2010年01月18日

書評(2)

5. p. 75で、この論文の目的が、アンガー流の不変主義が今なお有力な選択肢であると示すことである、と設定される。これに続いて、文脈主義と不変主義の争点は、主に

A 懐疑論に対する解決力
B 知識論としての自然さ

だと述べられる。僕はこの2点が争点だとは全く思わないが、それ以上に、この2つは何を言いたいのか分からない。まず、アンガー流の不変主義というのは、懐疑論を含意する立場であり、そもそも懐疑論を解決できないという立場である。だから何故Aが問題になるのか分からない。次に、文脈主義と不変主義は、「知る」の意味論的内容が文脈依存的かどうかという点に関する、意味論的立場であって、その意味論的内容とは何かという問いに答えるものではない。後者に対して、知識ないし知識概念の分析によって答えを与えようとする認識論の一分野が、知識論と通常呼ばれるものなので、何故Bが問題になるのか分からない。

[追記]このBを著者は最近のDeRoseが重視しているとp. 78で述べ、DeRose 2002, 2005への指示がある。この2005年の論文は、参考文献に何故か載っていないが、"The Ordinary Language Basis for Contextualism, and the New Invariantism," The Philosophical Quarterly 55, 172-198 である。この論文を読み返したが、DeRoseの言う自然さとは、我々が様々なケースでの知識帰属に対して持つ直観をいかに自然に説明できるか、という観点である。確かにこの観点は、知識論の構築にも重要だが、DeRoseは主体鋭敏性不変主義との対立でこの観点に言及しており、やはりこれを知識論としての自然さとは読めない。

6. p. 78によると、Bは、我々が通常行っている「知る」の用法をどれだけ忠実に表現しているかに関わるとされる。この「知る」の用法というのは、語用論的な使用に関わるのか、使用の際に、知識帰属の意味論的内容を決定する意味論的メカニズムに関わるのか、意味論的内容そのものに関わるのか曖昧である。なので、筆者がBで何を意味しているか、不明である。

[追記]DeRose(2005)によると、これは知識帰属に関する我々の直観のことである、やはりこれを「用法」と記述するのは不正確である。

7. p. 79で、文脈主義の問題点として、Yourgrauの意見が言及されているが、これはDeRoseが1996年の論文で、すでに答えている(ただし、DeRoseのこの論文を著者は参照していないので、知らなかった可能性もある)。また正確に言うと、Yourgrauの意見は、relevant alternatives theoryに向けてのもので、文脈主義に直接向けられたものではない。

8. p. 80から、この論文は意味不明度が格段に上がる。まず、ここ著者が説明し始める立場(通常、Warranted Assertability Maneuver、略してWAMと呼ばれる)は、穏健な不変主義のヴァージョンである。ところが、p. 81で、「「古典的不変主義」――(中略)アンガーが最初に述べ、ここまで説明してきた立場(アンガー流不変主義)――(中略)を文脈主義に対する真の脅威」とDeRoseが認める、と書かれる。まず、古典的不変主義とは何なのか不明である。通常この語は、穏健な不変主義を指すと思うのだが、ここではそれがアンガー流の懐疑論的不変主義と同一視されている(まあ、これは単に操作的定義だと考えればいいのだが、それだと、何故ここでわざわざ今まで使っていたものに加え、同じ意味の新たな語を導入する必要があるのか分からない)。3で述べたように、DeRoseは懐疑論的不変主義を脅威だとは認めず、彼の言う古典的不変主義とは、穏健な不変主義を指す。

(追記)著者が不変主義をどう捉えているかが不明確で、混乱させられたが、おそらく細かい立場の区分がそもそも出来ていないのだと思う。僕の印象では、明らかにそれ由来の区分を使っているのに、Hawthorneの本をきちんと読んでおらず、二つの不変主義の違いが理解できていないのだと思う。

9.著者が何故こうも勘違いしているのかを註3,4を手がかりに考えると、おそらく以下のような推論をたどったのだと思う。

古典的不変主義」は、不変主義の初期の代表者が支持した立場に違いない。不変主義は、アンガーによって最初に明確に定式化された。だから、アンガーの不変主義は、古典的不変主義である(アンガー流不変主義=古典的不変主義)。アンガーの立場は、懐疑論的不変主義である。だから、アンガー流不変主義=古典的不変主義=懐疑論的不変主義が成立する。

最初のステップが誤りで、古典的不変主義という名称は、文脈主義登場以前に懐疑論を批判した哲学者たち(80年代までの分析系認識論者も含む)が暗黙裏にコミットしている不変主義を指すものとして使われる。そして、この立場はアンガーの懐疑論的不変主義ではない。DeRoseが、この立場を古典的と呼ぶのは、直接的には、このヴァージョンの不変主義を、近年台頭してきた主体鋭敏性不変主義と区別するために、古い方を「古典的」と呼んでいるだけである。

さらに、註3の文脈主義の歴史には、誤りがある。「初期の文脈主義はこれに対抗して登場した(Lewis (1979)がその代表)」とあるが、このLewisの論文では、Epistemic Modalの文脈主義的取り扱いが提唱されているだけで、Lewis (1996)に見られるような「知識」の文脈主義や、懐疑論の話は全くされていない。この註は、DeRoseの書いたものをほぼ訳しているだけなのに、著者が付け加えた部分は誤っている。

註4でも、DeRoseが「主体敏感的不変主義が正しいということはありえない」と言ったかのような書き方がされているが、これも事実誤認。
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書評(1)

書評 「「知る」は指標詞か」、神山和好(科学哲学42-2, 2009, p. 75-87)

本日は書評をしたいと思う。このブログでは、日本ではまだあまり知られていない分析的認識論の立場や、日本で誤解している人がいると思われるような微妙な点を解説してきた。この書評は、この試みの延長である。この論文は日本では珍しい意味論的文脈主義についてものであるし、文脈主義を知りたい人の多くが参考にすると思う。しかし、この論文には、僕が思うに、構成、内容にいろいろ問題がある。構成上の問題はともかく、基本的な事実の誤認などはちょっと看過することができないので、以下で幾つか誤りやミスリーディングな箇所を指摘する。

1. 題名がミスリーディング。まず、事実上全ての文脈主義者が「知る」が指標詞だとは考えていない。彼らは、「知る」の文脈依存性を、指標詞性(indexicality)か、段階的形容詞(gradable adjectives)の持つ意味論的性質、すなわち、段階性(gradability、またrelativityとも呼ばれる)に類比的に考えようとする。しかし、指標詞性はDeRoseが初期にほのめかし程度に触れただけで、現在の彼は、他の文脈主義者と同じく、「知る」の意味論を段階性をモデルに考えている。

2. それ故、「「知る」は指標詞の一つだとみるのが文脈主義であり、それを否定するのが不変主義」(p. 75)というのはかなり問題がある。ここで著者は、文脈依存性と指標詞性を同一視するという誤りを犯している。この箇所の前でやっている、知識帰属文の意味が文脈によって変わるという立場が文脈主義で、それを否定するのが不変主義という特徴付けは正確なものであるが、この二つの特徴付けは同一ではない。

3. p. 75で不変主義にも幾つか種類があるとした上で、Ungerのものを「アンガー流不変主義」と呼び、これはp. 76で「懐疑論的不変主義」と同一視される(ここで著者は、Hawthorneの懐疑論的不変主義(skeptical invariantism)と穏健な不変主義(moderate invariantism)の区別を念頭に置いている)。だとすると、「文脈主義はアンガー流不変主義の批判者としてあらわれた」(p. 76)というのは、事実誤認でしかない。文脈主義は最初から、アンガー流であれ、より穏健な立場であれ、不変主義に対する批判である。

4. さらにp. 75で、DeRoseがアンガー流の不変主義をまだ、文脈主義に対する最大の脅威だとしている、と述べられる。これはDeRoseの2004年の論文を念頭に置いて書かれたと思うが、そうだとすると、これも単純に間違いで、DeRoseが文脈主義のライバルと見なしているのは穏健な不変主義であって、著者の言うアンガー流の不変主義=懐疑論的不変主義ではない。そして、彼の今(2009)の立場は、主体鋭敏性不変主義(subject-sensitive invariantism)を、穏健な不変主義と同等ないしそれ以上のライバルとする、というものである(ただし、この論文はDeRoseの2009年の本より先に書かれたと思うので、この点は仕方ない)。
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2009年12月25日

FactivityとInfallibilism

最近指導教官がある本の査読をしていたのだが、とにかくひどい、例えばfactivityとinfallibilityを区別していない、などとぼやいていた。そりゃあ、大昔の認識論みたいですねー、と返したのだが、この間違いは、今でもごくごくたまに見かけたりするので、ちょっと解説しておきたいと思う。

'know'という動詞は、'remember','see'などと同じくfactive verbと呼ばれる。factive verbとは(主語と)その動詞v+that節によって表現される命題が、そのthat節の表す命題を含意(entail)するような動詞である。すなわち、'S knows that p'(という文の表す命題は)は'p'(という文の表す命題)を含意する。具体的な時期は分からないが、30年くらい前までは、このfactivityといわゆるinfallibilismがあまり明確に区別されず、しばしば混同されていたような気がする。infallibilismとは何かというのはこれまた厄介な問題で、定式化が何種類もあり、それらは論理的に独立なので、ちょっとこの問題を棚上げしつつ、まずはこの混同が起きる推論を書いてみよう。

1.'S knows that p' entails 'p'.
2. Necessarily, if S knows that p, then p.
3. If S knows that p, then, necessarily p.
4. If S knows that p, then it is necessary that p.
5. If S knows that p, then it is impossible that p is false.

5から、もしSがpを知っているならば、pが偽であることは不可能である。すなわち、Sがpを知っていることと、pが誤りである可能性があることは両立不可能である。これは標準的なinfallibilismの定式化に一致する。それ故、factivityはinfallibilismを含意する。

まあ、この推論がinvalidであることは、言語哲学を少し学んだことがある人には明らかだろう。問題のあるステップは3で、ここで必然性オペレーターの位置、より適切にはスコープが変わっている。だから、この推論はよくあるscope fallacyないしscope confusionの一例である。infallibilismに対する論証は幾つかあるが、少なくともこのfactivityに基づくものは完全にだめだし、現代の認識論者が使うことは、まあまずない(先日紹介したFeldmanの本には、上の推論の誤りが解説されている。読んだときは、なんで今更こんなのを書くのだろうと思ったのだが、初学者は混同しやすいので良い配慮だと思う。)

ここ20年ぐらいの認識論は概念整理がだいぶ進んでいて、infallibilityにもいろいろな種類があるとされているし、infallibilityとincorrigibilityも区別される。もうすぐ"A Companion to Epistemology"が16年振りに改訂されるが、どれほど変わっているか楽しみだ。1版が出た1994年は、今の目から見ると大昔に思えるので、大幅に変わっているだろう(ただし、infallibilityとincorrigibilityは1版でも区別されている)。

ただ今年の認識論にあまり大きな動きはなかったかなー。DeRoseの本とFantl&McGrathの本が出て、文脈主義やSubject-Sensitive Invariantismが盛り上がるかと思ったけど、まだこれらの本の書評はDeRoseの本についてのものが一つ出ただけだし、本格的議論は来年以降になりそう。ただDeRoseの本は、個人的にはやや残念な出来だった。やはり文脈主義を支持する理論的根拠はだいぶなくなりつつある。Value Turnについての本もようやく論文集が出たが、ほとんどの論文がすでにネットで公開されていたので、あまり新味がなし。Williamsonの認識論についての論文集も出たけど、同じ理由であまり今年の本だという気がしない。

ああそうだ、文脈主義やsubject-sensitive invariantismがよく使うbank caseについての実験哲学がいくつか行われた。今後こういう研究はさらに増えるだろう。それから、倫理学の最近の動きとも連動して、理由の存在論とでも言うべき領域が開拓されつつある。今年目についた新しい動きはそれぐらいだなあ。来年の認識論はどうなるだろうか。今現在のネット上での動きを見る限り、これは新しいというような動きはなさそう。
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2009年12月22日

Propositional Justification と Doxastic Justification

ものすごーく久しぶりの更新。最近は博論執筆と非常勤が忙しすぎて、全然ブログを書く暇がなかったです。いろいろとネタはあるんだけど…。

最近日本語で書かれた認識論関連の文献をいくつか読む機会があったのですが、改めて翻訳って難しいよなーと思った。特に、

S is justified in believing p

を、「Sはpを信じる点で正当化されている」とか「Sはpを信じることが正当化されている」と訳すのは、かなりミスリーディングなのではないかと思う。僕の日本語の理解では(最近かなり怪しくなってきているが)、これらの文は共に、「Sがpを信じている」という文を含意する。しかし、'S is justified in beliving p'は'S believes p'を含意しない。英語そのものがそういう含意を持っていないし、また両者は、周知のように、古典的知識の定義の3つの条件のうちの2つであり、もしこの含意が成立するとすれば、'S believes p'が余分になってしまう。

また認識論では、propositional justificationとdoxastic justificationが区別され、前者が古典的定義のこの条件で捉えられているものである。すなわち、pという命題がSにとって正当化されているということと、Sの信念p(より正確には、Sがpと信じていること)が正当化されているということが区別される。この区別は非常に重要なので、先の翻訳の問題点は、この区別を見過ごしてしまうことにある。

もっと良い翻訳はないかなと考えてみたが、全然思い浮かばない。一般に、'S is justified in believing p'は'S has justification for believing p'と同義だとされているので、「Sはpと信じるための正当化を持っている」と訳すぐらいしか、解決が見当たらない。何かいい案をお持ちの方がいれば、ぜひ教えてもらいたい。

これは単に翻訳の問題だけではなく、日本ではこの区別がほとんど知られていないので、文献を読みながら、正当化という概念をやや誤解している人がいるという印象を受けた。

僕は今でも認識論の入門書をいろいろ読むのだが、この区別を説明してあるものとして、Richard FeldmanのEpistemologyという本がすごく良いと思う。とても薄い本だが、かゆい所に手がとどくというか、初学者や一部の専門家でさえ誤解しやすいところが、きちんと解説してある。ただし、propositional justificationとdoxastic justificationの区別をきちんとやろうとすると、いろいろややこしい問題が出てきて、未だにこれだというものは出ていない。



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2008年11月17日

一つの誤解

またまったくブログを更新していなかった。今学期はほんとうに自分の勉強がうまくいかず、あまりモチベーションがあがらなかったということがある。ここまで勉強がすすまなかった学期はなかなか珍しい。ただまあ、知識の価値というテーマについて、ある程度文献を読み込んだので、この分野についてのまとまった知識が手に入った。また、博士論文の序章を今書いていて、それなりに満足行くできになってきているので、全く無駄に時間を過ごしたわけではない。ああ、今experimental philosophyについての授業も聴講しているので、それなりにこの分野にも詳しくなってきた。だいぶ近年の認識論については、隙がなくなってきたと思う。

さて、いろいろ認識論の文献を読んでいると、あー、これって広く広まっているけど、誤解だよなーと思うことがある。例えば、ゴールドマンの信頼性主義が、ゲティア反例を処理するようにデザインされているというのが、その一つである。この誤解は主に、Brandomの信頼性主義擁護を引用する連中、例えば、Kornblithに見られる。Brandomが誤解しているので、それをそのまま引き継いでいるというわけだ。

過去にゴールドマンが、信頼性主義を使ってゲティア問題に対処しようとしたことはない。誤解する人が挙げるゴールドマンの1979年のBarn facade Caseを問題にする論文は、信頼性主義からそれに対処するという構造になっていない。この論文でゴールドマンはある種のcounterfactual conditionを反例に耐える知識の条件として提示するが、それは直接彼の信頼性主義とは関係がない。

最もゴールドマンは、グローバルな信頼性主義とローカルな信頼性主義を区別し、counterfactual accountsは後者に属するとする。そして彼は両者の信頼性主義は、知識の二つの必要条件を提示するとするので、ある意味で信頼性主義が(後者のと言う意味で)ゲティア反例に対処するように作られているというのは正しい。ただ一般に、ゴールドマンの信頼性主義というときには、グローバルな信頼性主義、いわゆるプロセス信頼性主義を指すのであり、誤解している人たちはこの区別を全く念頭に置いていない。

ローカルな信頼性主義とグローバルなそれのどちらか一方で十分なのか、両方必要なのかというのは、認識論における問題の一つで、ずっと議論が続いている。ただまあ、最近の認識論のはやりではないなー、この問題は。

日本ではKornblithは人気があるようなので、この誤解をしている人が多いと邪推するのだが、どうだろうか。



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2008年08月27日

最近のあれこれ

またもや更新をさぼってしまった。勉強はしているのだが、あまり成果に結びつかず、こういうときはあまり他のことをする気分になれない。あとやはりこのブログを書くモチベーションが少し失われてきていると思う。

前の記事で書いた、Walter Sinnott-Armstrong, Moral Skepticisms, Oxford University Press, 2006、のメインとなる章はかなり前に読んでみた。うーん、これは文脈主義がどういう立場なのかを極めて曖昧にしたまま書いていて、相当に混乱を招くようなところが随所にある。この点に関しては、最近のPhilosophical Quarterlyでこの本の特集があり、そこでMartijin Blaauwがほとんど僕の言いたいことを代弁してくれている。一つ付け加えると、Sinnott-Armstrongはassertion contentとsemantic contentを分けるので、Blaauwがしている分類はさらに複雑になるだろう。認識論で前者に定位した文脈主義を展開している人は、僕の知る限りGilbert Harmanしかいないが。

作者の立場は、文脈主義でもなく、ピュロン主義懐疑論だということで、路線としては、Robert Fogelinの"Pyrrhonian Reflections on Knowledge and Justification"にかなり影響を受けている。この本は名著だと思うが、あまり議論されないのが残念。一つの問題は、この本はゲティア問題の文脈主義的な解決に半分近く費やされるのだが、Stewart Cohenがこの種のゲティア問題の解決に対して強力な批判を展開していることが広く知られているということにあると思う。あともう一つ僕が問題だと思うのは、ゲティア問題が生じる状況はFogelinの分析では、通常より高基準が適用される状況だということになるのだが、これはあまり自明ではない。Keith DeRoseとAnthony Bruecknerはこの点に関して昔論争をして、そうではないというDeRoseの見解の方が広く受け入れられている。ただし、僕はDeRoseが全面的に正しいと思っているわけではなく、これは実に微妙な問題だと思う。

Sinnott-Armstrongの本にせよ、Fogelinの本にせよ、文脈主義に近い立場を展開しつつ、最終的にはある問題の解決が提示できないことを理由に懐疑論に行き着く。ただどちらも提示される問題が、本当にそれほど深刻な問題なのか、ちょっと疑わしいところがある。まあ懐疑論というのは常にそういうものなのだが。

最近はJohn McDowellを勉強し直していた。彼の認識論の全体がどういうものなのか、今までよりもよく分かったと思う。どちらかというと本文より註に書かれているアイデアの方が面白かったりする。ただ認識論的に興味深いような部分は、Williamsonが同様の路線を精緻に展開させているので、あまりMcDowellに拘泥する必要はないという思いも強くなった。
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2008年07月30日

道徳文脈主義

文脈主義というのは、近年の哲学でははやりの立場で、まあいろいろなところに現れる。特に顕著なのは、言語哲学と認識論だろう。言語哲学における文脈主義とは、ある語の意味は常に文脈に相対的であるというかなりラディカルな立場で、これに対する反論としては、Herman CappelenとErnest Leporeの"Insensitive Semantics" (2004, Blackwell)が有名で、今やいろいろ議論が行われている。思えばこの本は僕が3年前に日本で読んだ最後の哲学書だったなあ。この分野に関する知識は3年間であまり進歩していないので、忸怩たるものがある(もっともこのうちの二年は授業や進級試験などで忙しく、自分の趣味の本はあまり読めなかったのだが)。

また近年では道徳文脈主義(Moral Contextualism)というのも論じられる様になってきた。少なくとも3冊の本が倫理学における、文脈主義と呼ばれうる立場に関して書かれている。

Mark Timmons, Morality without Foundations: A Defense of Moral Contextualism, Oxford University Press, 1999.
Alan Thomas, Value and Context: The Nature of Moral and Political Knowledge, Oxford University Press, 2006.
Walter Sinnott-Armstrong, Moral Skepticisms, Oxford University Press, 2006.

Timmonsの本は昔斜め読みしたことがあるのだが、あまり覚えていない。ThomasのはMichael Williamsの文脈主義をベースにしていて興味深いのだが、まだきちんと読んでいない。Sinnott-Armstrongのは、文脈主義の1バージョンであるContrastivismを倫理に応用したもの。このContrastivismという立場は、認識論、科学哲学である程度広まりつつある。この本は近々じっくり読む予定。

この辺りも暇なときにきちんとフォローしておきたいのだが、なかなか時間がなくてできないなあ。誰か倫理に詳しい人がまとまった紹介をしてくれればいいのだが。


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2008年07月24日

知識の価値

今の認識論でホットなトピックというのは、僕が見る限り二つぐらいである。文脈主義とそのライバルたちの論争と、知識の価値というトピックである。教科書的な認識論の解説に出てくるような、内在主義/外在主義の対立、基礎付け主義/整合説の論争、自然化された認識論の意義など、やっている人もほそぼそといるが、さほど話題にはあがらない。ある程度盛り上がってるのは他には自己知に関する問題、Disjunctivismの認識論的含意といったところだろう。

知識の価値を巡る問題というのは、プラトンが最初に提唱したと言われている。要するに、我々は知識を価値のあるもの、それ故獲得する意義のあるものと想定しているが、その価値は何にあるのかという問いである。単に真なる信念を持つことと、知識を持つことを比較すると、我々は確かに知識を持つ方がより価値のあることだと考えている。この価値は何に由来するのだろうか。こうした問いを現代分析系認識論に持ち込み、いわゆるValue Turnを促したとされるのが、Duncan PritchardとJonathan Kvanvigの二人である。後者はこのテーマで本を書いており、なかなか話題になった。

さて僕の知る限り、この問いに関する答えはだいたい4種類ぐらいしかない。

1.知識は他の認知状態に比べてより安定している(Plato, Williamson)
2.知識は他の信念、行為を正当化する(Fantl&McGrath)
3.知識は間主観的な情報源である(Craig)
4.正当化された真なる信念に付け加わるような知識固有の価値はない(Kvanvig)

括弧内は代表的支持者を選んだだけで、他にもこれらの見解を支持している人は大勢いるし、彼らの間で細かい相違もある。

この問題は認識論の他の分野との連関でもさかんに論じられていて、徳認識論の論者は信頼性主義を知識固有の価値を説明できないとして攻撃している。プラトン以来忘れ去られていた問題が現代で再び盛んに論じられるというのは、なかなか痛快なことで、哲学の面白いところだなとつくづく思う。

ちなみに分析系認識論という語を僕は非常に狭い意味で使っている。英米圏で認識論と呼ばれる分野には、伝統的認識論、社会認識論、フェミニズム認識論、ベイズ認識論などがあるが、このうちの最初のものしか指示していない。なので、他の分野には、僕はよく知らないが、それぞれホットな話題があるだろう。

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2008年07月09日

Sensitivityにまつわる諸問題

ふう、最近論文を書いていたのだが、ようやく初稿ができあがったので、ひと休憩。ちょっと今日は、この前書いたまっとうな認識論のことでも書きたいと思う。知識ないし正当化の理論としては、まあいろいろあるわけだが、僕が一番個人的に好きなのは、ノージックのsensitivity条件と言われるものである。僕がこれが好きな理由は、これは外在主義的理論のうちで、唯一明確に、弁別能力に焦点を合わせたものだからだ。この辺はいつか論文を書きたいと思っているので、そのうちにまた詳しく書きたい。

さて、ノージックによれば、sensitivityとは、知識の必要条件であり、以下のように定式化される。

(Sensitivity) if p were false, S wouldn't believe that p.

Sensitivityにはよく知られた問題が、6つほどある。

1.Epistemic Closureの否定につながる。
2.この条件を満たしながらも、知識とは呼べないような例、すなわち反例がたくさんある。
3.類似した二つの命題で、一方は知っていて、他方は知らないという奇妙な事例を許してしまう。
4.必然的真理を取り扱うことができない。

僕自身はこれらの問題は大してクリティカルなものだと考えてはいない。まず1はDeRoseが示したように、sensitivityそのものはclosureと整合的に展開できる。2、3に関しても、細部をいじればまあクリアできないこともない。3はクリプキが80年代にやった講義で触れて、それは出版されてないのだが、なぜか皆知っている。この講義ノートを誰か持っていないかなあと思っているのだが、認識論者の知り合いが少ないので、まだ見つかっていない。4は、まあ可能世界を使う分析にはいつもついてまわる、例えば可能世界意味論にも同じ問題があることが知られている。だからこれはsensitivity特有の問題というわけではない。

結構決定的だなと思うのは、以下の二つである。

5.高階の信念をうまく扱えない。例えばS knows that S doesn't falsely believe that pが成立しているとする。このときSは当然sensitivityを満たすのでなければならない。しかし、

If it were false that S didn't falsely believe that p, S wouldn't believe it.

は必ず偽である。この条件文の前件が満たされるときは、Sがpを信じているときなので、当然後件は満たされない。といわけで、sensitivityはこの高階の信念をうまく扱えない。

6.S knows that pであるとき、S knows that p or qも真であるということは、トリビアルな条件さえ加えれば、疑いようもない。このことは以下のような、比較条件文からもわかる。

(a) If S knows that p, then S is in a position to know that p or q.
(b) If S knows that p or q, then S is in a position to know that p.

前件と後件の間で、Sのepistemic factor、standardrが同一であるとすると、(a)は真で、(b)は偽である。単純に言えば、これは、pを知るのは、p or qを知るよりも簡単だということである。しかし、sensitivityはこれを反映できない。何故なら、p or qを知るためには、

if it were false that p or q, that is, neither p nor q were true, S would believe neither p nor q.

が真でなければならず、pを知るためよりよりも、一つ条件が増えてしまう。すなわち、より難しくなってしまうのだ。

この5,6は、sensitivityのメカニズムそのものに由来する、かなり根深い問題である。5は確かSosaが最初に指摘して、6は誰だっただろうか。Jonathan Vogelだったかな。いやそれよりも前に誰かいたと思う。

5に関してはDeRoseとTim Blackがそれぞれの論文でなんとか乗り越えようと頑張っている。6に関しては、bite the bulletというか、Closureを否定するなら、そうなるよという論文しか見たことがないのだが、Closureを受け入れたい僕のような人にはあまり役に立たないなー。



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2008年06月30日

Purism:追記

先のPurismの定式化は重大なことを書き忘れていた。あの前に、Sがpを信じている、pが真である、ということが与えられた上で、という条件が必要だった。これらの条件はepistemic factorではないので、これなしでは先の定式化は単純に偽となる。

さらに追記。Keith DeRoseの本が彼のホームページで公開されているとかいたのは大間違いでした。僕の勘違いで、僕が見たのはCertain Doubtsからダウンロードできる部分であり、これはごく1部でしかありません。Fantl&McGrathの本は、Jeremy Fantlのページからダウンロードできます。

http://fleetwood.baylor.edu/certain_doubts/?p=829


広い意味で文脈主義と呼ばれる立場は、「知る」という関係がSとpの間に成立する条件の状況依存性を認める立場と、「知っている」という語の文脈的に変化する真理条件ないし、この語を発話するための語用論的条件に関する立場を含む。これら個々の立場はそれぞれ矛盾する訳ではないので、文脈主義と一言で言っても、実に様々な立場が可能である。さらに最近ではrelativismと呼ばれる立場や、contrastivismと呼ばれる立場も、広い意味で文脈主義と呼ばれるので、ものすごい数の立場が含まれることになる。

しかしこのブログでは文脈主義関係のことばかり書いているな。僕はそればかりやっていると思われるかも知れないのだが、文脈主義というのは、はやりとはいえ認識論の本道ではないし、ある程度真っ当な認識論的研究もしてますよーと書いておこう。真っ当な研究とは、例えば知識にとって重要なepistemic factorとは何かということである。この点に関してどの理論が一番ポピュラーなのかな。新しいという意味ではSafetyかな?文脈主義よりも本当はこの辺の真っ当な話題を先に紹介するべきだなと思う。
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2008年06月28日

Contextualism v.s Subject-Sensitive Invariantism

先ほどの記事で、「Purismと呼ぶ、知識はepistemic factorにスーパーヴィーンするというほとんど全ての認識論者が受け入れてきた見解を否定することになる」と書いたのだが、これは極めてミスリーディングな言い方だと気付いた。もう一度、僕の理解する限りでのPurismをまとめておくと、

(Purism) For all S and p, necessarily, wether or not the relation expressed by a sentence of the form 'S knows p' holds for S and p depends exclusively on the epistemic factors of S, given that p is true and S believes p.

となる。以前の定式化が問題があるのは、「知識」という語の理解の仕方によっては、文脈主義もPurismの否定だととられる可能性があるからだ。文脈主義はPurismと整合的であり、それが文脈主義の一つの魅力である。他方、Subject-Sensitive InvariantismはPurismを否定する。この両者の違いは実に微妙なところで、本職の認識論者でも区別せずに論じることが多い。例えば、Duncan PritchardがStanleyの本の書評を書いたときに、PritchardがあたかもSSIをContextualismの変種であるかのように書いたので、Stanleyが怒り心頭といった感じのコメントを書いたことがある。最近でもいったい両者のどこがちがうんだと有名なブログのCertain Doubtsでいろいろ議論されていた。

今ここで僕の理解を書いておくと、以下のようになる。まずSubject-Sensitive Invariantismという名称そのもの(これはDeRoseが命名者なのだが)がミスリーディングなので、Stanleyの言うInterest-Relative Invariantismという名前を採用して話を進めたい。この立場の含意するImpurismとは、当然Purismの否定であり、それは上記の定式化のexclusivelyを取っ払うことによって得られる。epistemic factor以外にpragmatic factorも重要だというのが、この立場の中核である。

さて文脈主義は、

(Contextualism) the semantic content expressed by 'know' varies from context to context. Then, the relation a token of the sentence 'S knows p' expresses in a context may differ from that which another token does in a different context.

という立場である。したがって'S knows p'という文の真理値が状況aとbで異なっているということの説明を、文脈主義はこの文が表す関係が変化したという点に求める。この際、そうした文脈によって異なる個々の関係をSが満たすかどうか、すなわち'S knows p'のトークンの真理条件はPurismによって与えられる。Invariantismはそもそも文脈主義の否定であり、'S knows p'という文が表す関係は、文脈によって変化しないとする立場である。Interest-Relativismはさらに、真理値の状況的変化の説明を、epistemic factorは一定であると規定されても、pragmatic factorが変化しているという点に求める。従ってImpurismが帰結する。

話がややこしいのは、ContextualismとInterest-Relativismは整合的であり、Contextualist Interest-Relativismは全く論理的に可能な立場だとということである(Interest-Relative Invariantismが端的にContextualismと対立する点は、そのInvariantismでしかない)。しかし、以前の記事で書いたように、この両者を受け入れることはファクターの過剰を招くので、Michael WilliamsとJohn Grecoぐらいしか支持者がいない。この両者にしても、ちょっと上で書いたことに対する理解が怪しいので、どこまでこのキメラ的立場にコミットしているのかは謎である。

Contextualismはあくまで'S knows p'という文のトークンが何を表現するのかということに関するlinguisticな立場であり、Interest-Relativismはどのようなファクターが「知る」という関係をSがpに対して持つことを規定するのかということに関わる、実質的な認識論的立場である。Interest-Relative InvariantismのContextualismに対する反論は、Interest-Relativismを認めれば、そうしたlinguisticな立場にコミットすることなく、これまでContextualismが説明を与えるとされてきた真理値の状況的変化を説明できるということである。

というわけで両者は全く種類の違う理論であり、やはり一緒くたにはできないよなー。ただまあ、認識論プロパー以外から見れば、両者は相当似て見えるに違いない。

実は最近ある雑誌のために書評を書いたときに、スペースの都合上、この辺をぼかして書いて、つっこみがはいらないかどきどきしながら編集者の返事を待っているところである。指導教官のJeremy Fantlにこれまずいですかねと聞くと、まあその両者を一緒にするのは認識論の内部でさえも極めて普通だから、あんまり気にしなくてもいいんじゃないとのことだった。ただStanleyのように気にする人は気にするからなー。




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新刊情報

またもや以前の書き込みから相当時間が空いてしまった。5月に旅行に行ったのと、6月は請け負った仕事や自分の勉強で大忙しで、mixiしか更新していなかった。今も忙しい日々が続いているが、少し息抜きということで…。

来年2009年は認識論内で文脈主義を巡る議論が再び活発になるのではないだろうか。というのも、文脈主義の大立役者であるKeith DeRoseの本"Knowledge, Skepticism, Context"がそれぐらいに出版されると思われるし、文脈主義のライバル一番手、Subject-Sensitive Invariantismの提唱者であるJeremy FantlとMatthew McGrathの本"Knowledge in an Uncertain World"も出版されるからである。これらの本はすでに彼らのホームページでドラフトが公開されているので、興味のある人は是非読んでみて欲しい。

DeRoseらのいわゆる標準的文脈主義はここ20年ぐらいずっと認識論ではホットなトピックだったわけだが、何故かそれについての本が出版されたことはなかった。満を侍してという感じである。Fantl&McGrathも、彼らが提唱した立場は、先にHawthorneやStanleyがそれについての本を書いてしまい、彼らはやや後手に回ってしまった感がある。しかし、彼らの本では、Hawthorne、Stanleyとの違いもいろいろと書かれているので、実に興味深い。

今のところFantl&McGrathの方しか読んでいないが、この本の特徴は過謬主義・不過謬主義の帰結を徹底して追求することにある。そしてどちらをとろうが、その帰結は'mad'であるというパラドキシカルな状況をどのように乗り越えられるかを、実に緊密な仕方で議論していく。

不過謬主義は、もちろん懐疑論と紙一重だし、過謬主義は彼らがPurismと呼ぶ、知識はepistemic factorにスーパーヴィーンするというほとんど全ての認識論者が受け入れてきた見解を否定することになる。この本では、不過謬主義を受け入れたときに生じる懐疑論は、さほどradicalなものではないのではという点も議論されていて、これも実に新しい論点である。

少し褒めすぎかなあ。隠す必要もないので書いてしまうと、Jeremy Fantlというのは僕の指導教官である。この本は僕も校正や、一部の論点にほんの少しだけ協力しているので、普段は口の悪い僕でも、悪口が言えないので困るなあ。

まあそういうことを抜きにしても、両方の本が一級の認識論者の手による刺激的なものであることに間違いはない。認識論の最前線の議論を知りたい人は、読んで損のない内容だと思う。


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2008年04月21日

文脈主義の歴史

文脈主義と言われる立場は認識論でいろいろあるのだが、現在この言葉は基本的にCohen, DeRose, Lewisらによって90年代に提唱された意味論的文脈主義を指すということが、もはや習慣化している。Cohenは88年の論文で文脈主義を議論しており、他の二人よりもやや早い(ただルイスは70年代に既に文脈主義的な認知的様相の取り扱いを提案しており、それが現在の形式意味論に与えた影響は相当に大きい)。

文脈主義の歴史という点では、コーエンよりも早くに似たような立場を肯定的、批判的に論じた人はいろいろいる。比較的有名な文脈主義の先駆者としては、David Annis, Gail Stine, Peter Ungerがいる。しかし文脈主義の基本アイデアというのは比較的シンプルで、実のところ他にも多くの人が同じようなことを考えている。というか、relevant altenatives theoryの支持者のほとんどは、relevanceの基準は文脈的に決定されるというアイデアを一度は論じている。例えば、この理論の提唱者の一人である、AustinやAlvin Goldmanがそうである。Austinは文脈主義的なアイデアを肯定的に捉えているが、Goldmanは否定的だ。他に、少なくとも僕が気づいた限りでMark Heller, David Shatz, Crispin Wrightなどが80年代にすでに文脈主義の萌芽と見なしうるようなアイデアに言及している。またDavid Whiteも91年に極めて独創的な文脈主義の1バージョンを提唱している、彼のアイデアはどちらかというとcontrastivismとの類似性が強いが。

他にはウィトゲンシュタインも文脈主義と見なせるかもしれないが、やはり彼の立場は他と異なりすぎているので、意味論的文脈主義の一立場とは見なせない。彼のアイデアに依拠するMichael Williamsもこの前書いたように統一性のない立場なので、よく分からないところだ。特に後者は、文脈主義を基礎付け主義、整合説の代案としての正当化についての立場として定義しているので、この部分を真剣に受け止めると、これは認識論的性質についての一立場であり、意味論的立場とはいえない。ただまあAnnisも同様の定義を彼の文脈主義に対してしている。

まあ、文脈主義の歴史はWilliamsによれば古代のカルネアデスまでさかのぼるらしいので、その辺まで考慮に入れるとなると、これまた一筋縄でいかないテーマなのだ。

このブログはあまり書いてない割に、毎日ブックマークからとんできてくれる人がかなりの数いるようだ。うーむ、どういうことを書くのがいいのだろうか。カナダの院生生活についてはmixiの方で書いているので、こちらでは哲学の話にフォーカスしているのだが、これで良いのかなあ。


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2008年04月10日

ウィリアムズの文脈主義の奇妙さ

昨年の夏に日本でマイケル・ウィリアムズの文脈主義についての発表をした。ウィリアムズって結構いい加減な考えをしているところが多々あって、統一的に解釈できないというのが内容だった。最近、もう一つ彼の立場の荒っぽさに気づいた。

最近の認識論でよく論じられる問題の一つが、Concessive Knowledge Ascriptionの問題という奴である。それは以下のような発話を指している。Pを何らかのトリビアルな命題としたとき、

「私はPを知っている」

と認識主体は発話することができ、かつそれは真である。しかし、

「私はPを知っている、しかしPは偽かもしれない」

この発話は非常に奇妙に、矛盾しているようにさえ聞こえる。しかし、過謬主義をとるなら、Pが偽かも知れないという可能性は常に存在するのであり、後半の文、「Pは偽かもしれない」も真でなければならない。文脈主義はこの奇妙さを以下のように説明する。文脈主義は、この文に含まれる二つの文の発話、「私はPを知っている」と「Pは偽かもしれない」は両者真であるとみなす。「Pを知っている」という発話はrelevantなあらゆる¬Pの可能性を排除できるということを意味する。しかし、「私はPを知っている」という発話の直後に文脈が変わり、新たな¬Pの可能性がrelevantになる。そしてその変化した文脈で¬Pの可能性を排除できない、すなわちPを知らないということを後半の発話は意味している。このため、両者の発話は異なる文脈でなされたものであり、それらの真理は両立可能である。矛盾しているかのようなみかけは、我々が文脈の変化に無自覚であることから生じる錯覚にすぎない。

文脈主義の対抗馬の一つであるModerate Invariantismは、二つの発話が真であるという点で、文脈主義に同意するが、矛盾のみかけを可変的な意味論的ファクターではなく、語用論的ファクターによって説明する。SはPを知っているということは、排除されない¬P可能性があることと両立可能であり、両者は真である。しかし、「私はPを知っている」という発話は、あらゆる¬P可能性を排除できるという会話の含みをもっており、それが故に続けて「Pは偽かもしれない」と続けることは、真ではあるが語用論的に不適切な発話であり、それがこの発話の奇妙さの原因である。

Moderate Invariantismは文脈主義がうまい説明を与えるとされている事例を同様にうまく説明できると主張する。もちろん、両者は両立可能で、意味論的なファクターと語用論的ファクターは共に知識帰属の際に機能していると言うことはできる。しかし、それは単にファクターの余剰を招くだけであり、倹約原理からいっても、理論的なメリットはない。しかし、僕が思うにウィリアムズは、こうした理論的に不穏な立場にコミットしている。何故なら、彼はルイスの文脈主義的なConcessive Knowledge Ascriptionの説明を批判して、語用論的な説明の方を好むと言うからである。

これは近年彼が最近認めた、彼の文脈主義は真理条件の可変性に関わるという主張と合わせると、彼の立場を極めて怪しいものにしてしまう。このような曖昧さ、余剰さは彼の著作のあちこちにあり、僕は今をもって彼の立場がいまいち理解できないでいるのである。

なお、Timothy Williamsonによるとウィリアムズはこうした現在の議論にほとんど通じておらず、それが彼の立場を不安定にしている理由だろうということを、会話した際に言っていた。
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2008年03月19日

哲学者系統図

非常に面白いサイトを見つけたのでご報告。

http://philtree.blogspot.com/

哲学会における師弟関係を網羅的に調べて、系統図を作ろうという野心的な試み。この人はこの人の弟子だったんだなあというのが一目で分かるので面白い。

僕も将来的にここに乗せて貰えるように頑張りたいものである。
posted by hakutaku at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月10日

Knowledge-Action Principle

今日気づいたのだが、東大でKnowledge and Actionと題したミニカンファレンスがあるみたいだ。題名を見た瞬間に、これは最近話題のknowledge-action principleないしthe value of knowledgeに関する学会に違いないと興奮したのだが、講演者を見ると、それについて話しそうなのはPascal Engelしかいないな。

Pascal Engelの批判の路線は、Richard Feldmanと同じで、knowledge-action principleは容易にknowledge-epistemic position principleに変換することができ、それ故、knowledgeに対するpurismと両立可能であるというもの。この批判はknowledge-action principleそのものの批判ではないが、そこからanti-purismを導こうと論者に対する批判になる。

そしてまたこれが言えれば、この原理で知識の価値を説明しようとする論者も批判することができる。

ただEngelの批判が成立するためには、以下の非常にもっともであり、伝統的に受け入れられてきた見解を否定しなければならない(なおこれは今適当に名付けて定式化したもので、もっとよい定式化もあると思う)。

(Supervenience) S's epistemic position supervenes on S's epistemic (truth-conducive) factors.

従って、僕はEngelの批判的議論はvalidだと思うが、soundだということを示すのは難しいと感じている。この辺について、彼がどういう見解を持っているのか聞いてみたいなー。

Engelは主に僕の指導教官の論文を批判しているわけだが、彼は現在執筆中の本でこの批判に答えるのかな?今度聞いてみよう。
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2008年01月20日

セラーズ

論文は一応書き終わったものの、まだまだ不満足な出来。僕の主張をサポートする言語的データを探そうと、いろいろと言語学関係の論文をあさっているところであります。完成するにはまだまだかかりそうだな。

さて、その中で僕にはすこし面白い論文を見つけたので報告しようと思う。ウィルフリッド・セラーズという哲学者は僕が日本で博士課程をやっていた最初の3年ぐらいにもっとも耽溺した哲学者で、修士までフッサールをやっていた僕は、セラーズと格闘することによって分析哲学に入門したというところがある。

当時は今もつづく、ブランダム、マクダウェルらによるセラーズの復権が声高に叫ばれ、研究されていたときで、すでにセラーズに眠る新たな鉱脈の可能性はあらかた掘り尽くされた感があった。そんななか僕はようやく、誰も言っていないことをセラーズに見つけ、なんとか論文を書いて、大学の紀要に発表した。この論文は当時酷評されて、非常に落ち込んだし、書き上げた後に40枚を30枚に削らなければならなかったので、1部の内容を完全に削除するしかなかった。

今この論文を読むと、削った分途中の話題の転換がものすごく性急になっているし、最後の方で論じているセラーズに対する可能的批判への応答も、今の僕には賛成できない。しかし、この論文のメインの目標であった2つの点については、今見てもなかなかいいと思っている。それは(1)セラーズが語用論的前提という概念の発明者であると明らかにする、(2)ブランダムがセラーズを解説するときに常に用いる、「理由を与え、求める」というプラクシスという概念が実際にセラーズ哲学の中に存在することを示し、その認識論的重要性を論じる、ということだった。

(2)の点については、驚くべきことにブランダムは何のテキスト的証拠も出したことがない。僕は今でもこの点に関して、この論文が出した以上のものがセラーズの論文から見つかるとは思っていない(ただし、これはブランダムのセラーズ解釈が正しいと仮定した上での話、かなり強引なので、セラーズを他の仕方でも解釈できるだろう)。(1)の点に関しては、これはかなり新しいと思っていたのだが、実は最近まったく同様のことを言っている言語学畑の論文を発見した。それは2001年に書かれていて、僕の論文は2004年なので、3年も早い。当時この存在を知っていたら、この論文はとても書かなかっただろう。同様のことは最近もあって、去年までセラーズの認識論が整合説と基礎付け主義の折衷であって、最近の解釈が言うような文脈主義ではないということを示す論文を書きたいと思っていた(なお、僕の2004年の論文は、ブランダムの解釈を正しいと想定するところから始めたので、文脈主義者としの解釈を強く支持する内容になっている)。これは日本にいるときに思いついたのだが、留学したため書く時間がなくなったしまった。ところが去年出版されたセラーズの解説書が全く同じことを言っているため、もはや書く気になれない。

やはりある程度オリジナルなことを言うのは難しいなあと思う。僕は相当セラーズを読み込んだはずだけど、結局論文一つしか書けずに、今後書く予定もない。解釈に関わる論文は、どうも労多くして実りが少ないような気がするな。ああ、そういえば、セラーズの自己知を巡る議論の批判もしようと考えていた時期もあったが、これはいかにもネタが小さいので、書くことはないだろう。もし書くとしても、自己知を巡る議論にもっと習熟した後になるだろうし。

なおこの僕の論文は現在オンラインで読むことができます。もしどうしても読みたいのだが、見つからないという奇特なひとがいれば、こそっと教えるので、連絡ください。
posted by hakutaku at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月30日

ゲティア問題(1)

ゲティア問題というやつは、その解決の難しさのせいか、近年論じられることはほとんどない。僕は最近あることで再びこの問題の重要性に気付いたのだが、それが発表できるのはもう少し先になりそうだ。

まあしかし、この発案者であるのゲティアは実にうらやましい哲学者である。なにしろゲティア問題を提唱したわずか3ページの論文以外に、彼の論文にお目にかかったことがないのだ。最近指導教官から聞いた話では、彼の就職のときに、大学側があまりにも彼の業績が少ないのを問題視したところ、哲学科の方からこの論文を参照した文献のリストが提出され、それが2百以上の膨大なものだったため、彼は面接に合格したという。本当かどうか解らないが、とにかく面白い話である。

ゲティア反例と呼ばれる古典的知識分析への反例は、彼が提示した2つ以外に、それはもう沢山あって、それら全てが同一の仕方で反例を構成するわけではない。最近その辺りを調べ始めたのだが、これはなかなかたいへんな作業である。

たいへんさの理由の一部は、ある事例に関して僕は作者が想定するのと全然違う直観をもっていたりするからである。だから、はいこれが反例になりますよと言われても、何故そうなるのかを明確に解説されない限り、どうにも納得できない。昔はその理由が、日本人であるという言語的の違いが直観に影響を及ぼすためだと思っていたのだが、こちらにきてそうでもないということに気付いた。こちらの人の直観も皆完全に同じというわけでもないのである。

これからしばらくゲティア問題について書こうかなあと思っております。
posted by hakutaku at 15:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月20日

便利なサイト

現在の英米哲学会ではかなりインターネットの影響力が強まりつつある。認識論関係は特にさかんなようで、有名な哲学者の手によるブログも幾つかあり、かなり活発に議論が行われている。

僕もいろいろとブログは読んでいるのだが、それ意外にもいろいろな哲学者の個人ページもまめにチェックしている。多くの人が研究成果としてまだ未発表の論文をアップしていたりして、なかなか便利なのだ。最近の若手の研究者をチェックするのに便利なのは、Keith DeRoseのEpistemology Pageである。広範な認識論者と論文のリストがあり、いつも参考にしているのです。

DeRoseは文脈主義関連のサイトも持っているのだが、そちらはもう2年ぐらい更新されてなくて、残念。

前の学会でRichard Feldmanが、パスワード忘れて自分のサイトが更新できないと言っていたので、同じようなことが起こっているのかもしれない。
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2007年10月29日

不一致の認識論2

学会二日目。まずはRichard Feldmanの発表を聞く。彼はこの外在主義全盛の時代に、孤高に内在主義を貫いていて名高い。この人の論文は論旨も明快で、また内容も非常に面白くて、僕は大好きなのだ。講演の内容は、合理的な不一致というものがあるとして、その際に二人がすべての証拠を共有しているということはできないのではないかというもの。これを示すために、証拠の証拠は証拠であるという原理を置き、対立する二人が一群の前提を共有していても、その証拠というところで異なっていると言えるはずだと議論を進めていた。なかなか明快でわかりやすかったなー。

昼からは、Jeniffer Lackeyの講演。彼女はPhilosophy and Phenomenological Researchのyoung epistemologist prizeを最近受賞していて、若手の認識論者の中では相当有名。主な業績として、 backet brigade principle of testimonial knowledgeやknowledge-assertion principleに反例を示したことがある。この辺もいつか書きたいなー。

発表はあいかわらず緻密な議論の分析を通して、様々な立場の成果があらゆる不一致に対して適用できるわけではないということを示していた。しかし相変わらず、次々といろんな例を出してくる。こういう例を考えさせたらほんとにうまいなこの人は。認識論ってのはこういう直感的事例から議論を始めるってことがゲティア問題以来常になってるようなところがある。ゲティア反例なんて、いったい今までに何種類考え出されたんだろうなー。思えばゲティア問題も、日本では完全に紹介されてない。反例にも様々なパターンがあるし、ゲティア問題は解決不可能という論考もあるし、この辺もいつか書かなくちゃな。ゲティア問題に対する最も最近のアプローチはsafety conditionというのを使うやつで、Sosa, Williamson, Pritchardなんかが支持している。Prichardの本の書評をLackeyが書いているのだが、そこでまた複雑な例を考えて、少なくともPritchardのsafety conditionには反例があるということを示していた。

僕もいま自分の立場を直観的に説明するのにうまい例がないかと思案しているのだが、なかなかいいものを思いつかない。Lackeyみたいな才能がどこかに落ちてないかな。

書きたいことはいろいろあるのだが、あれだなー、何から始めるべきか。分析系認識論に興味のある人がこれって何ですかと聞いてくれたら、できるだけ答えるようにしたいと思います。いちおうこのブログの目的は分析系認識論を紹介することなので。

posted by hakutaku at 19:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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