2010年01月18日

書評(3)

10. p. 81でようやく文脈主義の解説が終わり、著者による二つの批判が始まる。その一つ目は、DeRoseが文脈主義を導くために使う「主張のの知識説」を、反例によって誤りだと示すというものである。主張の知識説はp. 81でまず、「ある文Pが主張可能なのはそれを知っている場合のみである」と定式化される。この定式化も簡略化しすぎていて、やや問題があるのだが、さらに問題なのは、このすぐ下で、「知識の主張説」が「任意の文脈Xにおいて、Pが(個人Sにとって)文脈Xで主張可能であるのは、SがPを文脈Xで知っている場合かつその場合のみである」と定式化され直すことである。前者の定式化は、単に条件文であるのに、後者は双条件文であり、まったく違う(後者はさらに、文脈への知識帰属の真理条件の相対化を含める、メタ言語的な定式化を本来意図しているものである。まあDeRoseの2002はこの点にあまり自覚的でないのだが、筆者がこの論文で挙げているいろいろな参考文献で指摘されているので、ちゃんと読めば分かると思う。何故DeRoseがメタ言語ヴァージョンを必要とするかを、註5を読む限り、著者はまったく理解できておらず、意味不明な説明を与えているので、文献をきちんと読んでいないという疑いが強まる)。DeRoseは2002年の論文で、前者から後者を導くためにいろいろ議論をしているので、説明なしにこの移行を行うのは、不適切だし、混乱を招く。また著者がどこまで分かっているのか判定できないが、Williamsonは、非メタ言語の条件文ヴァージョンしか主張していない。

11. 次に、主張の知識説の反例が来る。しかし、著者が挙げる例はすべて、条件文ヴァージョンへの反例であり、それなら双条件文ヴァージョンを挙げなくても良かったのではないかと思う。というか双条件文ヴァージョンはメタ言語によって定式化されている(はずのもの)ので、これが文脈主義と組み合わされたなら、発話者の観点と、それの聞き手の観点を区別して、どちらの観点から見て発話が適切か、不適切かという議論が不可欠である。何故文脈主義がメタ言語による定式化を必要とするかという点が全然理解できていないので、ここでの議論はかなり不十分である。一応、条件文ヴァージョンに対する議論として、以下進める。

その前に、p. 82のDeRoseの論証の再構築は、まったくポイントが捉えられていない、というのも決定的な前提が書かれていないからである。それは、「文脈1と文脈2でSのepistemic positionが変わらない」という前提である。この前提がなければ、DeRoseの他の前提は全く不変主義と整合的であり、その否定である文脈主義、すなわちDeRoseの意図する結論はでてこない。上の問題にしてもそうだが、どうも著者はDeRoseの論証がどういうものなのかを全く理解していないと思われて仕方がない。

さて、著者は、反例によってWilliamsonの立場が問題があると示されたと結論するが、正直ここで書かれたような反例は、Williamson自身が、自分の立場の説明の際に対処できるとしてしているようなものばかりで、どう批判になっているのか分からない。また、Williamsonがやっているような、主張の適切さを分類し、ある主張がどういう意味で適切で、どういう意味で不適切なのかという議論をせず、この例は、ある文が(適切に)主張可能だが、Sがその内容を知らない例であると、単純に述べているだけなので、反例になっているかどうかが怪しい。Williamsonを知らない人には、Williamsonの議論がむちゃくちゃ単純なものだと思われる可能性もあって、かなりアンフェアな記述である。知識と主張の関係はホットトピックなので、まあもっとつっこんだ議論なしでは、何も言えない。

[追記]さらに言うと、ここで著者は「主張の確率説」と「主張の真理説」を併記し、両者が主張の知識説への反論を生み出すと書いているが、これら二つの説のうち、前者は後者が誤りであることを含意する。だから、必ずしも反例が数多くあるということにならない。さらに、筆者はここで知識を確実性と同一視して、だから主張の知識説は問題だと論じているが、これはちょっと意味が分からない。Williamsonは確かに、知識にevidential probability 1 を要求するという点で、この意味で不可謬論者とか、知識に確実性を要求しているとしばしば言われる。注意しなければいけないのは、彼はこのevidential probabilityが最大値をとることと、デカルト的確実性と同一視していないということである。さらに、DeRoseはいかなる意味でも知識に確実性を要求しない。なので、ここの批判は、何を批判しているのか明確ではない。

12. 二つめの批判は、かなり分かりにくいのだが、善意の原理を最大限に活用して解釈すると、以下のようなものである。不変主義者は、「ある文が主張可能かどうかは文脈によりかわる」(p. 83)ことを認める。すると、主張の知識説によって、ある文脈では、ある人Xの知識帰属文 ’S knows p’ が主張可能であり、それ故、この文脈では、この文(の内容)をXが知っている、すなわち、’X knows that S knows that p’が真である。’know’ のfactivityにより、’X knows that S knows that p’ は ’S knows that p’ を含意するので、’S knows that p’ が、この文脈で真であることが帰結する。すなわち、(この文脈での)懐疑論の否定が帰結する。これを認めない懐疑論的不変主義者は、何故、'X knows that S knows that p’が真なのかと問うだろう。この問いへの答えは、また知識の帰属説を用いて、この文が主張可能であるというものになるだろうから、無限退行を引き起こす。

僕には、これがどういう批判なのか分からない。まず、著者はDeRoseが「不変主義者が、ある文の主張の適切さが文脈可変的であることを認める」と言っている際に、先の間違いから、この「不変主義者」を懐疑論的不変論者だとしているが、そうではなく、DeRoseが念頭に置いているのは穏健な不変主義者である。さらに、この点を保留したとしても、著者の論点は、よくわからない。一応著者の狙いは、DeRoseは懐疑論的不変論者の問いに、無限退行で応じるしかなく、答えになってない、というもののようだ。

まず、このケースで無限退行は起こらない。何故から、著者の議論の最後のステップ、「何故 'X knows that S knows that p' が真なのかという問いへの答えは、また知識の帰属説を用いて、この文が主張可能であるというものになる」は偽だからである。そもそも主張の知識説は、知識と主張の間にある概念的つながりを指摘しているだけで、何故pと知っているのかという問いへの答えが、pと主張可能だからであると主張していない。(双条件文ヴァージョンの主張の知識説を仮定したとして)この答えが可能であるためには、pと主張可能であるための条件が、pと知るための条件とは独立に入手可能だという条件、ないし、後者の条件が前者の条件から非循環的な形で定義できるという条件が満たされる必要がある。主張の知識説の支持者の誰もそんなことは言っていない。まあ、この点はかなりテクニカルなので、ちょっと置くとしても、普通に、何故Sがpと知っているのかと尋ねられる状況を考えてみればいい。当たり前だが、この問いの答えがどのようなものになるのかを探求するのが知識論である。例えば、証拠主義者なら、Sはpのための十分な証拠を持っているから、と答えるだろう。そして、この答えが何故Sがpと適切に主張可能なのかという問いへの答えにもなる。主張の知識説が言っているのは、こういうことであって、主張可能だということが、何故知っているかという問いへの答えになる、などというようなことではない。主張の知識説を、あたかも知識論の一立場であるかのように理解しているからこうなるのだと思う。やはり、DeRoseの2002やWilliamsonを理解できていないとしか思えない。なので、著者の想定するケースで無限退行が起きるというのは、的はずれ以外の何者でもない。

そもそも、著者の主張は、簡略化して、不必要なものをとれば以下のものになる(例えば2階の知識帰属から始めているのが不自然で、普通に1階のそれから始めてないのも理由がわからない)。ある文脈でSにとってPが主張可能である。すると、主張の知識説から「Sはpを知っている」はその文脈で真である。懐疑論的不変主義者は、あらゆる文脈で、「Sはpを知っている」は偽であるという立場である。なので、主張の知識説、懐疑論的不変主義、ある文脈でpが主張可能であると認めること、の3つは両立不可能である(ちなみにアンガーはこの3つを同時に受け入れて、この不整合にも気付いているが、ほとんど議論しないままで残念)。無限退行を持ち出すことは、むしろポイントを外している。何故なら、無限退行が起こるための条件、懐疑論的不変主義者が「何故Sはpを知っている」と問うのは、端的に「Sはpを知っている」を懐疑論的不変主義者が受け入れないからであり、何故受け入れないかというと、それはこの不変主義が含意する懐疑論と両立不可能だからである。p. 83で、著者が議論の前提として、不変論者によれば、'S knows p'の真理条件が満たされたと知ることができないと言っているのは、単にこのことを2階の知識に対して繰り返しているだけである(原文では、「完全に満たされたと確認することは不可能」とおかしな言い回しをしているが、不完全に満たされたとは確信できるのか?ここも寛容の原理を適用する)。それ故、ここの議論は単純に両立不可能性を指摘しているだけであり、無限退行まで話を進めることは、むしろ余分でしかない。そして上で述べたように、無限退行が起きるというのも誤った考えに基づいている。

この不整合は、もし主張可能性の意味を区別しないとすると、懐疑論的不変主義から矛盾が導かれるということになり、むしろ懐疑論的不変主義への帰謬法的批判ともとることができる。というか、まさに主張の知識説は文脈主義を含意し、それが懐疑論的不変主義(懐疑論)の誤りを含意する、というのがDeRoseの反懐疑論戦略そのものである。本当に何故、これが懐疑論的不変主義の擁護になるのか分からない。著者は自分が何を言っているのかを見失っている。著者がここで言及しているLeiteが主張するように、この不整合を懐疑論者が回避するのは容易くて、主張の知識説が用いる「主張可能性」と、懐疑論者の認める「主張可能性」とは意味が違うとすれば良い。そして、確かにこの点が説得的に論じられたなら、DeRoseの論証は失敗する。しかし著者はこの点に言及せず、自分の議論はLeiteと同じく、DeRoseが懐疑論的不変論者の問いに答えられないと指摘するとし、それがDeRoseの批判から懐疑論的不変主義を擁護するものと見なしている。Leiteが擁護しようとしているのは穏健な不変主義だし、著者の議論は主張可能性の意味の違いに言及していないので、当然同一の議論ではない。Leiteの読みの問題を保留したとしても(Leiteは穏健な不変主義と懐疑論的不変主義を区別し、両者が認めうる「主張可能性」の意味も区別する。著者はこれらの区別ができていないので、かなり誤読していると思う)、本当に何故、これが懐疑論的不変主義の擁護とそもそも見なせるのかが分からない。また、善意の原理を最大限に使って、DeRoseの反懐疑論戦略のModus Tollensをとって、懐疑論的不変主義から主張の知識説の否定を導くことができるというのが、著者のポイントかもしれない。しかし、これこそまさにDeRoseが主張の知識説を独立的に論証しようとする理由そのものであり、そもそも著者の最初の批判は、この論理的関係なしに成立しない。なので、この第二の批判は、DeRoseがModus Ponensとして表現する論理関係を、Modus Tollensとして表現しただけであり、付け加えるべき内容は何ら存在しない(不必要かつ誤った無限退行の部分を除けば)。だからこの論文には実のところ、DeRoseに対する批判は一つしか存在しない。というか、むしろこの第二の批判のせいで、DeRoseの論証が理解できているのかという、先の疑念がさらに強化される。

ここでのミスの大本の原因はおそらく、主張可能性と真理条件を分けることで通常の知識帰属の真理性を懐疑論に対して擁護しようとする通常のWAMと、Leiteが懐疑論者として扱うStroud、Ungerが示唆している、懐疑論の真理性を日常の知識帰属の見かけ上の真理性に対して擁護しようとするヴァージョンのWAMとを区別できていないことである。前者は穏健な不変主義、後者は懐疑論的不変主義にであるが、著者はこの二つの不変主義の区別がごっちゃになっているので、二つのWAMもごっちゃになっている。DeRoseの2002の論文は後者に反論しようというものではないし、WAMの支持者が、DeRoseを批判するのも、後者を支持したいからではない。この辺の立場の整理がうまくいっていないので、めちゃくちゃになっているのだと思う。
posted by hakutaku at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/138652373

この記事へのトラックバック