2008年07月24日

知識の価値

今の認識論でホットなトピックというのは、僕が見る限り二つぐらいである。文脈主義とそのライバルたちの論争と、知識の価値というトピックである。教科書的な認識論の解説に出てくるような、内在主義/外在主義の対立、基礎付け主義/整合説の論争、自然化された認識論の意義など、やっている人もほそぼそといるが、さほど話題にはあがらない。ある程度盛り上がってるのは他には自己知に関する問題、Disjunctivismの認識論的含意といったところだろう。

知識の価値を巡る問題というのは、プラトンが最初に提唱したと言われている。要するに、我々は知識を価値のあるもの、それ故獲得する意義のあるものと想定しているが、その価値は何にあるのかという問いである。単に真なる信念を持つことと、知識を持つことを比較すると、我々は確かに知識を持つ方がより価値のあることだと考えている。この価値は何に由来するのだろうか。こうした問いを現代分析系認識論に持ち込み、いわゆるValue Turnを促したとされるのが、Duncan PritchardとJonathan Kvanvigの二人である。後者はこのテーマで本を書いており、なかなか話題になった。

さて僕の知る限り、この問いに関する答えはだいたい4種類ぐらいしかない。

1.知識は他の認知状態に比べてより安定している(Plato, Williamson)
2.知識は他の信念、行為を正当化する(Fantl&McGrath)
3.知識は間主観的な情報源である(Craig)
4.正当化された真なる信念に付け加わるような知識固有の価値はない(Kvanvig)

括弧内は代表的支持者を選んだだけで、他にもこれらの見解を支持している人は大勢いるし、彼らの間で細かい相違もある。

この問題は認識論の他の分野との連関でもさかんに論じられていて、徳認識論の論者は信頼性主義を知識固有の価値を説明できないとして攻撃している。プラトン以来忘れ去られていた問題が現代で再び盛んに論じられるというのは、なかなか痛快なことで、哲学の面白いところだなとつくづく思う。

ちなみに分析系認識論という語を僕は非常に狭い意味で使っている。英米圏で認識論と呼ばれる分野には、伝統的認識論、社会認識論、フェミニズム認識論、ベイズ認識論などがあるが、このうちの最初のものしか指示していない。なので、他の分野には、僕はよく知らないが、それぞれホットな話題があるだろう。

posted by hakutaku at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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