2010年03月20日

Enriching the Framework of Experimental Philosophy

学会まであと1週間もありませんね。このブログを見てる人が、どれだけ来てくれるのか分かりませんが、とりあえず自分の発表原稿をここに上げておきます。

3週間くらい前に完成して、学会側にも渡していますが、今日一部の文章を修正しました。まだミスがあるかもしれません。1時間の発表としてはやや長いので、本番の発表では、一部をカットすると思います。

今回の学会は質疑応答の時間がないですが、何か質問がある方がいれば、ブログでも、学会の際でも、気軽に声をかけてください。



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2010年03月10日

Joshua Knobeの実験

実験哲学で最も知られた実験は、Joshua Knobeが、

Knobe, J. (2003). Intentional Action and Side Effects in Ordinary Language. Analysis, 63, 190-193.

で行ったものです。この実験をもとに様々な実験が行われており、今度の学会の招待講演者の一人、James Beebe氏の実験も、これを認識論に応用したものです。以下の記述は、学会のプレコンファレンスセミナーでの入門講義用につくったスライドからの抜粋なので、箇条書きですが、Knobeの実験を知るには十分だと思います。

Knobeの実験

目的:意図的行為(intentional action)に関する哲学理論の検証。

行為の副作用(side-effect):ある人物Aが、Xが彼の行動から帰結すると予期しながらも、Xが実際に起こるかどうか関知しないとき、XはAの行為の副作用。

このとき、XはAによって意図的に引き起こされたのか、それともそうでないのか。

被験者:マンハッタンのある公園でくつろいでいた78人の男女。被験者はランダムに以下のケースのどちらかを提示される。

方法:被験者は、会長の行為がどの程度賞賛に値するのかを0から6までの尺度で評価し、かつ彼の行為の環境に関する副作用が、彼が意図的に引き起こしたのかどうかを答える。

改善ケース:

ある会社の副社長は会長のところに行き、「新たなプロジェクトを始めようと考えている。新プロジェクトは会社の利益増大の助けになり、そして、それは自然環境の改善につながる」、と話した。
会長は答えて、「私はそれが環境に良いかどうか全く関知しない、私は単に、できるかぎりの利益をえたいだけだ。新プロジェクトを始めようではないか」、と言った。
彼らは新プロジェクトを開始した。当然の事ながら、環境は改善された。

(ここで、会長は環境改善を意図的に引き起こしたかどうか、考えてください)



有害ケース:

ある会社の副社長は会長のところに行き、「新たなプロジェクトを始めようと考えている。新プロジェクトは会社の利益増大の助けになり、そして、それは自然環境にとって有害となる」、と話した。
会長は答えて、「私はそれが環境に悪いかどうか全く関知しない、私は単に、できるかぎりの利益をえたいだけだ。新プロジェクトを始めようではないか」、と言った。
彼らは新プロジェクトを開始した。当然の事ながら、環境は被害をうけた。

(ここで、会長は環境悪化を意図的に引き起こしたかどうか、考えてください)



有害ケースの結果:82%の被験者が、「会長は副作用を意図的に引き起こした」を選んだ。

改善ケースの結果:77%の被験者が、「会長は副作用を意図的に引き起こしていない」を選んだ。

結果は統計的に有意: χ2(1, N = 78) = 27.2, p < .001.

この実験結果は、クノービ効果、ないし副作用効果、と呼ばれる:道徳的判断が、意図的行為の判断に対してもつ影響。

道徳的に悪い副作用を持つと判断された行為は、意図的だと判断され、道徳的に良い副作用を持つと判断された行為は、意図的でないと判断される。

クノービ効果は、4歳児、インド系移民、 腹内側前頭皮質に損傷をうけた人々においても、観察されている。

クノービ効果の範囲(意図以外の他の心的態度に一般化可能か)や内実(道徳的考察だけでなく、他の類似した考察も同様の効果を持つか)は、実験的記述主義の中心的研究。

クノービの、クノービ効果についての見解は、これらの(彼が中心となって行っている)研究を受けて、かなり変化していますが、ここではこれ以上解説しません。
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2010年02月25日

Craigの社会学的アプローチ

Stichら自然主義者の考える、規範的理論がデカルト以降の第一哲学の残滓に思えると先のエントリで書いたのだが、Stichの1990年の本を読み返していると、最初にまさにそういうことが書いてあった。やはりある意味で、自然主義的認識論は分析的認識論よりも、ずっと伝統に忠実なのだ。

以前から書いているように、実験哲学の一つの意義は、哲学をめぐる方法論的な問いの重要性を哲学者たちに認識させたことにある。概念分析としての哲学という考えは、Frank Jacksonが10年ほど前に改めて定式化し、実験哲学の初期の成果は、彼の本の書評で発表された。この本はWilliamsonの最近の批判のターゲットでもあり、彼のJacksonとのAnalysisにおけるやりとりは、あまりにもJacksonをけなしていて、かわいそうになってくるほど。

しかし、概念分析をしないとすると、どうやって哲学をやったらいいのか。実験哲学者のWeinbergが提唱する方法論は、90年のCraigの本で提出された方法論をモデルにしている。

Edward Craig (1990). Knowledge and the State of Nature: An Essay in Conceptual Synthesis. Oxford University Press.

この本は、知る人ぞ知るという感じで、名著だがあまり読まれることがなかった。従来の認識論の概念分析を批判しつつ、Craigが提唱する方法論は、自然状態から「知識」という概念が何の目的で生まれ、維持されてきたのかという、概念の機能に関する社会的考察を、壮大な思考実験として行う、というものだ。実に斬新なアプローチだが、90年代はほとんど無視されていて、Weinbergは、あまりにも過小評価されていると会ったときに言っていて、僕が読んだことがありますといったら、マジでって感じで驚いていた(相当前に入手して、何故買ったのかを全然覚えていない。一時認識論関係の出版物を手当たり次第に買っていたときがあったので、そのときに買ったのだと思う)。

実のところ、この本が再び脚光を浴びたのは、Weinbergというよりも、認識論のValue Turnの中でである。Craigのアプローチは、「知識」概念の社会的機能に注目するものだが、Value Turnで注目された他の方向性の一つは、我々の実践における知識の機能に注目するというものである。SSIなどは、このアプローチから生まれた立場だ。

実験哲学はSSIが使うケースも批判対象にしていて、論文が幾つか書かれたが、一つの論文は、SSIを矮小化しているというか、SSIの立場が、あるケースに対する直観に依拠するものでしかない、と理解している。これは大きな間違いで、SSIは、直観以外に、この知識の機能の分析に依拠している。この理論的部分が強力だというのが、SSIの魅力である。

どうも、一部の自然主義者は、伝統派を攻撃するだけが目的になっているようなところがあり、それが前から全然自然主義に興味がない理由だった。もうあまり身のない批判はいいから、何か面白い成果を見せてくれよとずっと思っていたが、実験哲学というのは、その点でいろいろ実験してくれるから、面白い。
posted by hakutaku at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月20日

Stichと実験哲学(2)

さらに追加しておこう。Stichは、実験哲学の嚆矢となった2001年の論文で、何よりも分析哲学における認識論を、規範的理論だと見なしている。認識論は、記述的理論、つまり概念分析をやって、知識や正当化といった概念を支配する規則を記述するという側面もあるが、それだけではなく、(例えば、文化、歴史相対的に)複数存在する場合、どれを採用すべきかという規範的判断を行うことを目的とする、規範的理論であるというわけだ。

前の論文の註でも書いたが、僕は昔からこの分析的認識論についての彼の理解が、全然分からなかった。こんな規範的理論を目指している認識論者など、僕の知る限りもはやほとんど存在しないからである。ちょっと前まではいたのかもしれないが、僕からすればこれは大昔の認識論の理想、第一哲学の残滓にしか思えないし、そういう思いはおおむね認識論者で共有されていると思う。

しかし、Stichがこうした理解を持つのは、彼が哲学の方法論の問題ををthe Rationality Debateのにおいて指摘された問題とパラレルに捉えているからに違いない、と最近思い当たった。論理学や確率論というのは、確かにStichの言うような、強い意味で規範的であるように思うし。まさにこうした規範的理論と一般の人々が実際に用いている理論の相違というのが、 Rationality Debateの焦点だったからだ。そして、後者が実際にどのようなものなのかを構築する試みもなされて、Kahneman & TverskyのProspect Theoryが、実際の確率判断の「記述的理論」として提出された。この記述的−規範的理論の相違というのは、それ以来実験経済学でもずっと使われているようだ。これをモデルに認識論における記述的−規範的理論を考えているのだろう。まあ、だからといって、このモデルが認識論に対して正しいということにはならないが。

むしろ、Stichのような理解をしている人は、僕の見る限り、分析的認識論の外から来た人の方が多い。例えば、Susan Haackも、ほぼ同様の理解を認識論に対してもっていて(regulative epistemologyと呼ばれる)、彼女の本

Susan Haack (1993). Evidence and Inquiry, Oxford: Blackwell Publishers. (最近2版が出たが、これは1版)

では、繰り返しこの点が強調される。

ちなみに、Stichの認識論的プラグマティズムというのは、分析的認識論に正直なんら強い影響を与えなかった(なので、僕は読んでいないが、翻訳の惹句は言い過ぎだと思う)のだが、これはこの本が強力な批判を展開したことが理由だ。Stichと共に実験哲学者の立役者の一人であるWeinbergさえ、この本の批判によって、自分は認識論的プラグマティズムを支持しないと、ある論文で書いている。

なお彼女の立場、Foundherentismというのも、ほとんど影響を与えなかった。僕はこの立場が従来のものとどう違うのか、いまいち理解できない。しかし、この本は名著であり、認識論、とくに基礎付け主義と整合説の問題を勉強する人は必読である。Stichの本も翻訳されたし、誰かが翻訳すればよいと思う。

さらに言うと、

Michael A. Bishop and J.D. Trout (2005), Epistemology and the Psychology of Human Judgment, Oxford University Press.

も、同じように認識論を強い意味で規範的と解釈して、自然主義的観点からよりよい規範を探求するという内容だ。Stichにしてもこの本にしても、自然主義的でない現行の分析的認識論に対してかなり批判的なわけだが、彼ら自身のプロジェクトは、分析的認識論がもはや失った、第一哲学という実に古い認識論の伝統を引き継いでいるように見える。

日本で分析系認識論は人気がないが、自然主義的認識論は人気があると思う。近年の自然主義的認識論における指導的哲学者たちの中では、StichとKornblithはすでにかなり知られているようだから、残る大物はこのBishopしかない。この人はStichの盟友のような感じで、Stich and His Critics編集者でもある。そして、Stichもこの本の書評を書いている。

でも本音をいうと、自然主義的でない分析的認識論も面白いんだぜ、ということを言いたいなあ。このブログは、そのために始めたんだけど、どこまでこの狙いを達成できているかは、謎だなあ。分析的認識論を研究している人がいたら、是非交流したいんだけどな。
posted by hakutaku at 18:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 実験哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Stichと実験哲学(1)

実験哲学の方法論というのは、明らかにKahneman & Tverskyらの、Biases & Heuristics Approachをモデルに構築されている。これは、やはり彼らの一連の実験によって引き起こされたThe Rationality Debateの参加者であり、実験哲学の創始者でもあるStichの影響が大きいだろう。実験哲学には幾つか立場があるが、方法論は皆共通している。

The Rationality Debateは今でも継続しているが、まあ初期の頃に問題だった、人間の合理性を、経験的に反証できるのかというCohenによって提唱された問題は、できるということでけりがついている。Cohenは、できないという答えを擁護したわけだが、その際に彼が使ったのが反省的均衡に訴える戦略である。実験哲学者は、哲学の方法論を反省的均衡として定式化することが多いが、これもThe Rationality Debateの影響だろう。この辺りの事情は、今ではもう古典の部類にはいるが、以下の本が詳しい。

Stein, E. (1996). Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and. Cognitive Science. Oxford: Clarendon Press.

Cohenは、Stichの1990年の本にも、彼がKahneman & Tverskyに対して行ったのと、(より穏当だが)類似の路線の懸念を表明している。

実験哲学の中でもStichらがとっている、実験的制限主義という立場は、一番ラディカルなので、いろいろと論争を呼んできた。しかし、僕がややつまらないなと思うのは、この立場への反論のほとんどが、The Rationality Debateで既に提示された反論のパターンの範疇を超えていないということだ。例えば、非哲学者の直観よりも、職業的哲学者の直観が重視されるべきだ、とするいわゆるExpertise Defenseというのは、まあThe Rationality Debateでも見られたタイプの反論である。反省的均衡の観点からすると、これは哲学理論を反省的均衡にかける際に、いわゆる一般人の直観と職業的哲学者の直観のどちらの均衡を重視するのかというという問題に、後者だと答えることに等しい。

Alexander, J., & Weinberg, J. M. (2007). Analytic Epistemology and Experimental Philosophy. Philosophy Compass, 2(1), 56-80.

では、この立場をintuition elitismと呼び、前者だと答える立場をintuition populismと呼んでいる。彼らは言及していないが、これらの用語は明らかに、

Thagard, P. (1982) From the Descriptive to the Normative in Philosophy and Logic. Philosophy of Science 49:24-42.

という、the Rationality Debateに関わる論文に由来している。Thagardは、この論争で問題だった合理性関する理論(論理学、確率論)を反省的均衡にかける際に、専門家の直観との均衡を重視する立場を、elitist strategyと呼び、一般人(非専門家)のそれを重視する立場をpopulist strategyと呼んでいる。

Thagardの分類では、Cohenはpopulist strategyの論者であり、事実これこそ、一般人の直観が確率論の規則に合致しないことが、一般人の合理的でないと言う理由にはならない、という彼の論点の基礎である。簡単に言えば、合理性についての理論は、一般人の直観とおおむね合致するべく立てられるべきであり、後者が前者の基準であって、逆ではない。

面白いのは、Thagardがelitist strategyの論者として挙げるのが、

Stich, S. P. & Nisbett, R. E. (1980) Justification and the psychology of human reasoning. Philosophy of Science 47:188-202.

だということだ。この論文の内容は、専門家の直観が論理学においては重視されるという立場である。Stichはthe Rationality Debateにおいて、Expertise Defenseを擁護していたのだ!これは、実験哲学における彼の立場と真逆である。まあ、問われている理論が、論理学と哲学と全く違うし、かなり昔の論文なので、立場も変わっているだろう。しかし、これはなかなか面白い話である。今度の学会で彼と話すだろうから、是非この辺を聞いてみたいと思っている。


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2010年02月12日

ダライ・ラマと中国

あまり哲学以外の話をここで書く気はなかったのですが、これは多くの人に知っておいて貰いたいな、と思ったので。

去年の秋に、僕の住むカナダ、カルガリー市にダライ・ラマが来ました。市を挙げて歓迎し、いろいろなイベントがありました。そのときに、うちの大学も彼に名誉学位を授与するなどしたようです(全然知らなかったですが)。なんとこのせいで、最近中国がうちの大学を国公認の海外大学から除くという決定をしました。今後はうちの大学で取得した単位は中国では認められないということですし、現在うちの大学には中国からの留学生がかなり多いのですが、彼らの既存の取得単位も今後どうなるか分からないという状況です。これは、いくらなんでもひどいなと思うので、多くの人に知って貰いたいと思います。

詳しくは以下の記事をお読みください。

China removes accreditation from University of Calgary after Dalai Lama honour

Chinese ministry warns against attending University of Calgary

Alberta hopes diplomacy could soon restore U of C to Chinese list
posted by hakutaku at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月11日

マクダウェルとSSI

ジョン・マクダウェル(John McDowell)は、subject-sensitive invariantismにコミットしている。このことは全く知られていないが(MacFarlaneがある論文で、言及しているだけ)、その理由は、彼がこのアイデアを論文の註で言及しただけで、本格的に展開しなかったためだろう。彼の論文、Knowledge by Hearsay (in Meaning, Knowledge, and Reality, Harvard University Press, 1998)の註24が、問題の註である(この論文は、SSIが台頭する以前の1993年に書かれている)。

Note that the standards can depend on what is at stake. Consider again the case of the child at school. If nothing turns on it, we might casually credit her with knowledge of the arrangement of the furniture in the living room of her house. But if we tell the story so that something that matters a great deal to her depends on whether she is right, it may become doxastically irresponsible for her to vouch for the layout’s being as she recalls it to be. In such circumstances, it starts to be significant for her epistemic status that her parents may have moved the furniture, and she is in a position to know that that kind of thing does happen. (Knowledge by Hearsay, fn 24, p. 429)

SSIにはいろいろヴァージョンがあってややこしいのだが、ここではFantl&McGrath,Stanley, Hawthorneのヴァージョン全てに共通する、「どの程度のepistemic statusが知るために要求されるのかという知識の基準は、認識主体にとってのstake、つまりpragmaticな関心によって変動する」、というアイデアが明確に書かれている。違いは、マクダウェルは、知識の必要条件を、認知的責任を持つこととみなす、正当化についての内在主義的でdeontologicalな見方をとっていて、この認知的責任がepistemic statusの少なくとも1要素だとする、という知識論を採用しているところ。一番近い立場は、伝統的な内在主義者のFantl&McGrathのヴァージョンのSSIだろうな。でも彼らは認知的責任については、何も語っていない。

さらに言うと、マクダウェルは正当化についての内在主義者で、正当化には証拠を(内在主義的な形で)持つことが要求されるとする、証拠主義者である。しかし、彼は、証拠の同一性基準として、認識主体の主観的弁別性ではなく、外的条件をとる、証拠についての外在主義者である。正当化の内在主義と、この意味での証拠の外在主義は、両立可能な立場である。マクダウェルが認識論内で誤解され続けたのは、証拠の外在主義というのが斬新すぎて、ほとんどの人が思いつきもしなかったのが理由だ。例えば、正当化についての外在主義者も、ほとんど皆、証拠についての内在主義者である。現代の認識論で証拠を巡る議論が整備されたのは最近で、Williamsonの登場以降である。やはり、彼の認識論への貢献はとてつもなく大きい。WilliamsonのKnowledge and Its Limitsは、DeRoseがここ数十年の認識論関係の著作で卓越していると評していたが、やはりそうだと思う。ただこの本は、ほんとに読むの苦労するのだ。

閑話休題。SSIも文脈主義と同じく、哲学史のあちこちに顔を覗かせる。しかし、SSIが一哲学立場として確立するのは、何より上述の支持者達が、pragmaticなファクターが知識に影響を与える、ということを説得的な論証で示したからである。そうした論証なしのアイデアの披瀝というのは、哲学ではあまり重要ではない。でも、こういうのを調べるのが、哲学史の面白さの一つではある。

この註は、2年くらい前にマクダウェルを勉強し直しているときに見つけ、Fantlに報告して、面白いコメントが聞けたのだが、無許可で書くのも問題なので、ちょっとここでは書けない。申し訳ない。

というわけで、有名人と文脈主義シリーズの2回目。正確に言うとSSIは文脈主義ではないが。
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2010年01月29日

実験哲学からの挑戦

実験哲学で検索してうちのブログを見てくれた人が最近随分います。おそらく、実験経済学・哲学の学会の情報をかなりの人が知ってくれたからだと思います。

といっても、うちのブログは今まで実験哲学のことは全然書いていません。申し訳ないので、去年に応用哲学会で発表するために作成した論文をアップすることにしました。実験哲学の立場の一つである、実験的制限主義とその批判的検討が主題です。この論文は、最終的に学会誌に投稿することを意図していましたが、当時いろいろと不満な点があり、一年近く放置していました。あまり手直しもしていませんが、この一年でまたいろいろと論文が出ましたので、それらの情報を盛り込み、幾つか註を追加しました。まだ文章、内容面で完全なものとは言えませんが、実験哲学をこれから勉強したいという人には、それなりに役立つと思います。

この論文の内容は、

1、実験哲学内の立場の一つである、実験的制限主義を巡る議論のサーヴェイ。
2、直観の認識論のサーヴェイ。
3、実験的制限主義の批判的検討。

となっています。実験哲学についてはすでに幾つかサーヴェイが出ていますので、一応それら以上のものしようと頑張りました(他のサーヴヴェイは数年前に書かれていて、展開の早い実験哲学のサーヴェイとしては、やや時代遅れになっています。この論文は、現在入手できる限りで最新の文献までフォローしているので、2010年1月現在で、最もuptodateなサーヴェイになっていると思います)。また、実験哲学を巡る議論を理解するには、なにより直観がどのような認識論的役割を持っているのかを知る必要があります。このトピックは現在の認識論のホットトピックの一つなので、それについてかなり詳しく書き、結局サーヴェイ内サーヴェイという感じになってしまいました。サーヴェイばかりではオリジナリティがないので、一応最終節で自分の意見を書いています。

実験哲学の一立場に焦点を合わせていますので、実験哲学一般のサーヴェイとしてはやや不完全です。特に、実験哲学の立役者の一人、Joshua Knobeの実験と、それに関する議論については、註で文献を挙げているだけで、それについての記述がまったくありません。この実験は、次の学会の招待講演者の一人、James Beebe氏のやった実験のもとになっているものなので、いずれこのブログか、どこかできちんと紹介します。

この論文はまだ一部未完成なので、引用や転載を原則禁じます。もしそういうことをしたいという方がいれば、連絡してください(連絡はコメント欄か、僕の大学のホームページからメールでお願いします)。質問やコメントは歓迎しますが、答えられない場合もありますので、ご寛恕ください。

PDFをブログ上に埋め込んでいます。一番右上のアイコンをクリックすると、全画面表示になります。



posted by hakutaku at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 実験哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最近の入門書

「文脈主義を学ぶひとのために」は、なかなか評判が良かったみたいで嬉しい限り。あそこで書き忘れたのだが、文脈主義の勉強をするためには、そもそも認識論を知っていないと、なかなか難しい。認識論の入門書はこのブログで幾つか紹介してきたが、今まで紹介してなかったものを幾つか紹介。僕は入門書マニアなので、こういうの書くのは楽しくて仕方ないなあ。

Duncan Pritchard, What is this Thing Called Knowledge? (Routledge, 1st ed. 2006, 2nd ed. 2009)

認識論の知識が全くないという人は、とりあえずこの本からがいいかもしれない。学部1回生向けなので、記述は簡単だが、いろいろ面白く読めるように工夫されている。2000年以降の認識論の動向も抑えられている。しかし、2006年に1版が出て、もう2版である。最近の認識論の流れの速さを象徴しているなあ。僕は2版は読んでいないが、どこが変わっているのかな?

2版といえば、この入門書も最近2版が出た。

Laurence BonJour, Epistemology: Classic Problems and Contemporary Responses. (Rowman & Littlefield, 1st ed. 2002, 2nd ed. 2009)

この本は学部中級向けの入門書。これまた1版しか読んでいないが、なかなかいい。

同じく学部中級向けで、もう少し詳しく個々の哲学者の見解に焦点を合わせたものが、これ。Cambridge Introduction to Philosophyというシリーズの1冊で、このシリーズはどれをよんでも結構いい。

Marcelino Lemos, An Introduction to the Theory of Knowledge. (Cambridge University Press, 2007)

現代の分析系認識論にある程度知識があるという人、またはあまり詳しくならなくても手っ取り早くいろんな立場を知りたいという人には、ここでしばしば言及しているFeldmanのやつか、これ。

Duncan Pritchard, Knowledge. (Palgrave Macmillan, 2009)

いろんな立場(かなり新しいものも含む)が簡素に整理されていて、薄いが充実している。しかし、Pritchardは短期間に2冊も入門書書いてるんだなあ。あいかわらずの仕事量。僕は数年前までかなりのPritchard好きで、彼の著作、論文を全部読んでいたが、最近追いつかなくなってきた。ほんとにすごい仕事量だ。

同じように薄いが、内容的にかなりディープなのが、これ。

Linda Zagzebski, On Epistemology. (Wadsworth Publishing, 2008)

Zagzebskiは徳認識論の第一人者。日本では徳認識論者といえばSosaが有名だと思うが、Sosaの徳認識論は信頼性主義の変形にすぎなくて、あまり徳認識論というネーミングが相応しくない(ただし、最近立場が変わって、ややZagzebskiのアイデアにやや近づいた)。彼女は、知識の価値を巡る認識論の展開(Value Turn)を牽引した一人としても有名。この本も、知識の価値というトピックが詳しく書かれている(Pritchardもその一人で、彼の入門書にもこのトピックは入っている)。


あとはやはりアンソロジーを入手して、トピック別にまとめられた論文を解説と共に読む、というのが勉強にはいいと思う。こちらの大学の学部生向け認識論のクラスで、最も使われる(と思われる)教科書はこれ。

Ernest Sosa, Jaegwon Kim, Jeremy Fantl, and Matthew McGrath, Epistemology: An Anthology. (Blackwell, 2nd ed 2008)

一昔前の1版とはだいぶ論文が変わっている。最大の違いは、ここ最近のホットトピック、文脈主義と知識の価値が項目として加えられたこと。前者に関しては、MacFarlaneの相対主義(relativism)の論文まで入っている、ちょっと未来に行き過ぎの感じ。知識の価値は徳認識論とまとめられているのが、ちょっと不満だな。

知識の価値はプラトン以来の問題だし、この問題から入ると、何故知識が哲学の問題になるのか、という点を理解してもらいやすく、認識論の入門には一番いいのではないかと思っている。去年非常勤で認識論を教えたときに、このトピックが入ったアンソロジーを探したのだが、新しすぎるのかなかなか見つからなかった。ようやく見つけて教科書にしたのが、これ。

Duncan Pritchard, and Ram Neta, Arguing About Knowledge. (Routledge, 2008)

僕が教えたかった他のトピック、何が証拠になるのか、信念の倫理、基準の問題、などが入っているのもいい。この本のトピックの分け方は、かなり最近の認識論の流行を反映したものになっている。また、懐疑論のところに、何故かボルヘスの「円環の廃墟」が入っているのも、個人的に好ましい。
posted by hakutaku at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

クワインと文脈主義

クワインの認識論、すなわち自然化された認識論には、日本語でも英語でも多くの論文が書かれたきた。今更僕ごときがそれらに付け加えるようなことはないが、一つ指摘できることがあるとすれば、クワインのかなり独特の知識観を知るには、彼の辞典、『Quiddities: An Intermittently Philosophical Dictionary』がよい手がかりになるということだ(僕の知るクワインの認識論に関する論文で、この本にまともに言及した論文はない)。

そして、クワインのそこでの見解は、文脈主義者たちの見解とある種の親近性を示すと共に、やはりかなり距離があるという、極めて独特のものになっている。まず、クワインは、「知る」という語について、以下のように述べる。

We do better to accept the word ‘know’ on a par with ‘big’, as a matter of degree. It applies only to true beliefs, and only to pretty firm ones, but just how firm or certain they have to be is a question, like how big something has to be to qualify as big. (p. 109)

ここでクワインが指摘しているのは、「知識」という語が、段階的形容詞と類似の性質(彼が曖昧さ(vagueness)と呼ぶ性質)を持ち、「大きい」がある対象に正しく適用されるためにどの程度それが大きくなければならないのかに関する明確な基準存在しない(ように見える)のと同じように、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるために、pがSにとってどの程度確実、ないし確固(firm)でなければならないのかに関する明確な基準が存在しない(ように見える)、ということである。

しかし、同時にクワインは、「知る」と段階的形容詞には相違があるとも指摘する。

There is no place in science for bigness, because of this lack of boundary; but there is a place for the relation of bigness. Here we see the familiar and widely applicable rectification of vagueness: disclaim the vague positive and cleave to the precise comparative. But it is inapplicable to the verb ‘know’, even grammatically. Verbs have no comparative and superlative inflections,... (ibid.)

段階的形容詞の曖昧さは、比較級を使うことで解消することができるが、「知る」は形容詞ではなく、語尾変化しないので、比較級や最上級を作ったりできない。この考察から、クワインは驚くべき提案をする。

[追記]ここでさらにクワインは、「大きい」という語は、科学内に居場所を持たないと指摘している。しかし、大小関係は、科学内に居場所をもつ。ここでの比較級への言及は、おそらく、特定の大きさを基準に、それより大きいか小さいか、つまり比率尺度で測定できるということを念頭に置いている。以下の「知る」の消去主義は、やはりクワインの自然主義が根底にあり、「知る」に対しては比率尺度が使えないので、(科学の一部としての)認識論には居場所がなく、それが使える「確実性」や「正当化」という概念だけで、認識論はやっていくべきだ、という提案である。

I think that for scientific or philosophical purposes the best we can do is give up the notion of knowledge as a bad job and make do rather with its separate ingredients. We can still speak of a belief as true, and of one belief as firmer or more certain, to the believer’s mind, than another...

These reflections perhaps belong in their rudimentary way to the branch of philosophy known as epistemology, or the theory of knowledge. Rejection of the very concept of knowledge is thus oddly ironical. (ibid.)

つまり、語尾変化しない「知る」では、どの程度知っているのかということを正確に語ることができないので、認識論は「知る」、ないし「知識」という語を使用することを、やめるべきである、とクワインは結論しているのだ。

ここでのクワインの議論には、ある程度文脈主義と類似点がある。

まず、「知る」と段階的形容詞がクワインのいう曖昧さを持つということは、文脈主義がしばしば用いるアナロジーである。文脈主義者は、この曖昧さは両者が文脈依存的表現だからだとみなす。そしてもちろん、ここから、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるための基準は、文脈によって設定されるとする。

ここのクワインの考察は、こうした文脈依存性とは無関係に成立するが、なにより奇妙なのは、クワインがこの考察から、pをSが知っていることそのものが、程度問題(as a matter of degree)としていることだ。つまり、二人の認識主体S1とS2が同一の命題pに対して、一方が他方よりもよく知っている、ということがあると言っている。ここでのクワインの議論には問題がある。pがSにとってどの程度確実であるのかということには程度があるとしても、Sがpを知っていることに程度があるということは帰結しない。文膜主義者がよくやるように、

S knows p only if S is certain that p, to a sufficient degree.

として、確実さには程度があり、どの程度の確実さが知るために要求されるかは曖昧だが、知っていることそのものには程度はない、と考えればいいからである。事実、こうした命題的知識に程度があるという見解は、現代の認識論ではかなりマイナーな考えであり、Hetheringtonくらいしか支持者がいない(そしてこの人は、僕が認識論マイナー大賞というのがあれば、受賞確実だと思うぐらい、いろいろな非標準的な見解で知られている人である。ただし、彼の見解は別段トンデモではなく、真剣に考察するに値する)。

クワインは、「知る」と段階的形容詞の相違に注意を向け、前者が後者と異なり、曖昧さを除去するための構文論的装置(語尾変化)を持たないと指摘する。「知る」と段階的形容詞の構文論的、意味論的相違というのは、Stanleyが近年詳細に調査し、相違がありすぎるために、文脈主義の依拠するアナロジーは成立しないと結論している(この路線の批判は、過去文脈主義に向けられたもので最も直接的であり、強力である。いまだStanleyに対する、これだという応答はでていないが、Blome-Tillmannなどが頑張っている)。ここでのクワインは、かなり単純な仕方でだが、同じようなことをやろうとしている(ただし、ここのクワインの議論は、やや単純すぎると思う。ここでの指摘は、「知る」と段階的形容詞の相違というより、動詞と段階的形容詞の相違を指摘するものにすぎないからである。まあ、これだけでもクワインのここでの目的には十分なわけだが)。

さらに、クワインの結論、「「知る」の曖昧さは除去できないので、認識論からこの語を消去すべきだ」、という消去主義の提案は、ある程度文脈主義の主張に近い。ここまでラディカルなことを言う文脈主義者はいないが、彼らは一様に、「知る」の曖昧さ、あるいは多義性が、様々な認識論的問題を引き起こす原因だとし、その点が明確になればこれらの問題は解消されるとする。つまり、彼らは、「知る」を消去しろというところまでいかないが、少なくとも曖昧さを除去すべきだという点で、クワインに同意するはずだからである。

文脈主義的な主張は、哲学史のあちこちに現れるが、これからも機会ががあれば、触れていきたい。
posted by hakutaku at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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