2010年01月23日

ゲティア問題と概念分析

ゲティア問題の解決として、最もシンプルなのは、その問題の存在を否定することである。すなわち、knowledge = justified true belief、これで良い。

この立場は、多くの認識論者には、ばかげたものだと聞こえるかもしれない。しかし、この立場こそ、21世紀に入ってから、著名な認識論者によって擁護されているものである。

まず、Jonathan Sutton (2007). Without Justification, Cambridge, MA: MIT Press.

この本は、Williamsonを使いながら、この立場を擁護する。ただし、彼は自分の立場に対する反論をいろいろ検討するが、ゲティア問題からの反論の扱いが最もうまく行っていないと思う。Williamsonも同様に、ゲティア問題の存在の否定にコミットしている。というのも、Williamsonの立場は、what justifies is knowledgeというもので、知識以外のもの、単なる信念や、正当化されてはいるが誤っている信念、またもし知識が正当化された真なる信念でないとすれば、正当化された真なる信念でさえも、信念を正当化することはできないという立場だからである。(しかし、Williamsonは実のところゲティア問題の存在を認めているので、ここに不整合があると、しばしば指摘される。しかし、僕の見解では、Williamsonはこの批判をjustificationの多義性に訴えることでかわすと思う)。

もう一つ、Brian Weatherson (2003). What Good Are Counterexamples? Philosophical Studies 115 (1):1-31.

Weathersonは、「知識」の概念分析としての知識論という考え方を擁護する。しかし、何故概念分析が、すべての直観に合致するようなものでなければならないのか、と問う。彼によれば、そうしなければならないと考えるのは、概念とは何かという点に関する誤った理解に基づいている。したがって、知識の概念分析は、ゲティア反例に対処する必要などなく、ゲティア問題は存在しない。

この見解は、例えばFrank Jacksonや、彼を中心とするCanberra Planに従事する人々の持つ概念分析についての考え方と極めて対照的だ。しかし、WeathersonもCanberra Planも、Lewisの考えを引いているところがおもしろい。Canberra Planは、まさに実験哲学者が攻撃しているものだが、Weathersonは、実験哲学者の攻撃を回避することができる(最近出たCanberra Planの本は、StichとJacksonの往復書簡が収録されていて、本格的な論争が見れると思ったのだが、議論が変な方向に行ってしまい、残念。Jacksonが最初に、実験哲学については後ほど、と書いているのになあ)。

そもそも「概念」という概念は、哲学、心理学、最近では社会学でも使われるが、これらの学問の内部においてさえ、まったくその意味についての合意がなく、実に多種多様な使われ方をする。とくに、心理学、社会学では「概念変化」というのが主題になるのだが、変化は同一性を前提にするので、それを語るためには、そもそも概念の同一性の基準が提示されなければならない。そして、そうした基準を与えるためには、少なくとも概念とは何かということが確定される必要がある。僕の知る限り、この点を発達心理学で、初めてつっこんだのは、

diSessa, A. A. & Sherin, B. (1998). What Changes in Conceptual Change? International Journal of Science Education, 20(10): 1155-1191.

である。この論文の前半はいろいろ例を挙げて、発達心理学内で、「概念」とか「概念変化」という語が、あまりにも多義的に使われているのに、研究者たちはそれに無自覚なところがあるので、きちんと自分の意味を定義するように、というもの。

さらに、この路線の延長とも言うべき本が最近出た(この論文は参照されていないので、両者はまったく独立に構想されたようだが)。

Edouard Machery (2009). Doing without Concepts, Oxford University Press.

著者は実験哲学の立役者の一人。この本は、哲学、認知心理学間で、そしてこれらの学問の内部でさえ、「概念」という用語があまりにも多義的に使われ、多くの人はそれでも同じものについて語っていると思っているが、それぞれ通訳不可能で、全く別ものなので、もうこの語を使うのはやめたらどうだと、「概念」についての消去主義を提唱する。この本はまだ全部読んでいないけど、実に勉強になる。

(ただし、この本についての書評は僕が読んだだけでも幾つかあるが、どれひとつとして好意的なものはない。僕自身も、哲学における概念の章は、あまりにも短いし、外在主義が全く扱われないなど、不十分だと思う)

最近ではWilliamsonも、概念分析としての哲学という考え方を批判する際に、概念の同一性のための条件を確定させることは不可能だと論じている。Williamsonによれば、哲学は、事象分析であって、概念分析ではない。同様の見解をSosaも持っているので、昨年Sosaと話し込んだときに、あなたの見解はWilliamsonと似てますねと言ったら、Jacksonの本の書評を書いたときにすでに言ってたんだよ、と返答された(なお、Sosaは、物腰の柔らかい、紳士的な人なので、怒っていたわけではない)。
posted by hakutaku at 20:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。認識論についていろいろ調べていたらこのブログに辿り着きました。よく分からないことがあり、質問させて頂きます。
どうかご教示おねがいします。

1 概念分析について
直観を根拠に「知識」の概念を明確にすること(概念分析)から何を得られるのでしょうか。
というのも、直観というのは文化差や個人差、そもそも言語の「意味」自体がファジーであることを考えると概念分析の意義に疑問を感じてしまいます。
たとえば、ゲティア問題を解消すべくさまざまな知識の定義を考えるようなやり取りとかがそうです。


2 認識論の課題
「人はいかにして外界を認識しているのか」という問題を設定するとしたら、これは今では認知科学等の科学の領域になると思っています。
そこで、現代の英米系の認識論ではどのようなことを課題にしているのでしょうか。
認識論が自然化されても、「いかに認識すべきか」という規範的な側面は失われていない、ということを教科書で見ましたが、この「規範的な側面」というのもよく分かりません。


以上です。あまりにも的外れな質問でしたら申し訳ございません。私の勉強不足です。
よろしくお願いします。
Posted by むし at 2013年02月24日 12:05
書き込みありがとうございます。最近ブログを全然見ていなかったので、気づくのが遅れて失礼しました。

「1 概念分析について
直観を根拠に「知識」の概念を明確にすること(概念分析)から何を得られるのでしょうか。というのも、直観というのは文化差や個人差、そもそも言語の「意味」自体がファジーであることを考えると概念分析の意義に疑問を感じてしまいます。たとえば、ゲティア問題を解消すべくさまざまな知識の定義を考えるようなやり取りとかがそうです。」

まず、この記事でも少し書いていますが、「概念」とは何かというのはいろいろな見解があり、そう簡単に答えることはできないのです。「概念」とは「言語の意味」だという考え方も、かなり古い一つの見解に過ぎないです。また、直観というものと概念の関係も諸説あり、そう明確ではありません。それ故、たとえ「概念とは言語の意味である」と仮定したとしても、それから文化、言語が異なれば直観が異なるということも即座に導出できません(例えば、日本語と英語は異なる言語ですが、これは「知っている」と'know'の意味が異なるということを即座に意味しませんし、ましてや両言語の話者が異なる直観を持つということも意味しません)。さらに、言語の意味がファジーだという見解は、かなりラディカルです。おそらく、いかなる語の意味も、文脈によって異なるという、言語哲学(認識論ではない)における文脈主義という考え方を念頭に置かれているのと思いますが、これには反論がかなりあり、議論が続いているところです。

おそらく、念頭に置かれている概念分析への批判は、一部の実験哲学が行なっている批判に近いと思います。この批判にも、かなり反論があり、実験哲学側の旗色はだいぶ悪いという感じですね。実験哲学についてはこのブログでもいろいろ書いていますので、良ければ参考にしてください。

「2 認識論の課題
「人はいかにして外界を認識しているのか」という問題を設定するとしたら、これは今では認知科学等の科学の領域になると思っています。そこで、現代の英米系の認識論ではどのようなことを課題にしているのでしょうか。認識論が自然化されても、「いかに認識すべきか」という規範的な側面は失われていない、ということを教科書で見ましたが、この「規範的な側面」というのもよく分かりません。」

「いかにして認識しているのか」という問いは、カントが言った意味での事実問題としても権利問題としても解釈することができます。例えば、事実問題として、いかなる心理的メカニズムで、認識を行なっているのかという問いとして理解されれば、おっしゃるように、それは認知科学や心理学が探求する問題でしょう。しかし、認識や知識というものは、単なる信念とは異なり、何らかの意味で正当な信念の状態、あるいは何らかの意味で規範的な意義を持つという考えから、何が信念に正当性、規範性を付与するのかという権利問題として、この問いを理解した場合、それは心理学や認知科学の対象とはやや異なるものになります。伝統的な認識論とは、この意味での権利問題を対象にしてきた学問です。

自然化された認識論に対する批判の一つは、この規範性を自然主義は捉えられないというもので、典型的な応答は、この正当性は、真理追求という目的のために有用だという意味に過ぎず、自然科学がこうした目的論的規範を扱うことができる限りで、この認識論的正当性、規範性も扱うことができる、というものです。しかし、認識論的な正統性、規範性は目的論的な規範ではない、と考える人はかなり多く(僕もそうですが)、これが正しいとすると、この路線の批判への反論は説得力を持たないことになります。

現代分析系認識論は、こうした伝統的認識論の問題だけでなく、多くの新しい問題、課題に取り組んでいますので、伝統的認識論とはかなり異なったものになってきています。このブログでは、主に現代分析系認識論の話を書いていますので、どんな議論が行われているかを知るのに、多少役立つかもしれません。

Posted by haku taku at 2013年03月07日 06:42
丁寧な解説ありがとうございます。大変参考になりました。
実験哲学に興味が出ましたので、そちらの方にもあたってみます。

今後もブログを楽しく拝見させて頂きますね。
ありがとうございました。

Posted by むし at 2013年03月12日 16:24
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