2010年01月18日

書評(1)

書評 「「知る」は指標詞か」、神山和好(科学哲学42-2, 2009, p. 75-87)

本日は書評をしたいと思う。このブログでは、日本ではまだあまり知られていない分析的認識論の立場や、日本で誤解している人がいると思われるような微妙な点を解説してきた。この書評は、この試みの延長である。この論文は日本では珍しい意味論的文脈主義についてものであるし、文脈主義を知りたい人の多くが参考にすると思う。しかし、この論文には、僕が思うに、構成、内容にいろいろ問題がある。構成上の問題はともかく、基本的な事実の誤認などはちょっと看過することができないので、以下で幾つか誤りやミスリーディングな箇所を指摘する。

1. 題名がミスリーディング。まず、事実上全ての文脈主義者が「知る」が指標詞だとは考えていない。彼らは、「知る」の文脈依存性を、指標詞性(indexicality)か、段階的形容詞(gradable adjectives)の持つ意味論的性質、すなわち、段階性(gradability、またrelativityとも呼ばれる)に類比的に考えようとする。しかし、指標詞性はDeRoseが初期にほのめかし程度に触れただけで、現在の彼は、他の文脈主義者と同じく、「知る」の意味論を段階性をモデルに考えている。

2. それ故、「「知る」は指標詞の一つだとみるのが文脈主義であり、それを否定するのが不変主義」(p. 75)というのはかなり問題がある。ここで著者は、文脈依存性と指標詞性を同一視するという誤りを犯している。この箇所の前でやっている、知識帰属文の意味が文脈によって変わるという立場が文脈主義で、それを否定するのが不変主義という特徴付けは正確なものであるが、この二つの特徴付けは同一ではない。

3. p. 75で不変主義にも幾つか種類があるとした上で、Ungerのものを「アンガー流不変主義」と呼び、これはp. 76で「懐疑論的不変主義」と同一視される(ここで著者は、Hawthorneの懐疑論的不変主義(skeptical invariantism)と穏健な不変主義(moderate invariantism)の区別を念頭に置いている)。だとすると、「文脈主義はアンガー流不変主義の批判者としてあらわれた」(p. 76)というのは、事実誤認でしかない。文脈主義は最初から、アンガー流であれ、より穏健な立場であれ、不変主義に対する批判である。

4. さらにp. 75で、DeRoseがアンガー流の不変主義をまだ、文脈主義に対する最大の脅威だとしている、と述べられる。これはDeRoseの2004年の論文を念頭に置いて書かれたと思うが、そうだとすると、これも単純に間違いで、DeRoseが文脈主義のライバルと見なしているのは穏健な不変主義であって、著者の言うアンガー流の不変主義=懐疑論的不変主義ではない。そして、彼の今(2009)の立場は、主体鋭敏性不変主義(subject-sensitive invariantism)を、穏健な不変主義と同等ないしそれ以上のライバルとする、というものである(ただし、この論文はDeRoseの2009年の本より先に書かれたと思うので、この点は仕方ない)。
posted by hakutaku at 11:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。書評対象論文の著者です。匿名のブログですから,本人ではなく「著者弁護人」と受け取っていただいてけっこうです。数日前たまたま見つけ,拝読させていただきました。ここで細部に立ち入る余裕はありませんが,気づいた点をコメントさせていただきます。

1.Referenceのうっかりは遺憾です。ご指摘を参考にさせていただきます。

2.タイトルがミスリーディングとのご指摘です。たしかに「知る」を指標詞とみる文脈主義者は少なそうです。「知る」はcontext-sensitive-expressionsの一種,とすれば誤解はなくなるでしょう。ただし,面白味は減りそうです。

3.イントロの部分で,「さしあたり「アンガー流不変主義」と呼ぼう」という言い方で導入した「アンガー流不変主義」は,DeRoseが「古典的不変主義」と呼んだものと同じものです。

英語でアンガー流不変主義といえば「懐疑論的不変主義」を指すでしょうから,まぎらわしい言い方だったかもしれません。

「さしあたり「アンガー流不変主義」」という言葉で導入し,後でそれを「古典的不変主義」で置き換えています。

(1節で「アンガーの不変主義は・・懐疑論的不変主義と呼ばれる」と書いています。細かい差で恐縮ですが,「アンガー流不変主義は懐疑論的不変主義と呼ばれる」としているわけではありません。)

アンガー自身の認識論的立場である懐疑論的不変主義は「誰も何も知らない」が真だという極端な立場です。とてもそれを受け入れる度胸はありません。また,そのような立場をDeRoseが自分たちの立場の最大のライバルとみることはないだろうと思います。

4.DeRoseの「演繹」について
知識の主張説の条件文バージョンと双条件バージョンの違いが指摘されています。オリジナルは,「知っているときのみ主張可能だ」というテーゼであるのに,双条件で表現しているのはおかしい,ということだと思います。しかし,そのテーゼの逆「知っていれば主張可能である」は問題がほとんどないテーゼだと思います。
(DeRose自身の論証は簡単でわかりにくいものです。書評対象論文の扱いとは異なるまとめ方がありえます。)

5.<(1)と同じ立場を支持する論文として、Blackson(2004), Brown(2006), Weiner(2005)が言及される。これまた非常におかしい>と指摘されています。さらに<これら全てに共通するのはやはりDeRoseの論証は誤りか、不完全であるという論点で、上に書いたように、これこそ著者が言うべきことである>とされています。

私がこの3論文を挙げたのは,それらに「DeRoseの論証は誤りか、不完全であるという論点」が含まれていたからです。書評対象論文は全体として「DeRoseの論証は誤りか、不完全である」ことを言おうとしています。

6.書評対象論文は文脈主義の完全な論駁を意図していません。(ホーソンたちの新しいタイプのものでない)古典的不変主義が(DeRoseの厳しい論駁に対して)なお生き残っていることを示すことを目的にしています。

Posted by no name at 2011年09月06日 13:14
コメントありがとうございます。「ここで細部に立ち入る余裕はありません」とのことですので、必要なことだけ、僕としても簡単に答えておきたいと思います。

「2.タイトルがミスリーディングとのご指摘です。たしかに「知る」を指標詞とみる文脈主義者は少なそうです。「知る」はcontext-sensitive-expressionsの一種,とすれば誤解はなくなるでしょう。ただし,面白味は減りそうです」とのことですが。僕が指摘したように、標準的な見解は、'know'をgradable adjectiveと類似した表現とすることです。また、ここで書かれた抽象的なテーゼが文脈主義であるというだけでも、認識論的な重要性はあるでしょう。文脈主義の意味論的な実装をどう考えるのかという問いと、文脈主義がどのように認識論的問いを解決できるかという問いは、区別する必要があります。

「3.イントロの部分で,「さしあたり「アンガー流不変主義」と呼ぼう」という言い方で導入した「アンガー流不変主義」は,DeRoseが「古典的不変主義」と呼んだものと同じものです。」この点は書評で何回も言及したように、まぎらわしいというだけで済むものではなく、説明無しでは「アンガーの不変主義」と「アンガー流の不変主義」は同一のものと読むしかできませんので、極めて問題があると思います。さらに、この論文の後半で「不変主義」と言われるものは、明らかに懐疑論的な不変主義、つまり「アンガーの不変主義」を指しますが、この点も説明がなく、混乱に拍車を招きます。

「4.DeRoseの「演繹」について
知識の主張説の条件文バージョンと双条件バージョンの違いが指摘されています。オリジナルは,「知っているときのみ主張可能だ」というテーゼであるのに,双条件で表現しているのはおかしい,ということだと思います。しかし,そのテーゼの逆「知っていれば主張可能である」は問題がほとんどないテーゼだと思います。
(DeRose自身の論証は簡単でわかりにくいものです。書評対象論文の扱いとは異なるまとめ方がありえます。)」

これがどのような指摘なのか、いまいち理解できておりません。主張の知識説の必要条件文、十分条件文、双条件文バージョンのどれが正しいのかは、ホットな問題でいろいろ議論があります。十分条件文バージョンにも批判がいろいろあり、「ほとんど問題ない」ということはありません。また、文脈主義ないし主体鋭敏性不変主義を導くには、十分条件バージョンと「主張可能性の文脈可変性」を認めるだけで十分です。なので、これを認めると不変主義が否定されるということになります。

また、DeRoseの論証について、「書評対象論文の扱いとは異なるまとめ方がありえます」とのことですが、僕の指摘は、論文中のまとめが、正確でなく、決定的な前提を書き逃している、というものです。それをまとめ方の違いということにされてしまうのは遺憾です。

「私がこの3論文を挙げたのは,それらに「DeRoseの論証は誤りか、不完全であるという論点」が含まれていたからです。書評対象論文は全体として「DeRoseの論証は誤りか、不完全である」ことを言おうとしています。
6.書評対象論文は文脈主義の完全な論駁を意図していません。(ホーソンたちの新しいタイプのものでない)古典的不変主義が(DeRoseの厳しい論駁に対して)なお生き残っていることを示すことを目的にしています。」

僕の意図が理解されていないかもしれませんので、もう一度要点を繰り返します。例えば、Blackson(2004)の論文は、DeRoseの論証が主体鋭敏性性不変主義を排除するものではない、という内容で、古典的不変主義が生き残れるという内容ではありません。著者の主張は「DeRoseが古典的不変主義に対する文脈主義の優位を確立できていない」というものなので、Blacksonのような人と同じ見解ではないです。著者のポイントをある程度整合的に理解しようとすると、やはり「DeRoseの論証は誤りか、不完全である」という点で止めるしかありません。ここから不変主義うんぬんというところまで踏み込むのは、論文の内容にもつながりませんし、ここのreferenceからしても不適切です。


Posted by hakutaku at 2011年09月08日 17:29
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