2012年10月29日

アプリオリとアポステリオリ(1)

哲学を学び始めるとかなり初期の段階で、アプリオリ性とアポステリオリ性の区別というのを教わる。しかし、正直言って、この区別は極めて厄介で、完全にmake senseするような形で教えることはできない。

まず、アプリオリ、アポステリオリというのは、どういう存在者が持つ性質なのだろうか。複数の提案が存在する。

(1)命題ないし言明、あるいは真理
(2)知識
(3)正当化、あるいは保証(warrant)

(1)は、「アプリオリな命題」などという形で言及されるが、アプリオリ性そのものは、本来(2)か(3)への関連において定義されるというのは、アプリオリ―アポステリオリの区別を学んだことのある人には周知のことだろう。

(2)の知識がアプリオリあるいはアポステリオリであるとは、どういうことだろうか。知識には、最低限(a)信念、(b)真理、(c)何らかのポシティブな認識論的身分が必要であるということは、認識論の合意となっている。(c)を伝統的には正当化としてきたが、ゲティア問題以降、正当化プラス何かが必要だとされたというのは、よく知られた事情だろう。「保証」というのは、この正当化+何か、あるいは正当化が知識に必要ないというなら、それ以外の何かというように、知識から(a)、(b)を差し引いた残りとして定義される抽象的な性質である(名前があったほうが便利なので、こういことをする)。

ある知識がアプリオリあるいはアポステリオリであるという性質を持つとき、それは(a)や(b)が持つ性質に由来するのではなない。したがって、(2)がこれらの性質の第一次的な担い手となる((a)の性質に由来するなら、(1)が第一次的であることになる。しかし、それだとアプリオリ・アポステリオリな真理とは何かを独立的に定義する必要がある)。

アプリオリ・アポステリオリ性の担い手が、正当化や保証であるなら、アプリオリ・アポステリオリな知識は、それによって簡単に定義できる。

(定義1)Sがアプリオリ(アポステリオリ)な知識pをもつのは、Sがpを信じるためのアプリオリ(アポステリオリ)な正当化・保証を持つときに限る。

同様にアプリオリな知識あるいは、正当化・保証によってアプリオリ・アポステリオリな命題を定義することはできるだろうか。これはそう簡単ではない。

(定義2)命題pがアプリオリ(アポステリオリ)であるのは、Sがpをアプリオリ(アポステリオリ)に知っている(正当化・保証を持つ)ときであり、かつそのときに限る。


定義1と違い、この定義は必要十分条件である。定義2は一見もっともに思えるが、いくつか問題がある。まず、この定義によれば、アプリオリ・アポステリオリ性はある認識主体Sに相対的に定義されることになる。したがって、ある人にとってアプリオリな命題は、他の人にとってアポステリオリであるということは排除されない。次に、もしSがアプリオリな知識p(正当化・保証)を持っていないとしよう。定義2から、pはアプリオリな命題ではないということが帰結する。ここから何が言えるだろうか。次の条件は妥当に思える。

(リンク)命題pがアプリオリであるのは、pがアポステリオリでないときであり、かつそのときにかぎる


この条件から、pはアポステリオリな命題であることになる。つまり、SがPをアプリオリ(アポステリオリ)に知らないという単なる知識の不在から(例えば、pが偽であることから)、pがアポステリオリ(アプリオリ)であるということを結論できてしまうことになる。さらに、Sがpをいかなる意味でも知らないとき、Sはpをアプリオリにもアポステリオリにも知らないと言えると思われる。すると、pがアポステリオリかつアプリオリであるという帰結ばかりか、(リンク)によって矛盾が帰結しさえする。

したがって、定義2か(リンク)のどちらかに問題がある。(リンク)は一見してもっともらしいし、また定義2には命題のアプリオリ・アポステリオリ性が主体に相対化されるという奇妙な事態を許すという問題があるので、定義2を別の定義で置き換えるのがもっともな方針であるように思われる。

これからしばらくアプリオリとアポステリオリについて、いろいろ書いていきます。
posted by hakutaku at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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