2014年12月21日

2014年の認識論を振り返る

今年もまったくブログを更新しませんでした…。書きたいことはいろいろあるのですが、全然時間が空かないという状況です。今年は4月から京都大学所属の学振PDとして、学振課題のアプリオリ・アポステリオリな知識の研究と、同時に受給している科研(若手B)の民間心理学の研究を行っていました。国内外のあちこちの学会で発表を多くして、人生で一番忙しい1年だったかもしれません。

さて、そういうわけで今年の認識論の動向のフォローはちょっと十分でないのですが、毎年恒例の「今年の認識論」を振り返るです。今年は大きな動きとして特徴づけられるものがあまりないのですが、現代認識論の多様性を示すように、いろいろなテーマについての著作、論文集が出た年でした。

(1)徳認識論の進展
毎年のように書いていますが、やはり徳認識論ブームが続いています。今年目立った動きとしては、徳の自然化という方向で徳認識論を進展させようという方向です。

Abrol Fairweather & Owen Flanagan (eds.). (2014). Naturalizing Epistemic Virtue. Cambridge University Press.
Abrol Fairweather (ed.). (2014). Virtue Epistemology Naturalized: Bridges Between Virtue Epistemology and Philosophy of Science. Springer.

まあ、どちらもAbrol Fairweatherが編者に入っているので、これを徳認識論の「動き」と呼んで良いか分かりませんが、徳の自然化は、徳認識論だけでなく徳倫理学でもずっと話題になっているテーマです。ただどちらかというと、心理学的な実験成果が、徳認識論、徳倫理学の基本的な想定とうまく整合しないという批判的な研究が多いです。そうした批判を受けて徳認識論はどうなるのか、どうすべきかという本はこれ。

Mark Alfano. (2014). Character as Moral Fiction. Cambridge University Press.

徳認識論と徳倫理の関係を知るには、その両者を研究している以下の研究者の「徳」一般についての入門書が参考になるかもしれません。

Heather Battaly. (2014). Virtue. Polity Press.

(2)認識的規範の研究
21世紀の認識論で盛んに論じられるテーマの一つは、知識が信念、断言、行為などの規範でありうるか、そうでなければ、何がそうした規範なのかというものです(ただし、信念の認識論規範の問題は、The ethics of beliefという問題に組み込まれることが多く、この問題自体は古い)。例えば、信念が断言の規範であるということは、「pと知らなければ、pと断言することは(認識的に)許容されない」ということであり、知らずにpと断言してしまう人は、プラグマティック、その他の観点からその断言が許容されても、認識的観点からは非難に値するということになります。

これらのテーマは、今までかなり論じられてきたのですが、雑誌論文が多くて、論文集という形ではまとまっていなかったですが、2冊ほど出版されました。

Clayton Littlejohn & John Turri (eds.). (2014). Epistemic Norms: New Essays on Action, Belief, and Assertion. Oxford University Press.
Jonathan Matheson & Rico Vitz (eds.). (2014). The Ethics of Belief. Oxford University Press.

(3)証言による知識・共同体の知識の研究
80年代頃からさかんになってきたのが、証言による知識の研究。われわれの多くの知識は他者の証言の伝聞によっているのは自明であるように見える。でも、他者の証言は、従来の言われてきた経験、非経験的な知識の源泉とかなり異なるので、それがどういう意味で知識の源泉なのか(あるいはそうでないのか)をきちんと探求しようというのが問題意識です。この分野を牽引してきた研究者の論文をまとめた論文集が出ました。

Paul Faulkner. (2014). Knowledge on Trust. Oxford University Press.

証言による知識は、個人の知識とは異なる、共同体の有する知識の研究の一部として扱われることがあります。分析哲学の認識論では、共同体の知識はまだあんまり研究されていない分野ですが、論文集がでました。

Jennifer Lackey (ed.). (2014). Essays in Collective Epistemology. Oxford University Press.

(4)実験哲学と認識論
実験哲学が伝統的認識論、あるいは哲学一般にどのようなインパクトを与えるかは、最近もずっと議論されています。初期の頃の過度に批判的な論調は、だいぶ初期の実験や議論の不備が明らかになってきたものの、新しい実験、発見は現在も続いています。実験手法もだいぶ洗練されてきました。それをまとめた、実験哲学の発展についての論文集シリーズの認識論編が出ました。

James Beebe. (2014). Advances in Experimental Epistemology. Bloomsbury Academic.

実験哲学についての批判派、擁護派の論争を知るために、こちらもどうぞ。

Edouard Machery & Elizabeth O'Neill (Eds.) (2014). Current Controversies in Experimental Philosophy. Routledge.

(5)無限主義
無限主義(Infinitism)とは、正当化の構造に関する基礎づけ主義、整合説に続く第3の立場で、理由による正当化が循環せず、直線的に続くという点で基礎づけ主義に同意する一方で、その正当化が終着点を持たず、無限に続くという点で基礎づけ主義を否定する立場です。Peter Klainという人が、現代の代表的論者で、それ以外の人はあまり受け入れてなかったのですが、最近注目が集まってきて(これは形而上学にこれを応用しようという動きとも連動してます)、論文集も出ました。

John Turri & Peter D. Klein (Eds.). (2014). Ad Infinitum: New Essays on Epistemological Infinitism. Oxford University Press.

無限主義を直接扱ってないですが、関連するテーマの本がこれ。Springerの新しいシリーズで、特定トピックに関する短い本。

Jan Willem Wieland. (2014). Infinite Regress Arguments. Springer.

(6)若手、中堅の実力派の著作
分析哲学はメインの研究発表媒体が専門誌なので、実力、実績十分でも単著がないという人が少なくありません。そんななか年齢的に若手〜中堅ながら、その実力を高く評価されている認識論者の単著が幾つか公刊されました。

John MacFarlane. Assessment Sensitivity: Relative Truth and its Applications. Oxford University Press.

長らく草稿が公開されていたものの、未公刊だった超実力派、MacFarlaneの本です。言語哲学の本ですが、彼の相対主義は、「知っている」という語をターゲットの一つとして展開されたので、文脈主義のライバルとされる立場です。

Michael Blome-Tillmann. (2014). Knowledge and Presuppositions. Oxford University Press.

文脈主義の最大の擁護者の1人ですが、語用論的前提を使った独自のヴァージョンの文脈主義を提唱しています。

Aidan McGlynn. (2014). Knowledge First? Palgrave Macmillan.

Williamsonの提唱した、知識を他のもので説明、分析するのでなく、知識を使って他のものを説明、分析しようというKnowledge Firstプログラムは、かなり議論される割に誤解も多いプログラムです。それをきちんと提示、説明し、批判的に検討するという待望の本。

(7)その他の論文集

論文集はホットなトピックで出されることが多く、内容を見てみると何が今話題なのか分かります。まずはやはり、近年話題の直観。

Anthony Robert Booth & Darrell P. Rowbottom (Eds.). (2014). Intuitions. Oxford University Press.

ちょっと面白いのが、信念についての論文集。信念って、認識論では知識のトリビアルな必要条件としてほとんど扱われないんですが、信念単独でもいろいろ論じるべきなんですよね、本当は。

Nikolaj Nottelmann. (2014). New Essays on Belief: Constitution, Content and Structure. Palgrave Macmillan.

(8)豪華執筆者による入門書
認識論の入門書は毎年多く公刊されるのですが、誰だよという人が著者のことも少なくありません。入門書を書くというのはすごく難しくて、その分野についての体系的な知識と最先端の知識を持っていないと書けない、と個人的には思います。なぜ入門書で最先端の知識がいるかと言えば、分析哲学の流れは速いので、長く使われるために、現時点のそして近い将来の動きも見越した観点を盛り込む必要があると思うからです。

今年は、この難しい条件を満たしうる大物認識論者による入門書の刊行が相次ぎました。これら入門書から認識論を学び始めることができるのは幸せなことだろうなあと思います。

まずは、前提知識をほとんど必要としない、Short Introductionシリーズの1冊。

Jennifer Nagel. (2014). Knowledge: A Very Short Introduction. Oxford University Press.

次は、学部生向けですが、もう少し本格向けの入門用。従来の入門書では触れられていない最近のトピックもちゃんと入っています。

Alvin Goldman & Matthew McGrath. (2014). Epistemology: A Contemporary Introduction. Oxford University Press.

最後は、珍しい懐疑論に定位した入門書。この著者も中堅の実力派の1人。

Allan Hazlett. (2014). A Critical Introduction to Skepticism. Bloomsbury Academic.

さらに、現代認識論の論争状況を知るために、こちらもどうぞ。上の実験哲学のところで紹介した本と同じシリーズですね。

Ram Neta (Ed.). (2014). Current Controversies in Epistemology. Routledge.


さて、今年も全部取り上げたと言えませんが、出版物から見る、認識論の2014年の動向はこんなところでしょうか。来年もいろいろ出版予定なので、今から楽しみです。では皆さん、良いお年を!
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2013年12月25日

2013年の認識論を振り返る

さてさて、このブログもさっぱり更新しなくなってしまいましたが、毎年こーれーのこれだけはせめても、ということで、「2013年の認識論を振り返る」です。しかしながら、今年は僕にとっても激動の年でした。2005年7月からカナダに在住していたのですが、7年9ヶ月ぶりに帰国して、日本で某大学で1年間勤務することになったからです。その仕事に加え、今年は自分の勉強、研究にも認識論以外の分野が占める比重がかなり増えて、正直なところ最近の認識論の動向を去年までに比べるとあまりフォローできていません。しかし、以下僕に目に付いた限りで、今年の動向を簡単に紹介します。

1、哲学方法論についての研究が相次いで出版される

実験哲学の台頭以降、哲学の方法論を巡ってさまざまなことが論じられるようになったのですが、ようやくそれらが書籍という形で目につくようになりました。その中には、認識論、あるいは分析哲学よりももっと広い観点から哲学一般を論じる入門書ももあれば、

Soren Overgaard, Paul Gilbert & Stephen Burwood (2013). An Introduction to Metaphilosophy (Cambridge Introductions to Philosophy). Cambridge: Cambridge University Press.
Kerry E Howell (2013). An Introduction to the Philosophy of Methodology. Los Angeles, CA: Sage.

分析哲学にのみ定位したより専門性の高いアンソロジーまであります。

Matthew C. Haug (2013). Philosophical Methodology: The Armchair or the Laboratory? Abingdon and New York: Routledge.
Andrew Chapman, Addison Ellis, Tyler Hildebrand, Henry Pickford, & Robert Hanna (2013). In Defense of Intuitions: A New Rationalist Manifesto. London: Palgrave Macmillan.

哲学方法論における論点で特に認識論でさかんに議論されているのは、「直観とは何で」、また「どのようにして直観が哲学的な主張を正当化するのか」という問題です。これらに直接取り組む、若き才能の著作が二つ出版されました。

Jonathan Jenkins Ichikawa & Benjamin W. Jarvis (2013). The Rules of Thought. Oxford: Oxford University Press.
Elijah Chudnoff (2013). Intuition. Oxford: Oxford University Press.

「直観とは何か」という問題に対し、両者が全く対立する見解を擁護しているのも興味深い。前者の著者のひとりIchikawaは同僚でしたので、この本の草稿を読む読書会を僕が企画して、認識論者ばかりの豪華なメンバーで読書会したりしました。

2、アプリオリ性への関心が再び高まる

哲学的主張の正当化の問題は、「哲学的な知識がアプリオリなものなのか」という問題に直接関連しています。先の2冊もこの問題を扱っていますし、アンソロジーも刊行されました。アプリオリ性に関する議論は再び活性化しており、これからも著作がいろいろ出る予定です。

Albert Casullo & Joshua C. Thurow (2013). The A Priori in Philosophy. Oxford: Oxford University Press.

3、信念の価値、規範性

21世紀の認識論は、いわゆるValue Turnと言われる展開を経て、従来とは異なる形で認識論的な価値、規範性を主題化する研究が多いことが一つの特徴です。信念の価値、規範性をめぐる著作も相次いで出版されました。

Allan Hazlett (2013). A Luxury of the Understanding: On the Value of True Belief. Oxford: Oxford University Press.
John Gibbons. (2013). The Norm of Belief. Oxford: Oxford University Press.

あとは、このアンソロジーも近刊。

Timothy Chan (forthcoming). The Aim of Belief. Oxford: Oxford University Press.

4、徳認識論ブームまだまだ続く

数年来の徳認識論のブームはちょっと下火になってきたとはいえ、まだまだ続く。アンソロジー1冊が出ました。

Tim Henning & David P. Schweikard (2013). Knowledge, Virtue, and Action: Putting Epistemic Virtues to Work. London and New York: Routledge.

そして、徳認識論最大の立役者、Ernest Sosaの哲学についてのアンソロジーも。執筆者には彼の弟子を中心に錚々たるメンバーをずらりと揃えています。

John Turri (ed.) (2013) Virtuous Thoughts: The Philosophy of Ernest Sosa. Dordrecht: Springer.

5、その他

phenomenal conservatism、あるいはdogmatismという、知覚経験あるいは直観が直接的に信念を正当化するという立場についてのアンソロジーが出版されました。これらの立場と対立する立場の間の論争は非常に面白いです。

Chris Tucker (2013). Seemings and Justification: New Essays on Dogmatism and Phenomenal Conservatism. Oxford: Oxford University Press.

あとは、これまた従来からのホットトピック、disagreementについての論文集が出ました。2冊めかな、これで。

David Christensen & Jennifer Lackey (2013). The Epistemology of Disagreement: New Essays. Oxford: Oxford University Press.

対立する立場の支持者に論文を書かせて、各トピックを論争と共に紹介するユニークな入門書、Contemporary Debates in Philosophyの認識論に第二版が出ました。2005年の第一版と比べて入れ替えらるか、追加されたトピックを見れば、最近の認識論の動向が分かるはずです。かなり入れ替えられていて、最近の認識論の展開の早さを象徴しています。日本には2000年代の認識論がほとんど紹介されておらず、残念。

Matthias Steup, John Turri & Ernest Sosa (2013). Contemporary Debates in Epistemology, 2nd Edition. Oxford: Wiley-Blackwell.

おそらく僕が知らず、紹介できなかった新しい動向もあると思います。例えば、今宗教認識論の大きなプロジェクトが複数あるので、それ関連の著作もあるでしょう。しかし、今年はこんなところで勘弁を。それでは皆さん、良いお年を。
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2012年12月26日

2012年の認識論を振り返る

さて、またもや全然更新しないうちに年末になってしまった。というわけで、今年も唐突にこの1年の認識論を振り返ってみる。今年は認識論関係の新刊、アンソロジーが数多く公刊されて、認識論にとっては豊穣な一年だった。

1、認識論的選言主義が台頭する。知覚の哲学における選言主義とは、知覚や見えがどのような心的態度なのかという点に関わる立場だが、認識論的選言主義とは、認識主体がどのような理由、ないし証拠を持っているのかという点に関する立場である。選言主義の始祖の一人マクダウェルの立場には両者が混在している(彼の立場を純粋に認識論的選言主義と見なす人もいるが、明確に知覚の哲学における選言主義を支持している論文もある)が、そこからインスパイアを得た立場を論じる人が現れてきた。Duncan PritchardとRam Netaで、共著論文もある。Netaは、積極的に認識論敵選言主義に対するアーギュメントを提示していて、Pritchardは主に予想される反論を論駁しようとしているというスタイルの違いがある。Pritchardが今年出した本がこれ。

Duncan Pritchard (2012). Epistemological Disjunctivism. Oxford University Press.

2、メタ倫理では最近、行為の理由を巡る議論が活発に行われていて、Buck-Passing ViewやWrong Kind of Reason Problemなど面白い立場や問題がいろいろ現れてきている。それらを信念の理由に応用しようとする試みも同時に起こっているのだが、そうした議論を踏まえ、より具体的な認識論を展開する本が出た。著者のLittlejohnは、認識論の俊英の一人で、ごりごりのアーギュメント重視の論文を書く人。好きなのだが、読むのはかなり難しい。この本も一度読んだが、再読中。

Clayton Littlejohn (2012). Justification and the Truth-Connection. Cambridge University Press.

3、知覚の認識論は、選言主義以外にもいろいろあるのだが、この辺りの議論も最近はおおいに盛り上がっている。特に、James PryorのDogmatismとそのライバルであるCrispin Wrightの立場は、いろいろと議論が続いている。本当に出版が延びに延びたけど、その両者の議論が読めるWrightについての論文集がついに刊行された。Pryorの論文は、5年以上前からネットにあったと思う…

Annalisa Coliva (ed.) (2012) Mind, Meaning, and Knowledge: Themes from the Philosophy of Crispin Wright. Oxford University Press.

Pryorと類似の立場にPhenomenal Conservatismというのがあるのだが、それについての論文集も近刊予定。これに収録予定の論文も、知覚の認識論に興味があるなら是非。

4、アプリオリな知識(正当化)とアポステリオリな知識(正当化)に関する伝統的な区別についての反省が進む。Hawthorneは数年前に、この区別に認識論的な意味は無いという主張をしていたが、同様の主張をする論文をWilliamsonが書いた。この区別の見直しに関しては、アプリオリといえばこの人という哲学者の一人であるCasulloの新刊に入っている論文も、読むに値する(上で触れたWrightの立場に触れつつ、伝統的な区別では捉えられない知識があるかもと示唆する)。

Albert Casullo (2012) Essays on A Priori Knowledge and Justification. Oxford University Press.

5、徳認識論のブームはまだまだ続く。徳認識論関係の議論はまだまだ活発。入門的なアンソロジーも編まれた。

John Greco & John Turri (eds.) (2012) Virtue Epistemology: Contemporary Readings. MIT Press.

PritchardらがExtended Cognitionを認めると、徳認識論の核となるテーゼが維持できないという主張を前からしていたのだが、今年はそれ関連の論文も特集が組まれたりして、数多く出版された(Pritchardのいるエディンバラ大学は今Extended Cognitionについての大規模プロジェクトを動かしている)。来年は、John Turriの編む、徳認識論の立役者Sosaについての論文集も出る予定。

6、哲学は直観を証拠として用いているという多くの哲学者が持っている哲学観は誤りである、実際には全然そんなことはしていない、という立場は、最近支持者がぽつぽつ出てきているのだが、それを展開する本が出た。この本は、哲学者の「直観」という用語の使用に関する社会言語学的な研究とい言っても良い(僕も最近はこの立場に傾いているが、この本には同意できない点も多い)。

Herman Cappelen (2012). Philosophy without Intuitions. Oxford University Press.

7、以前からこのブログでCraigの「知識概念の社会的機能」を探るという、通常とは異なる意味での概念分析のアプローチを紹介しているのだが、このアプローチが最近注目を集めている。この論文集に収録の論文はどれも一読の価値があるが、Craig流のアプローチについての論文は、実験哲学の成果を取り入れていて面白い。

Jessica Brown & Mikkel Gerken (eds.) (2012) Knowledge Ascriptions. Oxford University Press.

8、大御所の新刊が次々に刊行される。

Richard Foley (2012) When Is True Belief Knowledge? Princeton University Press.

Hilary Kornblith (2012) On Reflection. Oxford University Press.

Linda Zagzebski (2012). Epistemic Authority: A Theory of Trust, Authority, and Autonomy in Belief. Oxford University Press.

Adam Morton (2012). Bounded Thinking: Intellectual Virtues for Limited Agents. Oxford University Press.

この辺は全然読めてないので、残念ながらコメントできませぬ。

9、他にも重要な論文集いろいろ。

Declan Smithies & Daniel Stoljar (eds.) (2012) Introspection and Consciousness. Oxford University Press.

内観って昔からなんのこっちゃさっぱり理解できないので、これを読んで勉強したい。

Kelly Becker & Tim Black (2012) The Sensitivity Principle in Epistemology. Cambridge University Press.

NozickのSensitivity Accountについてはこのブログでも書いたことがある。哲学の他の立場と同じように、いろいろ難点が指摘されているが、乗り越えようと頑張っている人も多い。

Martijn Blaauw (ed.) (2012) Contrastivism in Philosophy. Routledge.

Contrastivismというのは、非常に独特な文脈主義の1ヴァージョンで、「知っている」が表すのが、主体と命題の2項関係ではなく、alternativeを加えた3項関係だとする立場。Relevant Alternatives Theoryの文脈主義的な展開と見なすこともできる。Jonathan Schafferが最近の支持者として著名だけど、認識論で最初に主張したのは、上で近著を挙げたAdam Mortonと共著者。

とりあえず、今年目についたのはこんなところ。DisagreementやSelf-Knowledgeについての論文集も出ているが、目を通していない。この辺は、全然勉強できていないので、何とかしたい。

今年は、結構ばたばたした年で、あまり本、論文を読めなかった。来年は、おそらく人生で最大級につらい年になると思うので、ますます読めなくなると思う。なんとか頑張りたいものである。

では皆さん、良いお年を。
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2012年10月29日

アプリオリとアポステリオリ(1)

哲学を学び始めるとかなり初期の段階で、アプリオリ性とアポステリオリ性の区別というのを教わる。しかし、正直言って、この区別は極めて厄介で、完全にmake senseするような形で教えることはできない。

まず、アプリオリ、アポステリオリというのは、どういう存在者が持つ性質なのだろうか。複数の提案が存在する。

(1)命題ないし言明、あるいは真理
(2)知識
(3)正当化、あるいは保証(warrant)

(1)は、「アプリオリな命題」などという形で言及されるが、アプリオリ性そのものは、本来(2)か(3)への関連において定義されるというのは、アプリオリ―アポステリオリの区別を学んだことのある人には周知のことだろう。

(2)の知識がアプリオリあるいはアポステリオリであるとは、どういうことだろうか。知識には、最低限(a)信念、(b)真理、(c)何らかのポシティブな認識論的身分が必要であるということは、認識論の合意となっている。(c)を伝統的には正当化としてきたが、ゲティア問題以降、正当化プラス何かが必要だとされたというのは、よく知られた事情だろう。「保証」というのは、この正当化+何か、あるいは正当化が知識に必要ないというなら、それ以外の何かというように、知識から(a)、(b)を差し引いた残りとして定義される抽象的な性質である(名前があったほうが便利なので、こういことをする)。

ある知識がアプリオリあるいはアポステリオリであるという性質を持つとき、それは(a)や(b)が持つ性質に由来するのではなない。したがって、(2)がこれらの性質の第一次的な担い手となる((a)の性質に由来するなら、(1)が第一次的であることになる。しかし、それだとアプリオリ・アポステリオリな真理とは何かを独立的に定義する必要がある)。

アプリオリ・アポステリオリ性の担い手が、正当化や保証であるなら、アプリオリ・アポステリオリな知識は、それによって簡単に定義できる。

(定義1)Sがアプリオリ(アポステリオリ)な知識pをもつのは、Sがpを信じるためのアプリオリ(アポステリオリ)な正当化・保証を持つときに限る。

同様にアプリオリな知識あるいは、正当化・保証によってアプリオリ・アポステリオリな命題を定義することはできるだろうか。これはそう簡単ではない。

(定義2)命題pがアプリオリ(アポステリオリ)であるのは、Sがpをアプリオリ(アポステリオリ)に知っている(正当化・保証を持つ)ときであり、かつそのときに限る。


定義1と違い、この定義は必要十分条件である。定義2は一見もっともに思えるが、いくつか問題がある。まず、この定義によれば、アプリオリ・アポステリオリ性はある認識主体Sに相対的に定義されることになる。したがって、ある人にとってアプリオリな命題は、他の人にとってアポステリオリであるということは排除されない。次に、もしSがアプリオリな知識p(正当化・保証)を持っていないとしよう。定義2から、pはアプリオリな命題ではないということが帰結する。ここから何が言えるだろうか。次の条件は妥当に思える。

(リンク)命題pがアプリオリであるのは、pがアポステリオリでないときであり、かつそのときにかぎる


この条件から、pはアポステリオリな命題であることになる。つまり、SがPをアプリオリ(アポステリオリ)に知らないという単なる知識の不在から(例えば、pが偽であることから)、pがアポステリオリ(アプリオリ)であるということを結論できてしまうことになる。さらに、Sがpをいかなる意味でも知らないとき、Sはpをアプリオリにもアポステリオリにも知らないと言えると思われる。すると、pがアポステリオリかつアプリオリであるという帰結ばかりか、(リンク)によって矛盾が帰結しさえする。

したがって、定義2か(リンク)のどちらかに問題がある。(リンク)は一見してもっともらしいし、また定義2には命題のアプリオリ・アポステリオリ性が主体に相対化されるという奇妙な事態を許すという問題があるので、定義2を別の定義で置き換えるのがもっともな方針であるように思われる。

これからしばらくアプリオリとアポステリオリについて、いろいろ書いていきます。
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2011年12月30日

2011年の認識論を振り返る

年末ということで、今年出版された本を紹介しつつ、今年の認識論を振り返ってみる。

1、徳認識論への関心が高まる。SosaやGrecoが従来のほとんどプロセス信頼性主義と変わらない立場から、知識の価値に着目して、近年、従来とは異なる立場に移行した。両者ともすでにこの新たな立場について本を出版しているが、Sosaがより入門向けの本を書いた。

Ernest Sosa (2011). Knowing Full Well (Soochow University Lectures in Philosophy). Princeton University Press.

知覚経験の内容に関する章を除いて、非常にわかりやすく彼の新たな立場が解説されている。

徳認識論は、主に信頼性主義に近い立場と、徳倫理をモデルにして主体のCharacterに定位した立場という二つの流れがある。後者にはKvanvigの昔の本くらいしか本として出版されたものがないのだが(Zagzebskiの両者の折衷のような立場についての本はあるが)、ようやく次世代の徳認識論者からの単著が出た。

Jason S. Baehr (2011). The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology. Oxford University Press.

これはまだ読んでいないので、近々読んでみたい。

他にも、徳認識論についてのアンソロジーも出版された。

Heather Battaly (Ed.). Virtue and Vice, Moral and Epistemic. Wiley-Blackwell.

幾つか論文を読んだだけなので、この本の評価はまた今度。


2、近年のKnow-Howへの関心の復活をWilliamsonと共に牽引したJason Stanleyが単著を発表した。題名が直球すぎる。

Jason Stanley. (2011). Know How. Oxford University Press.

これもまだ読んでいない。しばらくknow-howがホットトピックになると思うので、勉強しないといけない。

3、ConeeとFeldmanのEvidentialismについてのアンソロジーが出版された。彼らは、Bonjourなどと並んで正当化に関する内在主義の最大の擁護者として知られていて、長いこと頑張っていたのだが、ついに著名な認識論者との公開バトルが実現した(ただし彼らの内在主義は、Mentalismで、Bonjourのアクセス内在主義とは違う)。この本は、序文や付録が充実していて、実に良い。付録の一つは、各論文の要点と、それに対する応答の要点のまとめで、一瞬で議論の核心が分かるようになっていて、実に便利。

Trent Dougherty (ed.) (2011). Evidentialism and its Discontents. Oxford University Press.

4.Epistemic Modalityについてのアンソロジー。これも数年来のはやりトピック。最近の認識論は、相当に言語哲学との結びつきが強く、この本などもほとんど言語哲学の本である。編者は、分析哲学の次代を担うと言われている、すごく評価の高い哲学者たち。

Andy Egan and Brian Weatherson (eds.) (2011). Epistemic Modality. Oxford University Press.


宗教認識論が今年はかなり盛り上がっているらしいが、全然詳しくないので、その最近の動向を紹介できる立場にない。

来年以降も、面白そうなアンソロジーの出版が控えているので、実に楽しみ。では皆さん、良いお年を!



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2011年11月03日

内在主義とは何か

内在主義とは何かという問いに答えることはなかなか難しい。というのは、この言葉自体に幾つか意味があり、認識論で内在主義と呼ばれる立場全てが、同じ意味で内在主義というわけではないからである。そして外在主義は内在主義の否定であると定義できるが、同じ理由で、外在主義と呼ばれる立場すべてが、同じ意味で外在主義であるわけではない。

まず、内在主義・外在主義という立場は、知識に関わるものか、その必要条件に関わるかで意味が違う。それ故、例えば、知識に関する内在主義と正当化に関する内在主義というのは異なる立場であり、正当化を知識の必要条件とすれば、前者は後者を含意するが、その逆は成立しない。

知識に関する内在主義とは、真理を除く知識の必要条件のすべてが、何らかの意味で主体に内在するファクターのみによって成否が決まる条件であるという立場である。

正当化に関する内在主義とは、正当化条件が、主体に内在するファクターによってのみ成否が決まるという立場である。

ゲティア問題を、知識に関する内在主義で解決するのは基本的に無理なので、この立場の支持者はもはやほとんどいない。しかし、正当化に関する内在主義は、まだまだ支持者が多い。

さらにこの「ファクター」という言葉を、すべてのファクターととるか、主要なファクターととるか、一部のファクターととるかでもバリエーションが生まれる。


この点を棚上げして、大雑把な語りを続けると、僕の知る限り、正当化に関する内在主義と一般に呼ばれるのは以下の4つの特徴のうち1つ以上を備える立場であり、全てを満たすことは要求されない。

1、(Mentalism)正当化条件の成否を決定するファクターは、主体の心に属する。
2、(Access Internalism)正当化条件の成否を決定するファクターは、主体が内観のみによってアクセス可能なファクターである。
3、正当化の度合いとは、論理的な支持の度合い(partial entailment)ないし合理性の度合い(epistemic probability)である。
4、(Requirement of Inferential Justification)主体がpを信じるための正当化をもつならば、その主体は「pを信じるための正当化を持っている」と信じるための正当化をもつ。
5、正当化は根本的には、命題に属する性質であり、(心的状態としての)信念に属す正当化は、その派生である。

1は正当化に関する内在主義の代表的論者とされる、Richard FeldmanとEarl Coneeが内在主義と呼ぶ立場である。2は、まあ日本でなぜか内在主義の定義として常に紹介されるので、知っている人も多いだろう。当然のことながら、(2)は(1)を含意する。実のところ、これらの条件は、内在主義の条件としてはかなり弱い。William AlstonやJuan Comesañaといった外在主義者と自称する人たちでさえ、(2)を受け入れるからである。

(3)、(4)が、正当化に関する内在主義をGoldmanのプロセス信頼性主義のような正当化に関する外在主義から本当に区別する基準である。Goldmanは(全てのファクターという制限が付けられたならば)(1)から(4)の全てを否定するが、(1)、(2)の否定は彼の立場に本質的ではない。事実、AlstonやComesañaは、(2)を受け入れつつ、基本的にプロセス信頼性主義をとり(3)、(4)を拒否する。彼らの立場は、正当化にはアクセス可能な証拠を持つことが要求されると言う点で(2)と整合的だが、その証拠が与える正当化の度合いを、その証拠に基づく信念形成プロセスの信頼性の度合いと同一だとする点で、信頼性性主義の与える正当化の度合いの測定基準を受け入れ、(3)を拒否する。

(4)は、Richard FumertonやSellarsといった論者が採用する内在主義の条件であり、1階の正当化は2階の正当化を要求する、というものである。より詳しく言えば、Sの持つ証拠eがpを論理的ないし合理的に支持し、それに正当化を与えるとき、どのようにeがpの証拠になっているのか、すなわちeが論理的ないし合理的にpを支持する、という事実そのものに対する正当化を持っていなければならない、というのが要点である。

(5)は、いわゆる命題的正当化と信念的正当化(doxastic justification)の区別であるが、この区別はかなりややこしいので、説明は今回は省略する。

(1)から(5)の基準がどのように生まれてきたかを考えるには、伝統的な正当化概念とは、合理性とほぼ同一の概念だったということを思い出さなければならない。(3)はその直接的な帰結だし、(4)のような2階の正当化要求も、eがpの証拠であるとき、その事実そのものに対する正当化を持っておらず、単にeを持っているというだけでは、pを信じることに何ら合理化を与えない、という反省から生まれたと思われる。eを持つということもまた抽象的な条件であり、(2)はそれをeを自覚しているという意味にとる。
(1)はかなり弱いが、心のうちに存在すればいいとするもので、伝統的な正当化概念からかなり離れてしまうが、完全な外在主義よりはまだ近い。(5)も、合理性は、信じられる内容(命題)の間の関係に関わるものであり、心的状態としての信念に関わるものではない、という見解から生まれている。


僕が思うには、内在主義と外在主義の対立で最も重要なのは(3)で、ここで根本的に異なるので、内在主義と外在主義というのは、簡単に調和できない。先のAlstonやComesañaも、この点を自覚してか、自分の立場をあくまで外在主義と見なしている。(3)に関する明快な解説として、

Richard Swinburne (2001). Epistemic Justification. Oxford University Press.

を挙げておきたい。
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2011年10月15日

デカルト的懐疑論に対する諸論証とその諸前提

新しい大学に移り、ポスドクを開始してから、早くも一月半が経ちました。ここには優秀な認識論者が多くいて、毎日本当に充実しています。

以前書いてここにもアップしていた論文を改稿しました。6節にかなり手を入れて再構成し、前よりも少しは面白いものになっていると思います。タイトルも変えて、「デカルト的懐疑論に対する諸論証とその諸前提」です。なんかあれなので、もう少し良いタイトルを考えています。

コメントは随時受付中です。

PDFのダウンロードは、ここからできます。
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2011年06月26日

デカルト的懐疑論とその諸前提

某学会誌に投稿するために、久しぶりに日本語で論文を書きました。

デカルト的懐疑論と呼ばれる懐疑論を導く論証はいろいろな種類があり、それらはどのような前提、原理を用いるのかという点が異なります。それらを網羅的に分析し、相違を明らかにすることによって、無用の混乱を避けようという意図で書いた論文ですが、字数制限もあり、やや中途半端な内容になってしまいました。それでも、読みたいという方がいるかもしれないので、ここにアップロードしておきます。下のウィンドウの右上のアイコンをクリックすると大きくなって、読むことができます。

まだ誤字、脱字などのミスがあるかもしれません。質問、コメントなどは随時受け付けます。

なお、この論文の許可無しでの引用は、いまのところ、しないようにお願いします。


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2011年03月26日

ゲティア問題と直観

ゲティア問題と呼ばれる、知識を非循環的な仕方で定義することの難しさは、ゲティアに始まる知識の古典的分析への反例の発見によって知られるようになった。これらの反例には様々なパターンがあるが、反例が存在することから、即古典的分析が誤りだとされたわけではない。何故なら常に、反例を何らかの形で退け、古典的分析を維持するという処置は可能だったからである。

ゲティアの論文は数ページしかないが実に良くできていて、彼がどのように反例を構成したのかを注意深く見れば、古典的分析を否定する際に、特定のケースについての直観は、皆が思うよりも少ない役割しか果たしていないということが分かる。

まずこのブログで何度も書いているように、古典的条件とは、

S knows that p iff

(1) S believes that p,
(2) p is true, and
(3) S is justified in believing that p.

である。ゲティアはこの分析に含まれるiffが、if ではないこと、つまり古典的分析が知識の十分条件になっていないことを示そうとする。

ゲティアは、(3)の正当化条件に関して、2つの想定を置く(実際にはもっと多いが省略する)。1つは証拠主義であり、ここでは以下のように定式化しておこう。

(Evidentialism) S is justified in believing p iff S has adequate evidence for p.


第二に、正当化の可謬主義である。可謬主義と呼ばれる立場は幾つもあるが、ゲティアが念頭におくのは以下のようなものである。

(Fallibilism about Justification) Being justified in believing p doesn't imply p's being true.

この正当化についての可謬主義から、Sが偽である命題を信じるための正当化を持つということが可能であるということが帰結する。したがって、可謬主義が正しいならば、正当化を与える証拠は、それ自体正当化されていなければならないという条件を置いたとしても、その証拠が真であることは必要ではないということが導ける。(最近の認識論では、この伝統的な考えを否定するものも多い)。この想定には適当な名前がないが、False Evidenceと呼ぼう。

(False Evidence) Having adequate evidence q for p doesn't imply q's being true.

このFalse Evidenceと証拠主義から、次のことが導かれる。

(A) It's possible that S is justified in believing p even though S's justifying evidence for p is false.

つまり、古典的分析は、Sがpと信じるための正当化を持つにも関わらず、その正当化が偽である証拠に依っているということを排除しない。そして、(A)が言えるならば、古典的分析から以下のことも導ける。

(B) It's possible that S knows that p even though S's justifying evidence for p is false.

ゲティアが提示した2つのケースは、この実例であるに過ぎない。ゲティアのケースが反例として説得力を持つのは、(B)が非常に強く偽であると思われるからである。

このことは簡単に確かめることができる。(A)を満たすようなケースはいくらでも想定できるので、それらのケースが(B)を満たすかどうかを考えてみれば良いからである。

このようにゲティアの論文を再構成すると、以下のことが言えるように思う。

(1) 古典的分析の否定には、原理的な考察が強く働いている。つまり、古典的分析は(B)を許容するが、(B)は偽である、という考察である。
(2) (B)が偽であることは、多くのケースを検討し、それらがSが知識を持つケースではないという直観的判断が必要である。ゲティアの2つケースとそれに伴う直観が、古典的分析と相容れないという理由のみで、古典的分析が阻却されたというわけではない(それらについて明確な直観を持たない人でも、いくらでも類似のケースを作って確かめることができる)。

面白いのは、最近はPeter Kleinのように(B)を誤りだと考えない人も結構いるということ。ただ彼らにしても、それが端的に誤りだと考えるわけではなく、ある条件が満たされれば、(B)が成立するようなケースもあるとするだけである。
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2011年03月24日

文脈主義とUse-Mention Fallacy

文脈主義に関してよく知らない人がする批判の1つは、「文脈主義は知識をあまりにも容易に獲得できたり、失われたりするものにしてしまう」、というものである。この批判は頻繁に耳にするが、海外の専門誌で取り上げられたことは、僕の知る限りない(曖昧な記憶では、あるとしても1つくらいのはずで、この記事を書くためにネットで探してみたが、見つからなかった)。これは当たり前の話で、この批判は誤解であるか、そうでないにしても極めてミスリーディングだからだ。

まず、文脈主義(Lewis, Cohen, DeRoseらの意味論的文脈主義と呼ばれる立場)とは、知識帰属文といわれる"S knows that p"という形式の文、ないしその否定("S doesn't know that p"という形式の文)が、その文の発話される文脈に応じて、どのような命題を表現するかが変わる、という立場である。したがって、文脈主義とは、何よりもまず、知識帰属文が表す命題が文脈可変的である、という、特定の形式の文に関する意味論的立場であり、それが表す命題が真である条件を定める認識論的立場ではない。

しかし、後者に関して全く語ることなく、知識帰属文がどのように文脈可変的なのかを説明するのは難しい。そこで導入されるのが、warrantだとかepistemic positionという抽象的な概念である。おおざっぱに言うと、これらの概念は、以下の三つの性質によって定義される(標準的に、epistemic positionという概念を使って以下述べる)。

(a) epistemic positionには、強度が存在する。ある命題に関するepistemic positionは人によって強かったり、弱かったりするし、同一の人の異なる命題に関するepistemic positionも強度が異なりうる。
(b) epistemic positionの強度は、epistemic、つまりtruth-relatedなファクターによって決定される。
(c) Sがpを知っているということが成立するための条件から、non-epistemicな条件を差し引いた残余が、S is in a strong enough epistemic position regarding p である。

(b)に関して補足すると、epistemic positionの強度を決定するepistemic factorが何かという問題こそ、認識論あるいは知識論の第一次的な問題である。例えば、証拠主義なら十分な証拠を持っていることとするし、プロセス信頼性主義なら、pという内容の信念を生み出す認知プロセスの一般的に信頼可能性が、そのファクターであるとする(これらのファクターには強度が存在し、自然に(a)を満たせることに注意)。知識の成立に関わる典型的なnon-epistemic factorは、S believes that p と、p is trueである。したがって、(a)、(b)、(c)から、Sがpと知っているための一般的条件は以下のようになる。

S knows that p iff (1) S believes that p,
(2) p is true, and
(3) S is in a strong enough epistemic position regarding p.

文脈主義は、このように知識の条件を抽象的に定義した上、知識帰属文の文脈可変性を以下のように説明する。どの程度のepistemic positionの強度が、(3)の条件を満たすために要請されるかは、文脈によって決定される。そして同時に、この要求される強度に応じて、その文脈において、知識帰属文がどのような命題を表すかも決定される。

例えば、不可謬主義的懐疑論が問題となるような文脈では、(3)の条件を満たすために要求される強度は極端に高くなる(すなわち、極端に高い強度でないと、strong enoughでない、となる)。議論の簡易さのため、この要請される強度をmaximalだとしよう。すると、知識帰属文"S knows p"がその文脈で表す命題は、

(1) & (2) & S is in a maximally strong epistemic position regarding p

となる。あるいは、この命題を知識に関する極端に高い(maximalな)基準が用いられたと解して、以下のように表現することもできる。

S knows by the maximally high epistemic standard that p

この命題を満たすことは、事実上、どのようなSと経験命題pの組にも不可能なので、不可謬主義的懐疑論の文脈では、知識帰属文"S knows p"は、Sとpがどのようなものであれ、偽となる。しかし、たとえSが例化するepistemic factor, Sがpと信じるかどうか、pが真かどうかといった点が懐疑論的文脈と同一であるとしても、通常の文脈では、同一の形式の文が表す命題は、

(1) & (2) & S is in a less-than-maximally strong epistemic position regarding p、か

S knows by the less-than-maximally high epistemic standard that p

であり、多くの人はこれを満たすことができる(正確には、その文脈が要求する強度、pの内容によるが、この点は簡略さのため省略する)。したがって、通常の文脈では、知識帰属文は(多くの場合)真である。

文脈主義者の多くは、文脈が変化する要因として、知識帰属文を発話する人物の心理的要因(pに関するどのような反対の可能性(alternative)が顕著であるか)や、実践的要因(pが真であることにどの程度の実践的重要性があるか)を挙げる(しかし、僕の知る限り、いかなる文脈主義者も、これらの要因が存在するならば、必然的に文脈が変化するとは主張しない。文脈変化のメカニズムは部分的に経験的な問題で、哲学的根拠のみで決定できない)。このことが、最初に述べた「文脈主義は知識をあまりにも容易に獲得できたり、失われたりするものにしてしまう」という批判を誘発する原因だろう。

しかし、今まで述べたことから明らかなように、文脈主義とは知識に関する立場でなく、「知識」あるいは「知っている」という語を含む文が表現する命題に関する立場である。そしてもちろん、compositionalityから、「知っている」という語の意味論的値に関する立場だと言える。ここで外延的に、知識とは「知識」の指示対象、あるいは「知っている」が表す関係だと置いてみよう。別の言い方では、この指示対象ないし、関係が文脈に応じて変化するというのが、文脈主義である。

文脈AとBで、同一の形式の文がAでは真、Bでは偽であるということは、その文が文脈可変的な語を含む限り、起こりうる。例えば、"S is tall"という形式の文は、Sの身長が180センチであった場合、多くの文脈では真であるが、バスケットボールプレイヤーについて話している文脈では偽であるかもしれない。これは後者の文脈で"tall"が表す関係が tall for a basketball playerであり、Sはこの関係を例化しないからである。しかし、これらの文脈間で、Sの身長が変わるわけではない。

知識に関しても同様で、Sの例化するepistemic factorが変化しない限り、(b)により定義上、Sのepistemic positionが変化するということはない。これが意味するのは、「知っている」という語が表現しうる関係(knowing by the maximally strong epistemic standard、knowing by the ordinary standardなど)のうち、どれをSが特定のpに関して満たし、どれを満たさないのかということは、真理とSの信念というnon-epistemic factor、そしてSの例化するepistemic factorに変化がない限り、文脈間で異なることはない、ということである。文脈が影響を与えるのは、あくまで、そのうちどの関係を「知っている」が表現するのかという点に過ぎない。

したがって、「文脈主義は知識をあまりにも容易に獲得できたり、失われたりするものにしてしまう」ということはない。Sがどのような知識を持つかは、Sが「知っている」が表現しうるどの関係を満たすのかということと同義だからである。この批判の誤りは、知識、知っているという実質的な事柄と、「知識」、「知っている」という言語表現に関する言語的(カルナップなら形式的と呼ぶだろう)事柄を混同している点にある。簡単に言えば、これはある種のuse-mention fallacyの一例であり、"tall"の文脈可変性を根拠に、人の高さが容易に変化するものになってしまうと言っているようなものである。

DeRoseの2009年の本には、この批判をいつも聞いてきたと述べた後、ここで述べた路線で反論を述べている箇所があるので、参考にして頂きたい。

【追記】「知っている」とそれが表す関係が、一対多の関係であるということが文脈主義の前提であり、これを否定する立場、すなわち「知っている」は常に同一の関係を表現するという立場は、不変主義(invariantism)と呼ばれる。
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2010年10月05日

書評

またもや、全然更新してませんでした。9月に博士論文の諮問を受け、一部修正後、先週大学に提出しました。これで、博士取得ということになります。そのうち、5年間の博士取得までの道のりをもとめる予定です。

今回の記事は、科学哲学最新号に載った認識論関係の論文の書評、というか批判的コメントです。もとの論文が英語だったので、英語で書きました。

I've read "On Memory Knowledge" by Shin Sakuragi (Kagaku Tetsugaku 43-1, 2010, pp. 61-77). It is rare that a Japanese writes an epistemology paper, and so I will comment on this paper.


1. The author starts the paper by mentioning the problem of forgotten evidence, though, oddly, no reference to Goldman, who first raised this problem.

2. The central concept, memory impression, is not defined well. It is defined to be phenomenal, but it is often treated as having propositional contents.

3. on p. 63, internalism is characterized in terms of accessibility. Then, later, Conee & Feldman are discussed as proponents of internalism. But, of course, they don't commit themselves to access-internalism. For this reason, I don't think the author's interpretation of their view on p. 65 is right. Indeed, the quote there suggests that they advocate a different view - mentalism.

4. on p. 64, the author says "It is well recognized that we cannot base memory knowledge on any inferential process from memory impressions." It's not clear at all what this means, nor is why the author's argument shows this.

His argument is the following:

"to deduce the memory knowledge from my memory impression, I need to appeal to a principle like this: when I feel just like how I am feeling now, I almost always remember, and thereby know, something... But I cannot derive the principle by induction, for, to derive it inductively, I have to appeal to different instances of my past experience (“When I felt such and such at t, I actually remembered. . .”). On the face of it, such an appeal eventually leads me to a vicious regress."

I have no idea why this is relevant. First, there is a level-confusion in Alston's sense. In this paper in general, the author ignores important epistemic distinctions, such as "justification-knowledge," "belief-knowledge," and "propositional-doxastic justification." For example, when he claims "memory impression justifies memory knowledge," it means that memory impression knowledge-level justifies p. Relevant here is the distinction between first-order and second-order justification (or knowledge.) In the context where the quote is located, the issue is whether one can base p, not knowing p, on the memory impression that it seems that p. But then, the issue is changed to the one as to whether one can base knowing p.

Second, even if the issue is second-order justification or knowledge, I don't see why the argument holds. Though I'm not entirely sure, it seems that the author's point is that in order to have knowledge that S knows p on the basis of memory impression, S needs to have ground for the reliability of memory. But, in order to have ground for the reliability of memory, S needs to have ground for remembering p, which requires having ground for the reliability of memory, and so on (I don't know if this is a vicious regress; it is more of a circularity). But grounds for the reliability of memory can be gained from some source independent of memory, say, someone's testimony. Or, his point might be that this inference is bootstrapping. If so, it is a general problem for basic sources, arising for both internalism and externalism.

Third, this argument presupposes that what justifies must be justified all the way down. It is a Pyrrhonian skeptical argument. Even hard-core internalists would deny this presupposition.

5. on p. 69, Huemer's example is mentioned. I doubt if this is a good example for semantic reasons, but let me put this point aside. After all, it is simply a variant of the new evil demon case. Then, the apparent conclusion would be that internalist coherence is sufficient for justification, not that memory impressions justify beliefs, as the author derives it.

6. The example on pp. 70-1 does not show that "my memory impression constitutes a part of the epistemic grounds of my memory knowledge" (p. 71). It is consistent with the example that the defeater undermines the belief that S's memory is reliable, and it is why S is not justified on the basis of memory (not necessarily, memory impression). The concept of defeater has wider usage than Pollock construes it to be. Moreover, the argument here presupposes a foundationalist version of the present ground theory, according to which memory beliefs are ultimately grounded on memory impressions. it's odd that coherentism is not even mentioned, and the present ground theory is always assumed to be foundationalist.

7. I don't buy the counterexample to reliabilism on p. 71. I do not share the author's intuition, and the example doesn't involve any explanation of why his intuition seems right. Moreover, the belief in question (My name is X) is similar to necessary truth. Reliabilism has notorious difficulties with such truth. The problem doesn't seem specific to memory knowledge.

8. Again, I don't buy the example on p, 72-3. Especially, reliablism has an easy way-out of this example: memory in amnesia is a different process than memory in normal condition.

9. Many issued brought up in this paper are simple variants of the issues concerning perceptual knowledge. I wonder if there is any problem specific to memory knowledge other than the problem of forgotten evidence.
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2010年02月25日

Craigの社会学的アプローチ

Stichら自然主義者の考える、規範的理論がデカルト以降の第一哲学の残滓に思えると先のエントリで書いたのだが、Stichの1990年の本を読み返していると、最初にまさにそういうことが書いてあった。やはりある意味で、自然主義的認識論は分析的認識論よりも、ずっと伝統に忠実なのだ。

以前から書いているように、実験哲学の一つの意義は、哲学をめぐる方法論的な問いの重要性を哲学者たちに認識させたことにある。概念分析としての哲学という考えは、Frank Jacksonが10年ほど前に改めて定式化し、実験哲学の初期の成果は、彼の本の書評で発表された。この本はWilliamsonの最近の批判のターゲットでもあり、彼のJacksonとのAnalysisにおけるやりとりは、あまりにもJacksonをけなしていて、かわいそうになってくるほど。

しかし、概念分析をしないとすると、どうやって哲学をやったらいいのか。実験哲学者のWeinbergが提唱する方法論は、90年のCraigの本で提出された方法論をモデルにしている。

Edward Craig (1990). Knowledge and the State of Nature: An Essay in Conceptual Synthesis. Oxford University Press.

この本は、知る人ぞ知るという感じで、名著だがあまり読まれることがなかった。従来の認識論の概念分析を批判しつつ、Craigが提唱する方法論は、自然状態から「知識」という概念が何の目的で生まれ、維持されてきたのかという、概念の機能に関する社会的考察を、壮大な思考実験として行う、というものだ。実に斬新なアプローチだが、90年代はほとんど無視されていて、Weinbergは、あまりにも過小評価されていると会ったときに言っていて、僕が読んだことがありますといったら、マジでって感じで驚いていた(相当前に入手して、何故買ったのかを全然覚えていない。一時認識論関係の出版物を手当たり次第に買っていたときがあったので、そのときに買ったのだと思う)。

実のところ、この本が再び脚光を浴びたのは、Weinbergというよりも、認識論のValue Turnの中でである。Craigのアプローチは、「知識」概念の社会的機能に注目するものだが、Value Turnで注目された他の方向性の一つは、我々の実践における知識の機能に注目するというものである。SSIなどは、このアプローチから生まれた立場だ。

実験哲学はSSIが使うケースも批判対象にしていて、論文が幾つか書かれたが、一つの論文は、SSIを矮小化しているというか、SSIの立場が、あるケースに対する直観に依拠するものでしかない、と理解している。これは大きな間違いで、SSIは、直観以外に、この知識の機能の分析に依拠している。この理論的部分が強力だというのが、SSIの魅力である。

どうも、一部の自然主義者は、伝統派を攻撃するだけが目的になっているようなところがあり、それが前から全然自然主義に興味がない理由だった。もうあまり身のない批判はいいから、何か面白い成果を見せてくれよとずっと思っていたが、実験哲学というのは、その点でいろいろ実験してくれるから、面白い。
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2010年02月11日

マクダウェルとSSI

ジョン・マクダウェル(John McDowell)は、subject-sensitive invariantismにコミットしている。このことは全く知られていないが(MacFarlaneがある論文で、言及しているだけ)、その理由は、彼がこのアイデアを論文の註で言及しただけで、本格的に展開しなかったためだろう。彼の論文、Knowledge by Hearsay (in Meaning, Knowledge, and Reality, Harvard University Press, 1998)の註24が、問題の註である(この論文は、SSIが台頭する以前の1993年に書かれている)。

Note that the standards can depend on what is at stake. Consider again the case of the child at school. If nothing turns on it, we might casually credit her with knowledge of the arrangement of the furniture in the living room of her house. But if we tell the story so that something that matters a great deal to her depends on whether she is right, it may become doxastically irresponsible for her to vouch for the layout’s being as she recalls it to be. In such circumstances, it starts to be significant for her epistemic status that her parents may have moved the furniture, and she is in a position to know that that kind of thing does happen. (Knowledge by Hearsay, fn 24, p. 429)

SSIにはいろいろヴァージョンがあってややこしいのだが、ここではFantl&McGrath,Stanley, Hawthorneのヴァージョン全てに共通する、「どの程度のepistemic statusが知るために要求されるのかという知識の基準は、認識主体にとってのstake、つまりpragmaticな関心によって変動する」、というアイデアが明確に書かれている。違いは、マクダウェルは、知識の必要条件を、認知的責任を持つこととみなす、正当化についての内在主義的でdeontologicalな見方をとっていて、この認知的責任がepistemic statusの少なくとも1要素だとする、という知識論を採用しているところ。一番近い立場は、伝統的な内在主義者のFantl&McGrathのヴァージョンのSSIだろうな。でも彼らは認知的責任については、何も語っていない。

さらに言うと、マクダウェルは正当化についての内在主義者で、正当化には証拠を(内在主義的な形で)持つことが要求されるとする、証拠主義者である。しかし、彼は、証拠の同一性基準として、認識主体の主観的弁別性ではなく、外的条件をとる、証拠についての外在主義者である。正当化の内在主義と、この意味での証拠の外在主義は、両立可能な立場である。マクダウェルが認識論内で誤解され続けたのは、証拠の外在主義というのが斬新すぎて、ほとんどの人が思いつきもしなかったのが理由だ。例えば、正当化についての外在主義者も、ほとんど皆、証拠についての内在主義者である。現代の認識論で証拠を巡る議論が整備されたのは最近で、Williamsonの登場以降である。やはり、彼の認識論への貢献はとてつもなく大きい。WilliamsonのKnowledge and Its Limitsは、DeRoseがここ数十年の認識論関係の著作で卓越していると評していたが、やはりそうだと思う。ただこの本は、ほんとに読むの苦労するのだ。

閑話休題。SSIも文脈主義と同じく、哲学史のあちこちに顔を覗かせる。しかし、SSIが一哲学立場として確立するのは、何より上述の支持者達が、pragmaticなファクターが知識に影響を与える、ということを説得的な論証で示したからである。そうした論証なしのアイデアの披瀝というのは、哲学ではあまり重要ではない。でも、こういうのを調べるのが、哲学史の面白さの一つではある。

この註は、2年くらい前にマクダウェルを勉強し直しているときに見つけ、Fantlに報告して、面白いコメントが聞けたのだが、無許可で書くのも問題なので、ちょっとここでは書けない。申し訳ない。

というわけで、有名人と文脈主義シリーズの2回目。正確に言うとSSIは文脈主義ではないが。
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2010年01月29日

最近の入門書

「文脈主義を学ぶひとのために」は、なかなか評判が良かったみたいで嬉しい限り。あそこで書き忘れたのだが、文脈主義の勉強をするためには、そもそも認識論を知っていないと、なかなか難しい。認識論の入門書はこのブログで幾つか紹介してきたが、今まで紹介してなかったものを幾つか紹介。僕は入門書マニアなので、こういうの書くのは楽しくて仕方ないなあ。

Duncan Pritchard, What is this Thing Called Knowledge? (Routledge, 1st ed. 2006, 2nd ed. 2009)

認識論の知識が全くないという人は、とりあえずこの本からがいいかもしれない。学部1回生向けなので、記述は簡単だが、いろいろ面白く読めるように工夫されている。2000年以降の認識論の動向も抑えられている。しかし、2006年に1版が出て、もう2版である。最近の認識論の流れの速さを象徴しているなあ。僕は2版は読んでいないが、どこが変わっているのかな?

2版といえば、この入門書も最近2版が出た。

Laurence BonJour, Epistemology: Classic Problems and Contemporary Responses. (Rowman & Littlefield, 1st ed. 2002, 2nd ed. 2009)

この本は学部中級向けの入門書。これまた1版しか読んでいないが、なかなかいい。

同じく学部中級向けで、もう少し詳しく個々の哲学者の見解に焦点を合わせたものが、これ。Cambridge Introduction to Philosophyというシリーズの1冊で、このシリーズはどれをよんでも結構いい。

Marcelino Lemos, An Introduction to the Theory of Knowledge. (Cambridge University Press, 2007)

現代の分析系認識論にある程度知識があるという人、またはあまり詳しくならなくても手っ取り早くいろんな立場を知りたいという人には、ここでしばしば言及しているFeldmanのやつか、これ。

Duncan Pritchard, Knowledge. (Palgrave Macmillan, 2009)

いろんな立場(かなり新しいものも含む)が簡素に整理されていて、薄いが充実している。しかし、Pritchardは短期間に2冊も入門書書いてるんだなあ。あいかわらずの仕事量。僕は数年前までかなりのPritchard好きで、彼の著作、論文を全部読んでいたが、最近追いつかなくなってきた。ほんとにすごい仕事量だ。

同じように薄いが、内容的にかなりディープなのが、これ。

Linda Zagzebski, On Epistemology. (Wadsworth Publishing, 2008)

Zagzebskiは徳認識論の第一人者。日本では徳認識論者といえばSosaが有名だと思うが、Sosaの徳認識論は信頼性主義の変形にすぎなくて、あまり徳認識論というネーミングが相応しくない(ただし、最近立場が変わって、ややZagzebskiのアイデアにやや近づいた)。彼女は、知識の価値を巡る認識論の展開(Value Turn)を牽引した一人としても有名。この本も、知識の価値というトピックが詳しく書かれている(Pritchardもその一人で、彼の入門書にもこのトピックは入っている)。


あとはやはりアンソロジーを入手して、トピック別にまとめられた論文を解説と共に読む、というのが勉強にはいいと思う。こちらの大学の学部生向け認識論のクラスで、最も使われる(と思われる)教科書はこれ。

Ernest Sosa, Jaegwon Kim, Jeremy Fantl, and Matthew McGrath, Epistemology: An Anthology. (Blackwell, 2nd ed 2008)

一昔前の1版とはだいぶ論文が変わっている。最大の違いは、ここ最近のホットトピック、文脈主義と知識の価値が項目として加えられたこと。前者に関しては、MacFarlaneの相対主義(relativism)の論文まで入っている、ちょっと未来に行き過ぎの感じ。知識の価値は徳認識論とまとめられているのが、ちょっと不満だな。

知識の価値はプラトン以来の問題だし、この問題から入ると、何故知識が哲学の問題になるのか、という点を理解してもらいやすく、認識論の入門には一番いいのではないかと思っている。去年非常勤で認識論を教えたときに、このトピックが入ったアンソロジーを探したのだが、新しすぎるのかなかなか見つからなかった。ようやく見つけて教科書にしたのが、これ。

Duncan Pritchard, and Ram Neta, Arguing About Knowledge. (Routledge, 2008)

僕が教えたかった他のトピック、何が証拠になるのか、信念の倫理、基準の問題、などが入っているのもいい。この本のトピックの分け方は、かなり最近の認識論の流行を反映したものになっている。また、懐疑論のところに、何故かボルヘスの「円環の廃墟」が入っているのも、個人的に好ましい。
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2010年01月25日

クワインと文脈主義

クワインの認識論、すなわち自然化された認識論には、日本語でも英語でも多くの論文が書かれたきた。今更僕ごときがそれらに付け加えるようなことはないが、一つ指摘できることがあるとすれば、クワインのかなり独特の知識観を知るには、彼の辞典、『Quiddities: An Intermittently Philosophical Dictionary』がよい手がかりになるということだ(僕の知るクワインの認識論に関する論文で、この本にまともに言及した論文はない)。

そして、クワインのそこでの見解は、文脈主義者たちの見解とある種の親近性を示すと共に、やはりかなり距離があるという、極めて独特のものになっている。まず、クワインは、「知る」という語について、以下のように述べる。

We do better to accept the word ‘know’ on a par with ‘big’, as a matter of degree. It applies only to true beliefs, and only to pretty firm ones, but just how firm or certain they have to be is a question, like how big something has to be to qualify as big. (p. 109)

ここでクワインが指摘しているのは、「知識」という語が、段階的形容詞と類似の性質(彼が曖昧さ(vagueness)と呼ぶ性質)を持ち、「大きい」がある対象に正しく適用されるためにどの程度それが大きくなければならないのかに関する明確な基準存在しない(ように見える)のと同じように、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるために、pがSにとってどの程度確実、ないし確固(firm)でなければならないのかに関する明確な基準が存在しない(ように見える)、ということである。

しかし、同時にクワインは、「知る」と段階的形容詞には相違があるとも指摘する。

There is no place in science for bigness, because of this lack of boundary; but there is a place for the relation of bigness. Here we see the familiar and widely applicable rectification of vagueness: disclaim the vague positive and cleave to the precise comparative. But it is inapplicable to the verb ‘know’, even grammatically. Verbs have no comparative and superlative inflections,... (ibid.)

段階的形容詞の曖昧さは、比較級を使うことで解消することができるが、「知る」は形容詞ではなく、語尾変化しないので、比較級や最上級を作ったりできない。この考察から、クワインは驚くべき提案をする。

[追記]ここでさらにクワインは、「大きい」という語は、科学内に居場所を持たないと指摘している。しかし、大小関係は、科学内に居場所をもつ。ここでの比較級への言及は、おそらく、特定の大きさを基準に、それより大きいか小さいか、つまり比率尺度で測定できるということを念頭に置いている。以下の「知る」の消去主義は、やはりクワインの自然主義が根底にあり、「知る」に対しては比率尺度が使えないので、(科学の一部としての)認識論には居場所がなく、それが使える「確実性」や「正当化」という概念だけで、認識論はやっていくべきだ、という提案である。

I think that for scientific or philosophical purposes the best we can do is give up the notion of knowledge as a bad job and make do rather with its separate ingredients. We can still speak of a belief as true, and of one belief as firmer or more certain, to the believer’s mind, than another...

These reflections perhaps belong in their rudimentary way to the branch of philosophy known as epistemology, or the theory of knowledge. Rejection of the very concept of knowledge is thus oddly ironical. (ibid.)

つまり、語尾変化しない「知る」では、どの程度知っているのかということを正確に語ることができないので、認識論は「知る」、ないし「知識」という語を使用することを、やめるべきである、とクワインは結論しているのだ。

ここでのクワインの議論には、ある程度文脈主義と類似点がある。

まず、「知る」と段階的形容詞がクワインのいう曖昧さを持つということは、文脈主義がしばしば用いるアナロジーである。文脈主義者は、この曖昧さは両者が文脈依存的表現だからだとみなす。そしてもちろん、ここから、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるための基準は、文脈によって設定されるとする。

ここのクワインの考察は、こうした文脈依存性とは無関係に成立するが、なにより奇妙なのは、クワインがこの考察から、pをSが知っていることそのものが、程度問題(as a matter of degree)としていることだ。つまり、二人の認識主体S1とS2が同一の命題pに対して、一方が他方よりもよく知っている、ということがあると言っている。ここでのクワインの議論には問題がある。pがSにとってどの程度確実であるのかということには程度があるとしても、Sがpを知っていることに程度があるということは帰結しない。文膜主義者がよくやるように、

S knows p only if S is certain that p, to a sufficient degree.

として、確実さには程度があり、どの程度の確実さが知るために要求されるかは曖昧だが、知っていることそのものには程度はない、と考えればいいからである。事実、こうした命題的知識に程度があるという見解は、現代の認識論ではかなりマイナーな考えであり、Hetheringtonくらいしか支持者がいない(そしてこの人は、僕が認識論マイナー大賞というのがあれば、受賞確実だと思うぐらい、いろいろな非標準的な見解で知られている人である。ただし、彼の見解は別段トンデモではなく、真剣に考察するに値する)。

クワインは、「知る」と段階的形容詞の相違に注意を向け、前者が後者と異なり、曖昧さを除去するための構文論的装置(語尾変化)を持たないと指摘する。「知る」と段階的形容詞の構文論的、意味論的相違というのは、Stanleyが近年詳細に調査し、相違がありすぎるために、文脈主義の依拠するアナロジーは成立しないと結論している(この路線の批判は、過去文脈主義に向けられたもので最も直接的であり、強力である。いまだStanleyに対する、これだという応答はでていないが、Blome-Tillmannなどが頑張っている)。ここでのクワインは、かなり単純な仕方でだが、同じようなことをやろうとしている(ただし、ここのクワインの議論は、やや単純すぎると思う。ここでの指摘は、「知る」と段階的形容詞の相違というより、動詞と段階的形容詞の相違を指摘するものにすぎないからである。まあ、これだけでもクワインのここでの目的には十分なわけだが)。

さらに、クワインの結論、「「知る」の曖昧さは除去できないので、認識論からこの語を消去すべきだ」、という消去主義の提案は、ある程度文脈主義の主張に近い。ここまでラディカルなことを言う文脈主義者はいないが、彼らは一様に、「知る」の曖昧さ、あるいは多義性が、様々な認識論的問題を引き起こす原因だとし、その点が明確になればこれらの問題は解消されるとする。つまり、彼らは、「知る」を消去しろというところまでいかないが、少なくとも曖昧さを除去すべきだという点で、クワインに同意するはずだからである。

文脈主義的な主張は、哲学史のあちこちに現れるが、これからも機会ががあれば、触れていきたい。
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2010年01月23日

ゲティア問題と概念分析

ゲティア問題の解決として、最もシンプルなのは、その問題の存在を否定することである。すなわち、knowledge = justified true belief、これで良い。

この立場は、多くの認識論者には、ばかげたものだと聞こえるかもしれない。しかし、この立場こそ、21世紀に入ってから、著名な認識論者によって擁護されているものである。

まず、Jonathan Sutton (2007). Without Justification, Cambridge, MA: MIT Press.

この本は、Williamsonを使いながら、この立場を擁護する。ただし、彼は自分の立場に対する反論をいろいろ検討するが、ゲティア問題からの反論の扱いが最もうまく行っていないと思う。Williamsonも同様に、ゲティア問題の存在の否定にコミットしている。というのも、Williamsonの立場は、what justifies is knowledgeというもので、知識以外のもの、単なる信念や、正当化されてはいるが誤っている信念、またもし知識が正当化された真なる信念でないとすれば、正当化された真なる信念でさえも、信念を正当化することはできないという立場だからである。(しかし、Williamsonは実のところゲティア問題の存在を認めているので、ここに不整合があると、しばしば指摘される。しかし、僕の見解では、Williamsonはこの批判をjustificationの多義性に訴えることでかわすと思う)。

もう一つ、Brian Weatherson (2003). What Good Are Counterexamples? Philosophical Studies 115 (1):1-31.

Weathersonは、「知識」の概念分析としての知識論という考え方を擁護する。しかし、何故概念分析が、すべての直観に合致するようなものでなければならないのか、と問う。彼によれば、そうしなければならないと考えるのは、概念とは何かという点に関する誤った理解に基づいている。したがって、知識の概念分析は、ゲティア反例に対処する必要などなく、ゲティア問題は存在しない。

この見解は、例えばFrank Jacksonや、彼を中心とするCanberra Planに従事する人々の持つ概念分析についての考え方と極めて対照的だ。しかし、WeathersonもCanberra Planも、Lewisの考えを引いているところがおもしろい。Canberra Planは、まさに実験哲学者が攻撃しているものだが、Weathersonは、実験哲学者の攻撃を回避することができる(最近出たCanberra Planの本は、StichとJacksonの往復書簡が収録されていて、本格的な論争が見れると思ったのだが、議論が変な方向に行ってしまい、残念。Jacksonが最初に、実験哲学については後ほど、と書いているのになあ)。

そもそも「概念」という概念は、哲学、心理学、最近では社会学でも使われるが、これらの学問の内部においてさえ、まったくその意味についての合意がなく、実に多種多様な使われ方をする。とくに、心理学、社会学では「概念変化」というのが主題になるのだが、変化は同一性を前提にするので、それを語るためには、そもそも概念の同一性の基準が提示されなければならない。そして、そうした基準を与えるためには、少なくとも概念とは何かということが確定される必要がある。僕の知る限り、この点を発達心理学で、初めてつっこんだのは、

diSessa, A. A. & Sherin, B. (1998). What Changes in Conceptual Change? International Journal of Science Education, 20(10): 1155-1191.

である。この論文の前半はいろいろ例を挙げて、発達心理学内で、「概念」とか「概念変化」という語が、あまりにも多義的に使われているのに、研究者たちはそれに無自覚なところがあるので、きちんと自分の意味を定義するように、というもの。

さらに、この路線の延長とも言うべき本が最近出た(この論文は参照されていないので、両者はまったく独立に構想されたようだが)。

Edouard Machery (2009). Doing without Concepts, Oxford University Press.

著者は実験哲学の立役者の一人。この本は、哲学、認知心理学間で、そしてこれらの学問の内部でさえ、「概念」という用語があまりにも多義的に使われ、多くの人はそれでも同じものについて語っていると思っているが、それぞれ通訳不可能で、全く別ものなので、もうこの語を使うのはやめたらどうだと、「概念」についての消去主義を提唱する。この本はまだ全部読んでいないけど、実に勉強になる。

(ただし、この本についての書評は僕が読んだだけでも幾つかあるが、どれひとつとして好意的なものはない。僕自身も、哲学における概念の章は、あまりにも短いし、外在主義が全く扱われないなど、不十分だと思う)

最近ではWilliamsonも、概念分析としての哲学という考え方を批判する際に、概念の同一性のための条件を確定させることは不可能だと論じている。Williamsonによれば、哲学は、事象分析であって、概念分析ではない。同様の見解をSosaも持っているので、昨年Sosaと話し込んだときに、あなたの見解はWilliamsonと似てますねと言ったら、Jacksonの本の書評を書いたときにすでに言ってたんだよ、と返答された(なお、Sosaは、物腰の柔らかい、紳士的な人なので、怒っていたわけではない)。
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2010年01月18日

文脈主義を学ぶ人のために

より建設的に、文脈主義に関する議論をきちんと学ぶために、何を読めばよいのかを手短に解説したいと思う。もし、まったく知識がない状態で、本格的に標準的ヴァージョンの文脈主義と、そのライバル主体鋭敏性不変主義を学びたいという人がいれば、以下の順番で読むのが、僕のお薦めです。

1. Patrick Rysiew (2007). "Epistemic Contextualism," Stanford Encyclopedia of Philosophy.

かなり詳細なサーヴェイ。Rysiew自身の論文もWAMを支持する代表的なものなので、読む価値あり。


2. John Hawthorne (2004). Knowledge and Lotteries. Oxford University Press.

文脈主義と様々なヴァージョンの不変主義が詳細に比較される。現在の議論の土台を作った、記念碑的著作。読めばいろいろな立場にかなり詳しくなれます。主体鋭敏性不変主義を一応支持する。

3. Jason Stanley (2005). Knowledge and Practical Interests. Oxford University Press.

文脈主義って意味論的にどうなのという、詳細な言語的探求。主体鋭敏性不変主義を支持するが、議論自体はHawthorneとさほど違うわけではない。

4. David Lewis (1979). “Scorekeeping in a Language Game,” Journal of Philosophical Logic 8, 339-359.
5. --- (1996). “Elusive Knowledge,” Australasian Journal of Philosophy, 74(4), 549-567.

ここからは個々の文脈主義者の論文へ。まずはLewisから。かなり極端な外在主義的証拠主義と文脈主義の組み合わせ。Lewisって、やはり天才だよなーと思う。あと、知識は信念を含意しないって、やっぱり極端なこと言う。

6. Stewart Cohen (1988). “How to be a Fallibilist,” Philosophical Perspectives, Volume 2, 91-123.
7. --- (1998) “Contextualist Solutions to Epistemological Problems: Skepticism, Gettier, and the Lottery,” Australasian Journal of Philosophy, 76(2), 289-306.
8. --- (1999). “Contextualism, Skepticism, and The Structure of Reasons," Philosophical Perspectives 13: Epistemology: 57-89.
9. --- (2005), “Knowledge, Speaker, Subject," The Philosophical Quarterly, 55(219), 199-212.

次はCohen。内在主義的証拠主義と、文脈主義の組み合わせ。1998は、Lewisの文脈主義の批判を含むが、後でHellerに再批判されたり。1999は、立場を変えるが、かなり変なことになっちゃう。あるヴァージョンの懐疑論に対しては文脈主義はうまくいかないと敗北宣言して、でも懐疑論の否定を信じることはアプリオリに合理的だ、とむちゃくちゃなこと言う。2005はHawthorneの立場の検討と、文脈主義の擁護。

10. Keith DeRose (1992). “Contextualism and Knowledge Attributions,” Philosophy and Phenomenological Research 52(4), 913-929.
11. --- (1995). “Solving the Skeptical Problem," The Philosophical Review 104(1), 1-52.
12. --- (1999). “Contextualism: An Explanation and Defense,” in The Blackwell Guide to Epistemology, J. Greco and E. Sosa, eds., Malden MA, 185-203.
13. --- (2002). “Assertion, Knowledge and Context," The Philosophical Review, 111(2): 167-203.
14. --- (2004a). "The Problem with Subject-Sensitive Invariantism," Philosophy and Phenomenological Research 68 (2), 346-350.
15. --- (2004b), “Sosa, Safety, Sensitivity, and Skeptical Hypotheses,” in Greco, ed., Ernest Sosa and His Critics. Cambridge, MA: Blackwell, 22-41.
16. --- (2005) "The Ordinary Language Basis for Contextualism, and the New Invariantism," Philosophical Quarterly 55 (219), 172–198.

文脈主義最大の擁護者DeRose登場。最初の2つは、まあ古典なので、読むしかない。2004aと2005は、主体鋭敏性不変主義の批判だが、今はこんな単純にいかないと思っている。2004bは、1995を読んで、DeRoseの立場って、NozickのSensitivityと文脈主義の組み合わせでしょと、誤解!している人にこそ読んで貰いたい。この誤解は、Hawthorneもしているので、彼の本のDeRoseの箇所は、気をつけて読む必要がある。

17. --- (2009). The Case for Contextualism. Oxford University Press.

懐疑論に関するもの以外のDeRoseの論文は、この本でかなり修正された上でまとめられた。だからまあ1995と2004b以外は、この本読めば必要ない。でもまあ、彼の立場の発展を押さえたい人は、上の論文もどうぞ。

18. Matthew McGrath & Jeremy Fantl (2009a). Knowledge in an Uncertain World. Oxford University Press.

主体鋭敏性不変主義の提唱者、McGrath & Fantlが、満を侍して登場。彼らの議論は、めちゃくちゃ細かいので読みにくいかもしれないが、収穫は大きいはず。正直文脈主義関係の論者では、一番考えていると思う。あと彼らの主体鋭敏性不変主義は懐疑論に対しては有効でないと認めている。Stanleyは、この辺簡単に考えすぎてる。Hawthorneのヴァージョンは懐疑論にまだ対処できる。何故そうなるのかが理解できれば、かなりの上級者。

19. --- (2002). "Evidence, Pragmatics, and Justification," Philosophical Review 111 (1), 67-94.
20. --- (2009b). "Critical Study of John Hawthorne's Knowledge and Lotteries and Jason Stanley's Knowledge and Practical Interests," Noûs 43 (1), 178-192.

2002は、彼らの最初の論文。一部の隙もなく組み上げられた論証に感動する。ただあまりに細かいので、後の論文、本では繰り返していない。でも、主体鋭敏性不変主義をたたきたいなら、この論証を批判する必要がある。今まで出てきた批判の試みには2009aの本で答えている。2009bの論文は、Hawthorne、Stanleyの立場との違いを知るために。

文脈主義と不変主義の論争はこれにつきるわけではないが、まあ基本文献ということで。これらを読めば分かるが、文脈主義や主体鋭敏性不変主義の話は、どんどん懐疑論とは無関係になってきている。僕自身がかつてやったのも含めて、日本で書かれたり、発表された文脈主義関係の話は、懐疑論にちょっとこだわりすぎていたと思う。

これけっこう書くの面白かった。好評なら、またやります。文脈主義は、ここに載せたもの以外に、ほんとにいろんなヴァージョンがあるので。
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書評(4)

13. この論文の問題点は、文脈主義に関連する以下の3つの論点を同時に扱おうとしたところにある。

  a. 「知る」についての文脈主義が正しいのか、不変主義が正しいのか?
  b. 文脈主義による懐疑論への反論は十分なものか?
  c. 主張の知識説は正しいか?

これらは、それぞれ独立の論文のテーマになるぐらいの問題なので、最初から一緒に扱うのは無理がある。また文脈主義の論点を著者はごっちゃにしているが、例えばcがだめだからといって、文脈主義の否定や、不変主義の肯定がすぐに導けるわけではない。同様に、bがだめでも、文脈主義は生き残ることができる。文脈主義に直接関わるのは、aだけである。

14. それ故、著者の3つの結論が出てくるようには思えない。まず、3つの結論とは、

(1)DeRoseは、不変主義に対する文脈主義の優位を決定的に確立できていない。
(2)WAM(Warranted Assertability Maneuver)の、文脈主義は真理条件と主張可能性を取り間違えているという批判はまだ有効である。これが正しければ、文脈主義の懐疑論論駁はアドホックなものになる。
(3)古典的不変主義はまだ知識論の有力なパラダイムである。そして、古典的不変主義には、知識の適切な定義を与えることと、懐疑論に対処するという問題が残っている。

である。無数の問題があるが、最大の問題は、ここでの「古典的不変主義」、「不変主義」は、穏健な不変主義を指すとしか解釈できないことだ(p. 81で両者を同じ意味で使うと明言している)。どうも、古典的不変主義という語と懐疑論的不変主義という語が、同じ意味で使われたり、そうでなかったりして、意味が安定していない。なぜそうとしか解釈できないかというと、(2)で書かれているWAMの支持者は皆、穏健な不変主義を受け入れているし、(3)で言われている古典的不変主義は、懐疑論と対立する立場でなければおかしいので、やはり穏健な不変主義としか見なせないからである。とすると、先の二つめの批判、著者の言うところの(実はそうではないが)DeRoseは懐疑論的不変主義に対する答えになっていないという批判は、いったいどう結論に関係しているのだろうか。それが懐疑論的不変主義に対するDeRoseの反論を無効にするというのが、意図されている結論にならなけらばいけないが、懐疑論的不変主義と穏健な不変主義は全く違う立場である。どう考えてもここでの(2),(3)に関係がない(さらに、穏健な不変主義にとっても、懐疑論的不変主義は問題である)。以下、全く理解不能だが、古典的不変主義が穏健な不変主義と同一であるとして話を進める(皮肉にもこの同一性自体は、正しいものである)。なお、そうすると最初に言われた論文の目的、アンガー流の不変主義、著者の定義では、懐疑論的不変主義が今なお有力な選択肢であると示す、と、ここの結論が全く違うということは言うまでもない。

(1)は、まずミスリーデングだ。著者の最初の批判が正しいと仮定しても、ここで出てくるのは、DeRoseの主張の知識説から文脈主義を導く論証には問題がある、というだけである。DeRoseの他の不変主義批判には全く言及されていない。さらに言うとHawthorneの本を読めば分かるように、文脈主義と様々な不変主義の論争は、どれかがどれかを決定的に反証するとかそうういうたぐいのものではなく、それぞれの長所、短所を比較して総合的にけりがつくであろう、というようなものである。

[追記]ここで(1)と同じ立場を支持する論文として、Blackson(2004), Brown(2006), Weiner(2005)が言及される。これまた非常におかしい。何故ならまず、Weinerの論文は、主張の知識説を攻撃しているだけで、不変主義どうこうという話にコミットしないと明言されている。Brown(2006)は、DeRoseの論証が、主体鋭敏性不変主義と両立可能であると言いつつも、穏健な不変主義を擁護する。さらにまた、Blackson(2004)が参考文献に載っておらず、まるで関係ないBlack(1952)というのが載っている(どこかからコピペするときに間違えたのかな?)。これは、"An Invalid Argument for Contextualism," Philosophy and Phenomenological Research 68, 344-345 のことである。この論文もまた、DeRoseの議論は、主体鋭敏性不変主義と両立可能というものである。これらのうちで、Brownしか穏健な不変主義の話をしていないので、これ以外の論文と同じ立場とするのは、完全に誤りである。これら全てに共通するのはやはりDeRoseの論証は誤りか、不完全であるという論点で、上に書いたように、これこそ著者が言うべきことである。自分の主張を、必要以上に強いものとして書くのは良くない。

[追記2]今気付いたが、p. 79に(Black, 2006, Chap.7と参照がある。Black(1952)というのは、これを書くつもりで、コピペし間違えたのだろう。Black, 2006というのは、internet encyclopedia of philosophyの文脈主義の項のことで間違いない。本でもないのにChapはないだろう…。しかし、「7」で書いたように、何故Yourgrauの論文が挙がっているのに、この論文を有名にしたDeRoseの論文への言及がないのかと不思議だったが、このBlackのサーヴェイしか読んでないからだろうな、とようやく得心した。確信を持って言えるが、著者は参考文献に挙がっている論文の半分も読んでいないだろう。

著者は不変主義を擁護する議論は何もしていないので、不変主義の文脈主義に対する優位を何も(決定的どころかわずかでも)確立できていない。著者は、一方の立場を支持する論証が失敗することが、他の立場を支持する議論になると誤って想定している。この想定なしには、(2)が導かれるかも怪しいし、著者の主張が、どう(2)の点で文脈主義にマイナスになるのか分からない。というのも、WAMを使う穏健な不変主義は、真理条件と主張可能性が異なるのはどうして可能なのかを説得的に説明し、かつ何故我々がある場面で両者を混同してしまうのかのメカニズムを示さなければならないという、論証責任のハードルがかなり高い立場だからである。これらが示されなければ、文脈主義の対懐疑論戦略がアドホックだとは言えない(むしろ、なんでそんなメカニズムを懐疑論反論のためだけに想定しないといけないのかということで、こちらがアドホックになる)。さらに、(3)もまた、ここでの著者の議論からは全く出てこない。不変主義の批判は、DeRose以外にもHawthorneなどいろいろあり、(3)を言いたいなら、それらを論駁する必要がある。さらに言っておくと、穏健な不変主義は、懐疑論が誤りだということを含意するので、懐疑論の問題はトリビアルに解決されている。知識とは何かという問題は、文脈主義、穏健な不変主義、懐疑論的不変主義に等しく問題であるが、これは単にこの問題が、文脈主義対不変主義という意味論的問題と独立である、ということに過ぎない。

[追記]やはり著者の混乱の根は、懐疑論的不変主義と穏健な不変主義は区別され、本人も区別しているにもかかわらず、両者を古典的不変主義と同一視していることである。なので、前者への批判を後者への批判としてとったり、後者への擁護が前者の擁護にもなるとといったような受け取り方をしていて、この論文全体の論旨が意味不明になっている。率直に言って、著者が参照している文献の多くをまともに読んでいないか、読めていないとしか思えない。文献上の議論が、どういう立場をどのようにして擁護、批判しているのかという点の理解ができなければ、哲学論文を読んだ、あるいは参照したとは言えない。

15. 最後にこの論文の意義。今まで書いてきたようにかなり問題があるというか、決定的な事実誤認や、著者の論証が理解不可能といった、致命的すぎる欠陥がある。それでも、まがりなりにも主張の知識説やWAM、またShifferのSemantic Blindnessに対する批判などを日本語で紹介したことは、意義がある。これらは皆、今の認識論でいろいろ議論されているので、多くの人にこれらを知って貰う機会を作ったことは大きいと思う。

16.DeRoseは2009年に出した本で、この論文で言及されているような彼の主張の知識説から文脈主義への論証に対する批判になんとか答えようとしているので、興味のある人は是非参照してください。
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書評(3)

10. p. 81でようやく文脈主義の解説が終わり、著者による二つの批判が始まる。その一つ目は、DeRoseが文脈主義を導くために使う「主張のの知識説」を、反例によって誤りだと示すというものである。主張の知識説はp. 81でまず、「ある文Pが主張可能なのはそれを知っている場合のみである」と定式化される。この定式化も簡略化しすぎていて、やや問題があるのだが、さらに問題なのは、このすぐ下で、「知識の主張説」が「任意の文脈Xにおいて、Pが(個人Sにとって)文脈Xで主張可能であるのは、SがPを文脈Xで知っている場合かつその場合のみである」と定式化され直すことである。前者の定式化は、単に条件文であるのに、後者は双条件文であり、まったく違う(後者はさらに、文脈への知識帰属の真理条件の相対化を含める、メタ言語的な定式化を本来意図しているものである。まあDeRoseの2002はこの点にあまり自覚的でないのだが、筆者がこの論文で挙げているいろいろな参考文献で指摘されているので、ちゃんと読めば分かると思う。何故DeRoseがメタ言語ヴァージョンを必要とするかを、註5を読む限り、著者はまったく理解できておらず、意味不明な説明を与えているので、文献をきちんと読んでいないという疑いが強まる)。DeRoseは2002年の論文で、前者から後者を導くためにいろいろ議論をしているので、説明なしにこの移行を行うのは、不適切だし、混乱を招く。また著者がどこまで分かっているのか判定できないが、Williamsonは、非メタ言語の条件文ヴァージョンしか主張していない。

11. 次に、主張の知識説の反例が来る。しかし、著者が挙げる例はすべて、条件文ヴァージョンへの反例であり、それなら双条件文ヴァージョンを挙げなくても良かったのではないかと思う。というか双条件文ヴァージョンはメタ言語によって定式化されている(はずのもの)ので、これが文脈主義と組み合わされたなら、発話者の観点と、それの聞き手の観点を区別して、どちらの観点から見て発話が適切か、不適切かという議論が不可欠である。何故文脈主義がメタ言語による定式化を必要とするかという点が全然理解できていないので、ここでの議論はかなり不十分である。一応、条件文ヴァージョンに対する議論として、以下進める。

その前に、p. 82のDeRoseの論証の再構築は、まったくポイントが捉えられていない、というのも決定的な前提が書かれていないからである。それは、「文脈1と文脈2でSのepistemic positionが変わらない」という前提である。この前提がなければ、DeRoseの他の前提は全く不変主義と整合的であり、その否定である文脈主義、すなわちDeRoseの意図する結論はでてこない。上の問題にしてもそうだが、どうも著者はDeRoseの論証がどういうものなのかを全く理解していないと思われて仕方がない。

さて、著者は、反例によってWilliamsonの立場が問題があると示されたと結論するが、正直ここで書かれたような反例は、Williamson自身が、自分の立場の説明の際に対処できるとしてしているようなものばかりで、どう批判になっているのか分からない。また、Williamsonがやっているような、主張の適切さを分類し、ある主張がどういう意味で適切で、どういう意味で不適切なのかという議論をせず、この例は、ある文が(適切に)主張可能だが、Sがその内容を知らない例であると、単純に述べているだけなので、反例になっているかどうかが怪しい。Williamsonを知らない人には、Williamsonの議論がむちゃくちゃ単純なものだと思われる可能性もあって、かなりアンフェアな記述である。知識と主張の関係はホットトピックなので、まあもっとつっこんだ議論なしでは、何も言えない。

[追記]さらに言うと、ここで著者は「主張の確率説」と「主張の真理説」を併記し、両者が主張の知識説への反論を生み出すと書いているが、これら二つの説のうち、前者は後者が誤りであることを含意する。だから、必ずしも反例が数多くあるということにならない。さらに、筆者はここで知識を確実性と同一視して、だから主張の知識説は問題だと論じているが、これはちょっと意味が分からない。Williamsonは確かに、知識にevidential probability 1 を要求するという点で、この意味で不可謬論者とか、知識に確実性を要求しているとしばしば言われる。注意しなければいけないのは、彼はこのevidential probabilityが最大値をとることと、デカルト的確実性と同一視していないということである。さらに、DeRoseはいかなる意味でも知識に確実性を要求しない。なので、ここの批判は、何を批判しているのか明確ではない。

12. 二つめの批判は、かなり分かりにくいのだが、善意の原理を最大限に活用して解釈すると、以下のようなものである。不変主義者は、「ある文が主張可能かどうかは文脈によりかわる」(p. 83)ことを認める。すると、主張の知識説によって、ある文脈では、ある人Xの知識帰属文 ’S knows p’ が主張可能であり、それ故、この文脈では、この文(の内容)をXが知っている、すなわち、’X knows that S knows that p’が真である。’know’ のfactivityにより、’X knows that S knows that p’ は ’S knows that p’ を含意するので、’S knows that p’ が、この文脈で真であることが帰結する。すなわち、(この文脈での)懐疑論の否定が帰結する。これを認めない懐疑論的不変主義者は、何故、'X knows that S knows that p’が真なのかと問うだろう。この問いへの答えは、また知識の帰属説を用いて、この文が主張可能であるというものになるだろうから、無限退行を引き起こす。

僕には、これがどういう批判なのか分からない。まず、著者はDeRoseが「不変主義者が、ある文の主張の適切さが文脈可変的であることを認める」と言っている際に、先の間違いから、この「不変主義者」を懐疑論的不変論者だとしているが、そうではなく、DeRoseが念頭に置いているのは穏健な不変主義者である。さらに、この点を保留したとしても、著者の論点は、よくわからない。一応著者の狙いは、DeRoseは懐疑論的不変論者の問いに、無限退行で応じるしかなく、答えになってない、というもののようだ。

まず、このケースで無限退行は起こらない。何故から、著者の議論の最後のステップ、「何故 'X knows that S knows that p' が真なのかという問いへの答えは、また知識の帰属説を用いて、この文が主張可能であるというものになる」は偽だからである。そもそも主張の知識説は、知識と主張の間にある概念的つながりを指摘しているだけで、何故pと知っているのかという問いへの答えが、pと主張可能だからであると主張していない。(双条件文ヴァージョンの主張の知識説を仮定したとして)この答えが可能であるためには、pと主張可能であるための条件が、pと知るための条件とは独立に入手可能だという条件、ないし、後者の条件が前者の条件から非循環的な形で定義できるという条件が満たされる必要がある。主張の知識説の支持者の誰もそんなことは言っていない。まあ、この点はかなりテクニカルなので、ちょっと置くとしても、普通に、何故Sがpと知っているのかと尋ねられる状況を考えてみればいい。当たり前だが、この問いの答えがどのようなものになるのかを探求するのが知識論である。例えば、証拠主義者なら、Sはpのための十分な証拠を持っているから、と答えるだろう。そして、この答えが何故Sがpと適切に主張可能なのかという問いへの答えにもなる。主張の知識説が言っているのは、こういうことであって、主張可能だということが、何故知っているかという問いへの答えになる、などというようなことではない。主張の知識説を、あたかも知識論の一立場であるかのように理解しているからこうなるのだと思う。やはり、DeRoseの2002やWilliamsonを理解できていないとしか思えない。なので、著者の想定するケースで無限退行が起きるというのは、的はずれ以外の何者でもない。

そもそも、著者の主張は、簡略化して、不必要なものをとれば以下のものになる(例えば2階の知識帰属から始めているのが不自然で、普通に1階のそれから始めてないのも理由がわからない)。ある文脈でSにとってPが主張可能である。すると、主張の知識説から「Sはpを知っている」はその文脈で真である。懐疑論的不変主義者は、あらゆる文脈で、「Sはpを知っている」は偽であるという立場である。なので、主張の知識説、懐疑論的不変主義、ある文脈でpが主張可能であると認めること、の3つは両立不可能である(ちなみにアンガーはこの3つを同時に受け入れて、この不整合にも気付いているが、ほとんど議論しないままで残念)。無限退行を持ち出すことは、むしろポイントを外している。何故なら、無限退行が起こるための条件、懐疑論的不変主義者が「何故Sはpを知っている」と問うのは、端的に「Sはpを知っている」を懐疑論的不変主義者が受け入れないからであり、何故受け入れないかというと、それはこの不変主義が含意する懐疑論と両立不可能だからである。p. 83で、著者が議論の前提として、不変論者によれば、'S knows p'の真理条件が満たされたと知ることができないと言っているのは、単にこのことを2階の知識に対して繰り返しているだけである(原文では、「完全に満たされたと確認することは不可能」とおかしな言い回しをしているが、不完全に満たされたとは確信できるのか?ここも寛容の原理を適用する)。それ故、ここの議論は単純に両立不可能性を指摘しているだけであり、無限退行まで話を進めることは、むしろ余分でしかない。そして上で述べたように、無限退行が起きるというのも誤った考えに基づいている。

この不整合は、もし主張可能性の意味を区別しないとすると、懐疑論的不変主義から矛盾が導かれるということになり、むしろ懐疑論的不変主義への帰謬法的批判ともとることができる。というか、まさに主張の知識説は文脈主義を含意し、それが懐疑論的不変主義(懐疑論)の誤りを含意する、というのがDeRoseの反懐疑論戦略そのものである。本当に何故、これが懐疑論的不変主義の擁護になるのか分からない。著者は自分が何を言っているのかを見失っている。著者がここで言及しているLeiteが主張するように、この不整合を懐疑論者が回避するのは容易くて、主張の知識説が用いる「主張可能性」と、懐疑論者の認める「主張可能性」とは意味が違うとすれば良い。そして、確かにこの点が説得的に論じられたなら、DeRoseの論証は失敗する。しかし著者はこの点に言及せず、自分の議論はLeiteと同じく、DeRoseが懐疑論的不変論者の問いに答えられないと指摘するとし、それがDeRoseの批判から懐疑論的不変主義を擁護するものと見なしている。Leiteが擁護しようとしているのは穏健な不変主義だし、著者の議論は主張可能性の意味の違いに言及していないので、当然同一の議論ではない。Leiteの読みの問題を保留したとしても(Leiteは穏健な不変主義と懐疑論的不変主義を区別し、両者が認めうる「主張可能性」の意味も区別する。著者はこれらの区別ができていないので、かなり誤読していると思う)、本当に何故、これが懐疑論的不変主義の擁護とそもそも見なせるのかが分からない。また、善意の原理を最大限に使って、DeRoseの反懐疑論戦略のModus Tollensをとって、懐疑論的不変主義から主張の知識説の否定を導くことができるというのが、著者のポイントかもしれない。しかし、これこそまさにDeRoseが主張の知識説を独立的に論証しようとする理由そのものであり、そもそも著者の最初の批判は、この論理的関係なしに成立しない。なので、この第二の批判は、DeRoseがModus Ponensとして表現する論理関係を、Modus Tollensとして表現しただけであり、付け加えるべき内容は何ら存在しない(不必要かつ誤った無限退行の部分を除けば)。だからこの論文には実のところ、DeRoseに対する批判は一つしか存在しない。というか、むしろこの第二の批判のせいで、DeRoseの論証が理解できているのかという、先の疑念がさらに強化される。

ここでのミスの大本の原因はおそらく、主張可能性と真理条件を分けることで通常の知識帰属の真理性を懐疑論に対して擁護しようとする通常のWAMと、Leiteが懐疑論者として扱うStroud、Ungerが示唆している、懐疑論の真理性を日常の知識帰属の見かけ上の真理性に対して擁護しようとするヴァージョンのWAMとを区別できていないことである。前者は穏健な不変主義、後者は懐疑論的不変主義にであるが、著者はこの二つの不変主義の区別がごっちゃになっているので、二つのWAMもごっちゃになっている。DeRoseの2002の論文は後者に反論しようというものではないし、WAMの支持者が、DeRoseを批判するのも、後者を支持したいからではない。この辺の立場の整理がうまくいっていないので、めちゃくちゃになっているのだと思う。
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書評(2)

5. p. 75で、この論文の目的が、アンガー流の不変主義が今なお有力な選択肢であると示すことである、と設定される。これに続いて、文脈主義と不変主義の争点は、主に

A 懐疑論に対する解決力
B 知識論としての自然さ

だと述べられる。僕はこの2点が争点だとは全く思わないが、それ以上に、この2つは何を言いたいのか分からない。まず、アンガー流の不変主義というのは、懐疑論を含意する立場であり、そもそも懐疑論を解決できないという立場である。だから何故Aが問題になるのか分からない。次に、文脈主義と不変主義は、「知る」の意味論的内容が文脈依存的かどうかという点に関する、意味論的立場であって、その意味論的内容とは何かという問いに答えるものではない。後者に対して、知識ないし知識概念の分析によって答えを与えようとする認識論の一分野が、知識論と通常呼ばれるものなので、何故Bが問題になるのか分からない。

[追記]このBを著者は最近のDeRoseが重視しているとp. 78で述べ、DeRose 2002, 2005への指示がある。この2005年の論文は、参考文献に何故か載っていないが、"The Ordinary Language Basis for Contextualism, and the New Invariantism," The Philosophical Quarterly 55, 172-198 である。この論文を読み返したが、DeRoseの言う自然さとは、我々が様々なケースでの知識帰属に対して持つ直観をいかに自然に説明できるか、という観点である。確かにこの観点は、知識論の構築にも重要だが、DeRoseは主体鋭敏性不変主義との対立でこの観点に言及しており、やはりこれを知識論としての自然さとは読めない。

6. p. 78によると、Bは、我々が通常行っている「知る」の用法をどれだけ忠実に表現しているかに関わるとされる。この「知る」の用法というのは、語用論的な使用に関わるのか、使用の際に、知識帰属の意味論的内容を決定する意味論的メカニズムに関わるのか、意味論的内容そのものに関わるのか曖昧である。なので、筆者がBで何を意味しているか、不明である。

[追記]DeRose(2005)によると、これは知識帰属に関する我々の直観のことである、やはりこれを「用法」と記述するのは不正確である。

7. p. 79で、文脈主義の問題点として、Yourgrauの意見が言及されているが、これはDeRoseが1996年の論文で、すでに答えている(ただし、DeRoseのこの論文を著者は参照していないので、知らなかった可能性もある)。また正確に言うと、Yourgrauの意見は、relevant alternatives theoryに向けてのもので、文脈主義に直接向けられたものではない。

8. p. 80から、この論文は意味不明度が格段に上がる。まず、ここ著者が説明し始める立場(通常、Warranted Assertability Maneuver、略してWAMと呼ばれる)は、穏健な不変主義のヴァージョンである。ところが、p. 81で、「「古典的不変主義」――(中略)アンガーが最初に述べ、ここまで説明してきた立場(アンガー流不変主義)――(中略)を文脈主義に対する真の脅威」とDeRoseが認める、と書かれる。まず、古典的不変主義とは何なのか不明である。通常この語は、穏健な不変主義を指すと思うのだが、ここではそれがアンガー流の懐疑論的不変主義と同一視されている(まあ、これは単に操作的定義だと考えればいいのだが、それだと、何故ここでわざわざ今まで使っていたものに加え、同じ意味の新たな語を導入する必要があるのか分からない)。3で述べたように、DeRoseは懐疑論的不変主義を脅威だとは認めず、彼の言う古典的不変主義とは、穏健な不変主義を指す。

(追記)著者が不変主義をどう捉えているかが不明確で、混乱させられたが、おそらく細かい立場の区分がそもそも出来ていないのだと思う。僕の印象では、明らかにそれ由来の区分を使っているのに、Hawthorneの本をきちんと読んでおらず、二つの不変主義の違いが理解できていないのだと思う。

9.著者が何故こうも勘違いしているのかを註3,4を手がかりに考えると、おそらく以下のような推論をたどったのだと思う。

古典的不変主義」は、不変主義の初期の代表者が支持した立場に違いない。不変主義は、アンガーによって最初に明確に定式化された。だから、アンガーの不変主義は、古典的不変主義である(アンガー流不変主義=古典的不変主義)。アンガーの立場は、懐疑論的不変主義である。だから、アンガー流不変主義=古典的不変主義=懐疑論的不変主義が成立する。

最初のステップが誤りで、古典的不変主義という名称は、文脈主義登場以前に懐疑論を批判した哲学者たち(80年代までの分析系認識論者も含む)が暗黙裏にコミットしている不変主義を指すものとして使われる。そして、この立場はアンガーの懐疑論的不変主義ではない。DeRoseが、この立場を古典的と呼ぶのは、直接的には、このヴァージョンの不変主義を、近年台頭してきた主体鋭敏性不変主義と区別するために、古い方を「古典的」と呼んでいるだけである。

さらに、註3の文脈主義の歴史には、誤りがある。「初期の文脈主義はこれに対抗して登場した(Lewis (1979)がその代表)」とあるが、このLewisの論文では、Epistemic Modalの文脈主義的取り扱いが提唱されているだけで、Lewis (1996)に見られるような「知識」の文脈主義や、懐疑論の話は全くされていない。この註は、DeRoseの書いたものをほぼ訳しているだけなのに、著者が付け加えた部分は誤っている。

註4でも、DeRoseが「主体敏感的不変主義が正しいということはありえない」と言ったかのような書き方がされているが、これも事実誤認。
posted by hakutaku at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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