2011年11月03日

内在主義とは何か

内在主義とは何かという問いに答えることはなかなか難しい。というのは、この言葉自体に幾つか意味があり、認識論で内在主義と呼ばれる立場全てが、同じ意味で内在主義というわけではないからである。そして外在主義は内在主義の否定であると定義できるが、同じ理由で、外在主義と呼ばれる立場すべてが、同じ意味で外在主義であるわけではない。

まず、内在主義・外在主義という立場は、知識に関わるものか、その必要条件に関わるかで意味が違う。それ故、例えば、知識に関する内在主義と正当化に関する内在主義というのは異なる立場であり、正当化を知識の必要条件とすれば、前者は後者を含意するが、その逆は成立しない。

知識に関する内在主義とは、真理を除く知識の必要条件のすべてが、何らかの意味で主体に内在するファクターのみによって成否が決まる条件であるという立場である。

正当化に関する内在主義とは、正当化条件が、主体に内在するファクターによってのみ成否が決まるという立場である。

ゲティア問題を、知識に関する内在主義で解決するのは基本的に無理なので、この立場の支持者はもはやほとんどいない。しかし、正当化に関する内在主義は、まだまだ支持者が多い。

さらにこの「ファクター」という言葉を、すべてのファクターととるか、主要なファクターととるか、一部のファクターととるかでもバリエーションが生まれる。


この点を棚上げして、大雑把な語りを続けると、僕の知る限り、正当化に関する内在主義と一般に呼ばれるのは以下の4つの特徴のうち1つ以上を備える立場であり、全てを満たすことは要求されない。

1、(Mentalism)正当化条件の成否を決定するファクターは、主体の心に属する。
2、(Access Internalism)正当化条件の成否を決定するファクターは、主体が内観のみによってアクセス可能なファクターである。
3、正当化の度合いとは、論理的な支持の度合い(partial entailment)ないし合理性の度合い(epistemic probability)である。
4、(Requirement of Inferential Justification)主体がpを信じるための正当化をもつならば、その主体は「pを信じるための正当化を持っている」と信じるための正当化をもつ。
5、正当化は根本的には、命題に属する性質であり、(心的状態としての)信念に属す正当化は、その派生である。

1は正当化に関する内在主義の代表的論者とされる、Richard FeldmanとEarl Coneeが内在主義と呼ぶ立場である。2は、まあ日本でなぜか内在主義の定義として常に紹介されるので、知っている人も多いだろう。当然のことながら、(2)は(1)を含意する。実のところ、これらの条件は、内在主義の条件としてはかなり弱い。William AlstonやJuan Comesañaといった外在主義者と自称する人たちでさえ、(2)を受け入れるからである。

(3)、(4)が、正当化に関する内在主義をGoldmanのプロセス信頼性主義のような正当化に関する外在主義から本当に区別する基準である。Goldmanは(全てのファクターという制限が付けられたならば)(1)から(4)の全てを否定するが、(1)、(2)の否定は彼の立場に本質的ではない。事実、AlstonやComesañaは、(2)を受け入れつつ、基本的にプロセス信頼性主義をとり(3)、(4)を拒否する。彼らの立場は、正当化にはアクセス可能な証拠を持つことが要求されると言う点で(2)と整合的だが、その証拠が与える正当化の度合いを、その証拠に基づく信念形成プロセスの信頼性の度合いと同一だとする点で、信頼性性主義の与える正当化の度合いの測定基準を受け入れ、(3)を拒否する。

(4)は、Richard FumertonやSellarsといった論者が採用する内在主義の条件であり、1階の正当化は2階の正当化を要求する、というものである。より詳しく言えば、Sの持つ証拠eがpを論理的ないし合理的に支持し、それに正当化を与えるとき、どのようにeがpの証拠になっているのか、すなわちeが論理的ないし合理的にpを支持する、という事実そのものに対する正当化を持っていなければならない、というのが要点である。

(5)は、いわゆる命題的正当化と信念的正当化(doxastic justification)の区別であるが、この区別はかなりややこしいので、説明は今回は省略する。

(1)から(5)の基準がどのように生まれてきたかを考えるには、伝統的な正当化概念とは、合理性とほぼ同一の概念だったということを思い出さなければならない。(3)はその直接的な帰結だし、(4)のような2階の正当化要求も、eがpの証拠であるとき、その事実そのものに対する正当化を持っておらず、単にeを持っているというだけでは、pを信じることに何ら合理化を与えない、という反省から生まれたと思われる。eを持つということもまた抽象的な条件であり、(2)はそれをeを自覚しているという意味にとる。
(1)はかなり弱いが、心のうちに存在すればいいとするもので、伝統的な正当化概念からかなり離れてしまうが、完全な外在主義よりはまだ近い。(5)も、合理性は、信じられる内容(命題)の間の関係に関わるものであり、心的状態としての信念に関わるものではない、という見解から生まれている。


僕が思うには、内在主義と外在主義の対立で最も重要なのは(3)で、ここで根本的に異なるので、内在主義と外在主義というのは、簡単に調和できない。先のAlstonやComesañaも、この点を自覚してか、自分の立場をあくまで外在主義と見なしている。(3)に関する明快な解説として、

Richard Swinburne (2001). Epistemic Justification. Oxford University Press.

を挙げておきたい。
posted by hakutaku at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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