2007年10月10日

知識の価値と文脈主義

2000年に入ってからの認識論の中心テーマは、ほぼ二つに絞られる。一つは文脈主義を巡る問題、もう一つは知識の価値の問題。この両者は実におもしろい関係にある。

知識の価値という問題は、プラトンが知識を扱う際に取り上げたもので、知識が真なる信念よりも価値あるものとすれば、いったいその価値は何に由来するのかという問題。この問いは古代ギリシャ以後忘れ去られて、近年ようやく再発見された。いわゆる徳認識論などもこの問題に対する一つのスタンスとして理解されることが最近は多い。この問題はまた、真なる信念だけでなく正当化された真なる信念と知識の価値的相違の問題として扱われる。

さてこの知識の価値問題に対するプラトンの答えは以下のものだ。

ダイダロスの作品を所有していても、それが縛りつけられていないならば、ちょうどすぐに逃亡する召使と同じことで、あまりたいした値うちはない。じっとしていないのだからね。しかし、縛りつけられている場合は、たいした値うちものだ。なにしろ、たいへん立派な作品だから。(中略) 正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっているあいだは価値があり、あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない--ひとがそうした思わくを 原因(根拠)の思考 によって縛りつけてしまわないうちはね。(中略) 知識は、縛りつけられているという点において、正しい思わくとは異なるわけなのだ。 [『メノン』、藤沢令夫訳、岩波文庫、1994年、109-110]

簡単に言えば、知識は単に真なる信念よりも安定していて、簡単に消え去ったりしないということである。それ故、長期的に(知識に基づく)行為の成功を保証することができる。

さて文脈主義は、「SはPを知っている」という文のトークンは異なった真理条件、そして真理値を持つという立場である。この立場によれば、ある文脈でこの文のトークンが真であっても、文脈が変われば、別のトークンは偽である。これをmaterial modeで表現すれば、Sは文脈に応じては知識を有したりなくしたりするということになる。これはプラトンの見解と真っ向から対立するわけだ。

ただまあ、最近知識の価値問題に取り組んでいる人たちは、このプラトンの見解には全然コミットしていない。プラトンの知識観は現代の感覚からすると相当おかしいので、まあ仕方がない。ただプラトンの洞察の1部は、近年の議論でもさかんに援用されている。ただ僕はこの問題はあんまり勉強してないんだよなー、全く不勉強だなあ。
posted by hakutaku at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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