2008年04月10日

ウィリアムズの文脈主義の奇妙さ

昨年の夏に日本でマイケル・ウィリアムズの文脈主義についての発表をした。ウィリアムズって結構いい加減な考えをしているところが多々あって、統一的に解釈できないというのが内容だった。最近、もう一つ彼の立場の荒っぽさに気づいた。

最近の認識論でよく論じられる問題の一つが、Concessive Knowledge Ascriptionの問題という奴である。それは以下のような発話を指している。Pを何らかのトリビアルな命題としたとき、

「私はPを知っている」

と認識主体は発話することができ、かつそれは真である。しかし、

「私はPを知っている、しかしPは偽かもしれない」

この発話は非常に奇妙に、矛盾しているようにさえ聞こえる。しかし、過謬主義をとるなら、Pが偽かも知れないという可能性は常に存在するのであり、後半の文、「Pは偽かもしれない」も真でなければならない。文脈主義はこの奇妙さを以下のように説明する。文脈主義は、この文に含まれる二つの文の発話、「私はPを知っている」と「Pは偽かもしれない」は両者真であるとみなす。「Pを知っている」という発話はrelevantなあらゆる¬Pの可能性を排除できるということを意味する。しかし、「私はPを知っている」という発話の直後に文脈が変わり、新たな¬Pの可能性がrelevantになる。そしてその変化した文脈で¬Pの可能性を排除できない、すなわちPを知らないということを後半の発話は意味している。このため、両者の発話は異なる文脈でなされたものであり、それらの真理は両立可能である。矛盾しているかのようなみかけは、我々が文脈の変化に無自覚であることから生じる錯覚にすぎない。

文脈主義の対抗馬の一つであるModerate Invariantismは、二つの発話が真であるという点で、文脈主義に同意するが、矛盾のみかけを可変的な意味論的ファクターではなく、語用論的ファクターによって説明する。SはPを知っているということは、排除されない¬P可能性があることと両立可能であり、両者は真である。しかし、「私はPを知っている」という発話は、あらゆる¬P可能性を排除できるという会話の含みをもっており、それが故に続けて「Pは偽かもしれない」と続けることは、真ではあるが語用論的に不適切な発話であり、それがこの発話の奇妙さの原因である。

Moderate Invariantismは文脈主義がうまい説明を与えるとされている事例を同様にうまく説明できると主張する。もちろん、両者は両立可能で、意味論的なファクターと語用論的ファクターは共に知識帰属の際に機能していると言うことはできる。しかし、それは単にファクターの余剰を招くだけであり、倹約原理からいっても、理論的なメリットはない。しかし、僕が思うにウィリアムズは、こうした理論的に不穏な立場にコミットしている。何故なら、彼はルイスの文脈主義的なConcessive Knowledge Ascriptionの説明を批判して、語用論的な説明の方を好むと言うからである。

これは近年彼が最近認めた、彼の文脈主義は真理条件の可変性に関わるという主張と合わせると、彼の立場を極めて怪しいものにしてしまう。このような曖昧さ、余剰さは彼の著作のあちこちにあり、僕は今をもって彼の立場がいまいち理解できないでいるのである。

なお、Timothy Williamsonによるとウィリアムズはこうした現在の議論にほとんど通じておらず、それが彼の立場を不安定にしている理由だろうということを、会話した際に言っていた。
posted by hakutaku at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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