、タグ周りの操作性の違いがいやですぐにやめてしまったのだが、今回はプラグインを導入することで、同じような感覚で使えるようにした。

乗り換えの最大の理由は、Zoteroを使いたかったからである。以前博士論文の計画書を書いたときに参考文献リストをつくるのが非常に面倒だったことから、EndnoteなどのReference Managementソフトを購入しようと最近真剣に考えていた。ところが便利なもので、ほぼ同様の性能のものが無料で手に入るではないか。Zuteroを知らない人は以下のページから宣伝用のフラッシュを一度見て貰いたい。現在まだデータベースを構築している最中だが、はやくも便利すぎて手放せそうにない。

http://www.zotero.org/documentation/screencast_tutorials

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