2007年10月25日

John Hawthroneの”Knowledge and Lotteries”

John Hawthroneの”Knowledge and Lotteries”という本は、まあここ数年の認識論の本の中では、Timothy Williamsonの”Knowledge and Its Limits”と共に一番話題になった本である。この本の中心問題は、Jonathan Vogelが提示したlottery propositionsと呼ばれる、一群の命題が引き起こすパラドキシカルな問題(Lottery Problem)である。この問題に対する様々な立場を分類し、彼が選び出した認識論的立場に対する諸制約をどれだけ満たせるのかという観点から、それぞれの点数表をつけていく。まず、Lottery Problemとは以下のような問題である。

1.Sは来年アフリカに行くだけの経済的余裕がないと知っている。
2.ある人が来年アフリカに行くだけの経済的余裕がないという命題は、その人が最近買った宝くじに当たらないという命題を含意するとSは知っている。
3.Sは彼が最近買った宝くじに当たらないと知っている。

1はどう考えても真に思えるし、2はトリビアルな含意を知っているということなので、真だとすることに何の問題もない。問題は3で、1、2と閉包原理から簡単に導けるにもかかわらず、これを肯定することは難しい。宝くじの当選番号が公表される前に、それを知ることは不可能だと思えるからだ。しかしもし3が偽であるとなると、同じ推論を逆にたどって、1か2を否定するしかない。2を否定することは難しい、すると1が偽なのだろうか?同種の議論は様々な命題に対して構成できるため、1を否定することは伝統的懐疑論に負けず劣らず、我々の想定する「知識」に対して破壊的な帰結を持つことになる。

この問題に対する対処方法は、Hawthroneによれば4種類しかない。

a.文脈主義
b.懐疑的不変主義(skeptical invariantism)
c.穏健な不変主義(moderate invariantism)
d.鋭敏性不変主義(sensitive invariantism)

Hawthroneの採点表ではdの立場が最も高得点になる。この立場は、最初にJeremy FantlとMatthew McGrathによって提唱された(“Evidence, Pragmatics, and Justification", The Philosophical Review 111:1, 2002)。現在ではこの二人の他にJason Stanleyによって強力な論戦が築かれている。この立場の詳細は後日解説するとして、ちょっと興味深い事実を報告しておこう。

この本を出版する前、Hawthroneはbに焦点を合わせたいと思っていたらしい。確かに彼はFantl、McGrathと異なり、3は偽でしかあり得ないという強い考えを持っているように見える。この考えは実はdの立場と相性が悪くて、bに簡単に陥ってしまう。彼がdによりページを割いたのは、編集者からの要請だったようで、僕にはこの辺りに彼の揺れ動きが見えるような気がする。

なお、現在のHawthroneはdの立場も捨ててしまったようだ。どうも徳認識論的なアプローチをとっているらしい。徳認識論からのLottery Problemの対処はJohn Grecoがいろいろと論じているが、それに近い立場ではないだろうか。この転向に、彼の元同僚で、dを一緒にもり立てたStanleyはかなり気が食わないといった感じらしい。

カナダに来て面白いことの一つは、こういうゴシップ話が聞けることだなあ。

posted by hakutaku at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月13日

ドイツの分析系認識論

最近はドイツでも分析系の認識論がさかんになってきているようだ。学会も数多く開かれているし、それが本になって出版されている。また、分析系認識論の入門書もいろいろと出版され、なかなか土台が整ってきているのではないかという印象を受ける。

僕はかつてドイツ哲学をやっていたとはいえ、2001年3月以降、ドイツ語の論文は一つしか読んでいない。しかし、最近こうした状況を見るにつけ、再びドイツの論文を読んでみたいという思いになってきた。ただドイツの認識論者の論文は英語で書かれたものを最近いくつか目を通したが、やはり英語圏のものに比べると、平均的レベルは低い。

ここで何人か僕の気になるドイツの分析系認識論者を挙げておこう。Gerhard Ernst、Thomas Grundmann、Antonia Barke。この3人の中では、Antonia Barkeの論文がもっとも興味深かった。従来の文脈主義に変わって、epistemic contextualismと彼女が呼ぶ、新しい立場を出そうとしている。ただ、これはコメンタリーで指摘されているように、彼女が考えているほど既存の文脈主義と異なってはいない。彼女は最近英語で本を出版して、非常におもしろそうなので、今注文しているところである。Thomas Grundmannは、Michael Williamsの批判論文を書いていて、まあだいたい正しいが、あまり面白みのない批判をしている。彼は他にもいろいろ書いているようで、もう少し読んでみたい。Gerhard Ernestはかなり大御所っぽいが、他の人の論文に対するコメンタリーしか読んでないので、彼の本も読みたい。

しかし今の僕のドイツ語力はおそらく学部生の頃よりもないので、彼らのドイツ語の著作を読むためにもう一度勉強し直さなければならない。かねてせっかく勉強したドイツ語を完全に忘れるのはいやだなと思っていったので、これはいい動機になる。

こう考えると、日本でももう少し分析系認識論がさかんになってもいいのにな。だれか入門書でも翻訳しないかなあ。ただ21世紀に入ってから、いろいろと新しい立場が現れ、これらをすべて網羅するような入門書はこちらにもまだない。もうすぐBlackwellから、"Companion to Epistemology"と、"Epistemology: An Anthology"の第二版が出るが、これは結構最近の動向を反映したものになるはず。1版も数年前に出たばかりだが、もう大幅に変えなければならないほど、最近の動向はめまぐるしいということか。ただどちらも入門書ではなく、前者は辞典で、後者は論文集。前者は、かなりつかえます。認識論関係の辞典でよりコンパクトなものがほしい人は、Duncan PritchardとMartijn Blaauwの"Epistemology A to Z"もいい。これはPhilosophy A to Zというシリーズの1冊だが、このシリーズは便利。
posted by hakutaku at 15:44| Comment(2) | TrackBack(1) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

知識の価値と文脈主義

2000年に入ってからの認識論の中心テーマは、ほぼ二つに絞られる。一つは文脈主義を巡る問題、もう一つは知識の価値の問題。この両者は実におもしろい関係にある。

知識の価値という問題は、プラトンが知識を扱う際に取り上げたもので、知識が真なる信念よりも価値あるものとすれば、いったいその価値は何に由来するのかという問題。この問いは古代ギリシャ以後忘れ去られて、近年ようやく再発見された。いわゆる徳認識論などもこの問題に対する一つのスタンスとして理解されることが最近は多い。この問題はまた、真なる信念だけでなく正当化された真なる信念と知識の価値的相違の問題として扱われる。

さてこの知識の価値問題に対するプラトンの答えは以下のものだ。

ダイダロスの作品を所有していても、それが縛りつけられていないならば、ちょうどすぐに逃亡する召使と同じことで、あまりたいした値うちはない。じっとしていないのだからね。しかし、縛りつけられている場合は、たいした値うちものだ。なにしろ、たいへん立派な作品だから。(中略) 正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっているあいだは価値があり、あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない--ひとがそうした思わくを 原因(根拠)の思考 によって縛りつけてしまわないうちはね。(中略) 知識は、縛りつけられているという点において、正しい思わくとは異なるわけなのだ。 [『メノン』、藤沢令夫訳、岩波文庫、1994年、109-110]

簡単に言えば、知識は単に真なる信念よりも安定していて、簡単に消え去ったりしないということである。それ故、長期的に(知識に基づく)行為の成功を保証することができる。

さて文脈主義は、「SはPを知っている」という文のトークンは異なった真理条件、そして真理値を持つという立場である。この立場によれば、ある文脈でこの文のトークンが真であっても、文脈が変われば、別のトークンは偽である。これをmaterial modeで表現すれば、Sは文脈に応じては知識を有したりなくしたりするということになる。これはプラトンの見解と真っ向から対立するわけだ。

ただまあ、最近知識の価値問題に取り組んでいる人たちは、このプラトンの見解には全然コミットしていない。プラトンの知識観は現代の感覚からすると相当おかしいので、まあ仕方がない。ただプラトンの洞察の1部は、近年の議論でもさかんに援用されている。ただ僕はこの問題はあんまり勉強してないんだよなー、全く不勉強だなあ。
posted by hakutaku at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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