2010年02月20日

Stichと実験哲学(2)

さらに追加しておこう。Stichは、実験哲学の嚆矢となった2001年の論文で、何よりも分析哲学における認識論を、規範的理論だと見なしている。認識論は、記述的理論、つまり概念分析をやって、知識や正当化といった概念を支配する規則を記述するという側面もあるが、それだけではなく、(例えば、文化、歴史相対的に)複数存在する場合、どれを採用すべきかという規範的判断を行うことを目的とする、規範的理論であるというわけだ。

前の論文の註でも書いたが、僕は昔からこの分析的認識論についての彼の理解が、全然分からなかった。こんな規範的理論を目指している認識論者など、僕の知る限りもはやほとんど存在しないからである。ちょっと前まではいたのかもしれないが、僕からすればこれは大昔の認識論の理想、第一哲学の残滓にしか思えないし、そういう思いはおおむね認識論者で共有されていると思う。

しかし、Stichがこうした理解を持つのは、彼が哲学の方法論の問題ををthe Rationality Debateのにおいて指摘された問題とパラレルに捉えているからに違いない、と最近思い当たった。論理学や確率論というのは、確かにStichの言うような、強い意味で規範的であるように思うし。まさにこうした規範的理論と一般の人々が実際に用いている理論の相違というのが、 Rationality Debateの焦点だったからだ。そして、後者が実際にどのようなものなのかを構築する試みもなされて、Kahneman & TverskyのProspect Theoryが、実際の確率判断の「記述的理論」として提出された。この記述的−規範的理論の相違というのは、それ以来実験経済学でもずっと使われているようだ。これをモデルに認識論における記述的−規範的理論を考えているのだろう。まあ、だからといって、このモデルが認識論に対して正しいということにはならないが。

むしろ、Stichのような理解をしている人は、僕の見る限り、分析的認識論の外から来た人の方が多い。例えば、Susan Haackも、ほぼ同様の理解を認識論に対してもっていて(regulative epistemologyと呼ばれる)、彼女の本

Susan Haack (1993). Evidence and Inquiry, Oxford: Blackwell Publishers. (最近2版が出たが、これは1版)

では、繰り返しこの点が強調される。

ちなみに、Stichの認識論的プラグマティズムというのは、分析的認識論に正直なんら強い影響を与えなかった(なので、僕は読んでいないが、翻訳の惹句は言い過ぎだと思う)のだが、これはこの本が強力な批判を展開したことが理由だ。Stichと共に実験哲学者の立役者の一人であるWeinbergさえ、この本の批判によって、自分は認識論的プラグマティズムを支持しないと、ある論文で書いている。

なお彼女の立場、Foundherentismというのも、ほとんど影響を与えなかった。僕はこの立場が従来のものとどう違うのか、いまいち理解できない。しかし、この本は名著であり、認識論、とくに基礎付け主義と整合説の問題を勉強する人は必読である。Stichの本も翻訳されたし、誰かが翻訳すればよいと思う。

さらに言うと、

Michael A. Bishop and J.D. Trout (2005), Epistemology and the Psychology of Human Judgment, Oxford University Press.

も、同じように認識論を強い意味で規範的と解釈して、自然主義的観点からよりよい規範を探求するという内容だ。Stichにしてもこの本にしても、自然主義的でない現行の分析的認識論に対してかなり批判的なわけだが、彼ら自身のプロジェクトは、分析的認識論がもはや失った、第一哲学という実に古い認識論の伝統を引き継いでいるように見える。

日本で分析系認識論は人気がないが、自然主義的認識論は人気があると思う。近年の自然主義的認識論における指導的哲学者たちの中では、StichとKornblithはすでにかなり知られているようだから、残る大物はこのBishopしかない。この人はStichの盟友のような感じで、Stich and His Critics編集者でもある。そして、Stichもこの本の書評を書いている。

でも本音をいうと、自然主義的でない分析的認識論も面白いんだぜ、ということを言いたいなあ。このブログは、そのために始めたんだけど、どこまでこの狙いを達成できているかは、謎だなあ。分析的認識論を研究している人がいたら、是非交流したいんだけどな。
posted by hakutaku at 18:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 実験哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
外野から見ている印象だと、自然主義的認識論は分析系認識論の中の一分野だと思っていたのですが、実際には、二つは分野として別物という感じなのでしょうか。あと、分析系認識論の内容というのは、「概念分析をやって、知識や正当化といった概念を支配する規則を記述するだけ」なのでしょうか。
Posted by at 2010年02月21日 02:06
書き込みありがとうございます。

分析系認識論という言葉を、英米哲学における認識論という広い意味でとれば、もちろん自然主義的認識論も、その一部になります。Stichが念頭に置いているのは、もっと狭い意味ですね。例えば、彼は分析的認識論の筆頭にGoldmanを挙げていますが、Goldmanは、通常では自然主義的認識論の支持者と見なされるはずです。しかしGoldmanは、概念分析を哲学のツールとして許容し、かつアプリオリ性も受け入れるので、通常の意味での自然主義者よりも、かなり方法論的に寛大です。やはり、概念分析にコミットしているかどうかが、Stichの判断基準であると思います。

哲学の立場をどのように分類するのかというのは、なかなか難しいのですが。一つの分類基準は、どういう問題に取り組んでいるかという、探求の主題になるでしょう。その観点からすると、自然主義的認識論というのは、僕には分析系認識論とまったく別のものに写ります。Stichらは、おそらく両者は同様に認識に関する「規範的」問いを探求していると理解しているはずです。しかし上で書いたように、そもそも分析的認識論が、この意味で規範的な理論なのか、という点が僕には怪しく思えるのです(すくなくとも現行の認識論者たちがそうしたことを目標にしていないと思うので)。

ただ、分析系認識論が何をやっているのかというのは、答えるのがなかなか難しい問題です。最近では、Williamsonのように、概念分析としての哲学の自己理解そのものが誤っている、と言う人もいます。この考えは彼が最近明確にしたものですが、既に2000年の本に潜在的にありました。2000年代の認識論は、Williamsonの影響が強く、概念分析というより、実践における知識の役割を調査するという点が強調されるようになりました。

また、2000年代には、知識の価値の探求への方向転換、いわゆるvalue turnが認識論に起こりましたが、これは従来の概念分析とされる認識論の中核だった「知識とは何か」ではなく、「なぜ知識は価値あるものなのか」という問いを中心に認識論をやろうとするもので、この問いへの答えは、先のWilliamson的な調査で答えようとする人が多いです。

さらに、文脈主義が引き起こした問題は、「知識」という語の意味を考えるのに、どういう意味論的モデルをとればいいのか、というもので、これまた従来の概念分析とは、やや異なります。

また、そもそも昔からの認識論が、概念分析(とされてきた方法論)にどの程度依拠してきたのか、というのもなかなか難しい問題です。例えば、基礎付け主義と整合説の対立において、概念分析が果たした役割というのは、実に少ないように思えます。

これらの問いに答えるには、メタ哲学的な観点から、哲学の方法論に関する調査が必要ですね。僕は実験哲学の意義の一つは、そうしたメタ哲学的探求の必要性を、伝統的哲学者に自覚させたことにあると思っています。

Posted by hakutaku at 2010年02月21日 03:22
大雑把な質問だったのに、詳しく答えていただきありがとうございます。勉強になりました。現代の分析系認識論者はいろいろな問題に取り組んでいるけれど、規範理論を論じることはあんまり(ほとんど?)ない、ということなのですね。
Posted by at 2010年02月21日 10:30
本ブログではいつも勉強させてもらっています。これだけクオリティの高い日本語哲学ブログは滅多に見られないと思います。

このエントリでちょっと気になったことがあったので、質問させて下さい。

Stichらが取り組んでいる規範的認識論は「第一哲学」的だ、という整理をされていますが、これには若干の違和感を覚えます。私の理解では、第一哲学というのは「哲学の仕事は、他のあらゆる学問的知見や常識を前提にすることなく、それらの学問的知見を基礎づけることだ」とする「哲学の自己理解」です。この理解を背景にするなら、自然科学の知見をドンドン援用するStichらの議論は第一哲学的ではないように思うのですが、いかがでしょうか?単に規範的な議論を志向しているというだけで「第一哲学的だ」というのは勇み足なのでは、と。

そもそも、「自然主義的な立場が同時に第一哲学的だ」というのは、なんとなく形容矛盾っぽい気がするのですが。自然主義って「第一哲学の放棄」を主張していたんじゃなかったでしたっけ?

あと、こちらはなんとなくですが、現在の英米圏の認識論業界で規範的な議論がはやっていない/影響力を持っていないというのが事実だとしても、規範的認識論が面白いプロジェクトであり、やる価値があるのであれば、ドンドンやったらいいんじゃないでしょうか。もちろん、「実行不可能だから見向きもされないんだ」ということであれば仕方ないのですが(その場合には超越論哲学志向の私は困った状況におかれることになりそうです)。

ながながとすみませんが、ご意見などうかがえましたらうれしいです。
Posted by at 2010年03月04日 11:24
コメントありがとうございます。

まず質問なのですが、「哲学の仕事は、他のあらゆる学問的知見や常識を前提にすることなく、それらの学問的知見を基礎づけることだ」とする「哲学の自己理解」だという第一哲学の理解ですが、二つの括弧内の表現の関係がいまいちつかめておりません。哲学のとはしかじかのことをすることだというメタ哲学的な規定は、すべて「哲学の自己理解」になるでしょうから、第一哲学を定義するには、あまりにも広すぎると思います。

むしろ、最初の括弧の中で言われていることが、僕の第一哲学理解としても、正しいと思います。どの科学が基礎づけられるかどうかというのは、科学理論を規範的に評価するということを含んでいます。Stichの言う規範的認識論に対して「第一哲学の残滓」という表現を使ったのは、この点だけに着目したものです。また、確かに伝統的な第一哲学は、経験的知識を基礎づけるという目的から、アプリオリな原理の追求を意味していたのも確かです。もちろん、Stichらのプロジェクトは、この意味での第一哲学ではありません。伝統的な意味での第一哲学は基礎付け主義を前提にしますが、この点でも、規範的認識論とは異なるでしょう。

僕が考えていたのは、規範的認識論という学問の問題意識はどこに由来しているのか、という問題です。そして、それはこの伝統的な第一哲学にあると判断したのです。この次のエントリでも書きましたが、規範的認識論をStichはデカルトに由来すると考えていますので、彼自身のと僕の規範的認識論に対する理解は、ほぼ一致していると思います。クワインの自然主義が第一哲学の放棄を宣言するものだったことは確かです。僕の意図は、当の自然主義者たちの問題意識は、むしろ伝統的な第一哲学のそれに近い、ということを指摘することでした。

両者の相違よりも、共通性に着目していたわけで、相違があるということは、ここでの前提でした。

次に僕が問題にしていたのは、Stichの分析的認識論の理解です。僕が見る限り、規範的認識論は分析的認識論でなんら中心的位置にいませんので、それが中心だと言う、Stichに違和感があるというのが、論点です。

規範的認識論は、もちろん価値あるプロジェクトだと思います。ただ、それは現行の分析的認識論とは、全く別物になるでしょう。僕自身はStichらの主張である、規範的認識論は伝統的な哲学の方法論では遂行できないというのは正しいと思いますので、僕がコミットすることはないでしょうが。
Posted by hakutaku at 2010年03月06日 18:03
丁寧なご回答、ありがとうございました。

たしかに「規範的認識論という学問の問題意識はどこに由来しているのか」という問題意識からすれば、このエントリで書かれている内容は妥当なものですね。こちらが読み込み過ぎだったようです。もうしわけありません。

また、
「規範的認識論は、もちろん価値あるプロジェクトだと思います。ただ、それは現行の分析的認識論とは、全く別物になるでしょう」
こちらについても納得しました。分析的認識論と(Stichらの推奨する)規範的認識論との違いをはっきりさせることによって不用意な混同や混乱を回避することが大事だ、ということについてはおっしゃる通りだと思いました。

いつもながら大変勉強になりました。ありがとうございます。
Posted by at 2010年03月08日 16:27
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