2010年01月18日

書評(2)

5. p. 75で、この論文の目的が、アンガー流の不変主義が今なお有力な選択肢であると示すことである、と設定される。これに続いて、文脈主義と不変主義の争点は、主に

A 懐疑論に対する解決力
B 知識論としての自然さ

だと述べられる。僕はこの2点が争点だとは全く思わないが、それ以上に、この2つは何を言いたいのか分からない。まず、アンガー流の不変主義というのは、懐疑論を含意する立場であり、そもそも懐疑論を解決できないという立場である。だから何故Aが問題になるのか分からない。次に、文脈主義と不変主義は、「知る」の意味論的内容が文脈依存的かどうかという点に関する、意味論的立場であって、その意味論的内容とは何かという問いに答えるものではない。後者に対して、知識ないし知識概念の分析によって答えを与えようとする認識論の一分野が、知識論と通常呼ばれるものなので、何故Bが問題になるのか分からない。

[追記]このBを著者は最近のDeRoseが重視しているとp. 78で述べ、DeRose 2002, 2005への指示がある。この2005年の論文は、参考文献に何故か載っていないが、"The Ordinary Language Basis for Contextualism, and the New Invariantism," The Philosophical Quarterly 55, 172-198 である。この論文を読み返したが、DeRoseの言う自然さとは、我々が様々なケースでの知識帰属に対して持つ直観をいかに自然に説明できるか、という観点である。確かにこの観点は、知識論の構築にも重要だが、DeRoseは主体鋭敏性不変主義との対立でこの観点に言及しており、やはりこれを知識論としての自然さとは読めない。

6. p. 78によると、Bは、我々が通常行っている「知る」の用法をどれだけ忠実に表現しているかに関わるとされる。この「知る」の用法というのは、語用論的な使用に関わるのか、使用の際に、知識帰属の意味論的内容を決定する意味論的メカニズムに関わるのか、意味論的内容そのものに関わるのか曖昧である。なので、筆者がBで何を意味しているか、不明である。

[追記]DeRose(2005)によると、これは知識帰属に関する我々の直観のことである、やはりこれを「用法」と記述するのは不正確である。

7. p. 79で、文脈主義の問題点として、Yourgrauの意見が言及されているが、これはDeRoseが1996年の論文で、すでに答えている(ただし、DeRoseのこの論文を著者は参照していないので、知らなかった可能性もある)。また正確に言うと、Yourgrauの意見は、relevant alternatives theoryに向けてのもので、文脈主義に直接向けられたものではない。

8. p. 80から、この論文は意味不明度が格段に上がる。まず、ここ著者が説明し始める立場(通常、Warranted Assertability Maneuver、略してWAMと呼ばれる)は、穏健な不変主義のヴァージョンである。ところが、p. 81で、「「古典的不変主義」――(中略)アンガーが最初に述べ、ここまで説明してきた立場(アンガー流不変主義)――(中略)を文脈主義に対する真の脅威」とDeRoseが認める、と書かれる。まず、古典的不変主義とは何なのか不明である。通常この語は、穏健な不変主義を指すと思うのだが、ここではそれがアンガー流の懐疑論的不変主義と同一視されている(まあ、これは単に操作的定義だと考えればいいのだが、それだと、何故ここでわざわざ今まで使っていたものに加え、同じ意味の新たな語を導入する必要があるのか分からない)。3で述べたように、DeRoseは懐疑論的不変主義を脅威だとは認めず、彼の言う古典的不変主義とは、穏健な不変主義を指す。

(追記)著者が不変主義をどう捉えているかが不明確で、混乱させられたが、おそらく細かい立場の区分がそもそも出来ていないのだと思う。僕の印象では、明らかにそれ由来の区分を使っているのに、Hawthorneの本をきちんと読んでおらず、二つの不変主義の違いが理解できていないのだと思う。

9.著者が何故こうも勘違いしているのかを註3,4を手がかりに考えると、おそらく以下のような推論をたどったのだと思う。

古典的不変主義」は、不変主義の初期の代表者が支持した立場に違いない。不変主義は、アンガーによって最初に明確に定式化された。だから、アンガーの不変主義は、古典的不変主義である(アンガー流不変主義=古典的不変主義)。アンガーの立場は、懐疑論的不変主義である。だから、アンガー流不変主義=古典的不変主義=懐疑論的不変主義が成立する。

最初のステップが誤りで、古典的不変主義という名称は、文脈主義登場以前に懐疑論を批判した哲学者たち(80年代までの分析系認識論者も含む)が暗黙裏にコミットしている不変主義を指すものとして使われる。そして、この立場はアンガーの懐疑論的不変主義ではない。DeRoseが、この立場を古典的と呼ぶのは、直接的には、このヴァージョンの不変主義を、近年台頭してきた主体鋭敏性不変主義と区別するために、古い方を「古典的」と呼んでいるだけである。

さらに、註3の文脈主義の歴史には、誤りがある。「初期の文脈主義はこれに対抗して登場した(Lewis (1979)がその代表)」とあるが、このLewisの論文では、Epistemic Modalの文脈主義的取り扱いが提唱されているだけで、Lewis (1996)に見られるような「知識」の文脈主義や、懐疑論の話は全くされていない。この註は、DeRoseの書いたものをほぼ訳しているだけなのに、著者が付け加えた部分は誤っている。

註4でも、DeRoseが「主体敏感的不変主義が正しいということはありえない」と言ったかのような書き方がされているが、これも事実誤認。
posted by hakutaku at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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