2010年01月18日

書評(4)

13. この論文の問題点は、文脈主義に関連する以下の3つの論点を同時に扱おうとしたところにある。

  a. 「知る」についての文脈主義が正しいのか、不変主義が正しいのか?
  b. 文脈主義による懐疑論への反論は十分なものか?
  c. 主張の知識説は正しいか?

これらは、それぞれ独立の論文のテーマになるぐらいの問題なので、最初から一緒に扱うのは無理がある。また文脈主義の論点を著者はごっちゃにしているが、例えばcがだめだからといって、文脈主義の否定や、不変主義の肯定がすぐに導けるわけではない。同様に、bがだめでも、文脈主義は生き残ることができる。文脈主義に直接関わるのは、aだけである。

14. それ故、著者の3つの結論が出てくるようには思えない。まず、3つの結論とは、

(1)DeRoseは、不変主義に対する文脈主義の優位を決定的に確立できていない。
(2)WAM(Warranted Assertability Maneuver)の、文脈主義は真理条件と主張可能性を取り間違えているという批判はまだ有効である。これが正しければ、文脈主義の懐疑論論駁はアドホックなものになる。
(3)古典的不変主義はまだ知識論の有力なパラダイムである。そして、古典的不変主義には、知識の適切な定義を与えることと、懐疑論に対処するという問題が残っている。

である。無数の問題があるが、最大の問題は、ここでの「古典的不変主義」、「不変主義」は、穏健な不変主義を指すとしか解釈できないことだ(p. 81で両者を同じ意味で使うと明言している)。どうも、古典的不変主義という語と懐疑論的不変主義という語が、同じ意味で使われたり、そうでなかったりして、意味が安定していない。なぜそうとしか解釈できないかというと、(2)で書かれているWAMの支持者は皆、穏健な不変主義を受け入れているし、(3)で言われている古典的不変主義は、懐疑論と対立する立場でなければおかしいので、やはり穏健な不変主義としか見なせないからである。とすると、先の二つめの批判、著者の言うところの(実はそうではないが)DeRoseは懐疑論的不変主義に対する答えになっていないという批判は、いったいどう結論に関係しているのだろうか。それが懐疑論的不変主義に対するDeRoseの反論を無効にするというのが、意図されている結論にならなけらばいけないが、懐疑論的不変主義と穏健な不変主義は全く違う立場である。どう考えてもここでの(2),(3)に関係がない(さらに、穏健な不変主義にとっても、懐疑論的不変主義は問題である)。以下、全く理解不能だが、古典的不変主義が穏健な不変主義と同一であるとして話を進める(皮肉にもこの同一性自体は、正しいものである)。なお、そうすると最初に言われた論文の目的、アンガー流の不変主義、著者の定義では、懐疑論的不変主義が今なお有力な選択肢であると示す、と、ここの結論が全く違うということは言うまでもない。

(1)は、まずミスリーデングだ。著者の最初の批判が正しいと仮定しても、ここで出てくるのは、DeRoseの主張の知識説から文脈主義を導く論証には問題がある、というだけである。DeRoseの他の不変主義批判には全く言及されていない。さらに言うとHawthorneの本を読めば分かるように、文脈主義と様々な不変主義の論争は、どれかがどれかを決定的に反証するとかそうういうたぐいのものではなく、それぞれの長所、短所を比較して総合的にけりがつくであろう、というようなものである。

[追記]ここで(1)と同じ立場を支持する論文として、Blackson(2004), Brown(2006), Weiner(2005)が言及される。これまた非常におかしい。何故ならまず、Weinerの論文は、主張の知識説を攻撃しているだけで、不変主義どうこうという話にコミットしないと明言されている。Brown(2006)は、DeRoseの論証が、主体鋭敏性不変主義と両立可能であると言いつつも、穏健な不変主義を擁護する。さらにまた、Blackson(2004)が参考文献に載っておらず、まるで関係ないBlack(1952)というのが載っている(どこかからコピペするときに間違えたのかな?)。これは、"An Invalid Argument for Contextualism," Philosophy and Phenomenological Research 68, 344-345 のことである。この論文もまた、DeRoseの議論は、主体鋭敏性不変主義と両立可能というものである。これらのうちで、Brownしか穏健な不変主義の話をしていないので、これ以外の論文と同じ立場とするのは、完全に誤りである。これら全てに共通するのはやはりDeRoseの論証は誤りか、不完全であるという論点で、上に書いたように、これこそ著者が言うべきことである。自分の主張を、必要以上に強いものとして書くのは良くない。

[追記2]今気付いたが、p. 79に(Black, 2006, Chap.7と参照がある。Black(1952)というのは、これを書くつもりで、コピペし間違えたのだろう。Black, 2006というのは、internet encyclopedia of philosophyの文脈主義の項のことで間違いない。本でもないのにChapはないだろう…。しかし、「7」で書いたように、何故Yourgrauの論文が挙がっているのに、この論文を有名にしたDeRoseの論文への言及がないのかと不思議だったが、このBlackのサーヴェイしか読んでないからだろうな、とようやく得心した。確信を持って言えるが、著者は参考文献に挙がっている論文の半分も読んでいないだろう。

著者は不変主義を擁護する議論は何もしていないので、不変主義の文脈主義に対する優位を何も(決定的どころかわずかでも)確立できていない。著者は、一方の立場を支持する論証が失敗することが、他の立場を支持する議論になると誤って想定している。この想定なしには、(2)が導かれるかも怪しいし、著者の主張が、どう(2)の点で文脈主義にマイナスになるのか分からない。というのも、WAMを使う穏健な不変主義は、真理条件と主張可能性が異なるのはどうして可能なのかを説得的に説明し、かつ何故我々がある場面で両者を混同してしまうのかのメカニズムを示さなければならないという、論証責任のハードルがかなり高い立場だからである。これらが示されなければ、文脈主義の対懐疑論戦略がアドホックだとは言えない(むしろ、なんでそんなメカニズムを懐疑論反論のためだけに想定しないといけないのかということで、こちらがアドホックになる)。さらに、(3)もまた、ここでの著者の議論からは全く出てこない。不変主義の批判は、DeRose以外にもHawthorneなどいろいろあり、(3)を言いたいなら、それらを論駁する必要がある。さらに言っておくと、穏健な不変主義は、懐疑論が誤りだということを含意するので、懐疑論の問題はトリビアルに解決されている。知識とは何かという問題は、文脈主義、穏健な不変主義、懐疑論的不変主義に等しく問題であるが、これは単にこの問題が、文脈主義対不変主義という意味論的問題と独立である、ということに過ぎない。

[追記]やはり著者の混乱の根は、懐疑論的不変主義と穏健な不変主義は区別され、本人も区別しているにもかかわらず、両者を古典的不変主義と同一視していることである。なので、前者への批判を後者への批判としてとったり、後者への擁護が前者の擁護にもなるとといったような受け取り方をしていて、この論文全体の論旨が意味不明になっている。率直に言って、著者が参照している文献の多くをまともに読んでいないか、読めていないとしか思えない。文献上の議論が、どういう立場をどのようにして擁護、批判しているのかという点の理解ができなければ、哲学論文を読んだ、あるいは参照したとは言えない。

15. 最後にこの論文の意義。今まで書いてきたようにかなり問題があるというか、決定的な事実誤認や、著者の論証が理解不可能といった、致命的すぎる欠陥がある。それでも、まがりなりにも主張の知識説やWAM、またShifferのSemantic Blindnessに対する批判などを日本語で紹介したことは、意義がある。これらは皆、今の認識論でいろいろ議論されているので、多くの人にこれらを知って貰う機会を作ったことは大きいと思う。

16.DeRoseは2009年に出した本で、この論文で言及されているような彼の主張の知識説から文脈主義への論証に対する批判になんとか答えようとしているので、興味のある人は是非参照してください。
posted by hakutaku at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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