2011年03月26日

ゲティア問題と直観

ゲティア問題と呼ばれる、知識を非循環的な仕方で定義することの難しさは、ゲティアに始まる知識の古典的分析への反例の発見によって知られるようになった。これらの反例には様々なパターンがあるが、反例が存在することから、即古典的分析が誤りだとされたわけではない。何故なら常に、反例を何らかの形で退け、古典的分析を維持するという処置は可能だったからである。

ゲティアの論文は数ページしかないが実に良くできていて、彼がどのように反例を構成したのかを注意深く見れば、古典的分析を否定する際に、特定のケースについての直観は、皆が思うよりも少ない役割しか果たしていないということが分かる。

まずこのブログで何度も書いているように、古典的条件とは、

S knows that p iff

(1) S believes that p,
(2) p is true, and
(3) S is justified in believing that p.

である。ゲティアはこの分析に含まれるiffが、if ではないこと、つまり古典的分析が知識の十分条件になっていないことを示そうとする。

ゲティアは、(3)の正当化条件に関して、2つの想定を置く(実際にはもっと多いが省略する)。1つは証拠主義であり、ここでは以下のように定式化しておこう。

(Evidentialism) S is justified in believing p iff S has adequate evidence for p.


第二に、正当化の可謬主義である。可謬主義と呼ばれる立場は幾つもあるが、ゲティアが念頭におくのは以下のようなものである。

(Fallibilism about Justification) Being justified in believing p doesn't imply p's being true.

この正当化についての可謬主義から、Sが偽である命題を信じるための正当化を持つということが可能であるということが帰結する。したがって、可謬主義が正しいならば、正当化を与える証拠は、それ自体正当化されていなければならないという条件を置いたとしても、その証拠が真であることは必要ではないということが導ける。(最近の認識論では、この伝統的な考えを否定するものも多い)。この想定には適当な名前がないが、False Evidenceと呼ぼう。

(False Evidence) Having adequate evidence q for p doesn't imply q's being true.

このFalse Evidenceと証拠主義から、次のことが導かれる。

(A) It's possible that S is justified in believing p even though S's justifying evidence for p is false.

つまり、古典的分析は、Sがpと信じるための正当化を持つにも関わらず、その正当化が偽である証拠に依っているということを排除しない。そして、(A)が言えるならば、古典的分析から以下のことも導ける。

(B) It's possible that S knows that p even though S's justifying evidence for p is false.

ゲティアが提示した2つのケースは、この実例であるに過ぎない。ゲティアのケースが反例として説得力を持つのは、(B)が非常に強く偽であると思われるからである。

このことは簡単に確かめることができる。(A)を満たすようなケースはいくらでも想定できるので、それらのケースが(B)を満たすかどうかを考えてみれば良いからである。

このようにゲティアの論文を再構成すると、以下のことが言えるように思う。

(1) 古典的分析の否定には、原理的な考察が強く働いている。つまり、古典的分析は(B)を許容するが、(B)は偽である、という考察である。
(2) (B)が偽であることは、多くのケースを検討し、それらがSが知識を持つケースではないという直観的判断が必要である。ゲティアの2つケースとそれに伴う直観が、古典的分析と相容れないという理由のみで、古典的分析が阻却されたというわけではない(それらについて明確な直観を持たない人でも、いくらでも類似のケースを作って確かめることができる)。

面白いのは、最近はPeter Kleinのように(B)を誤りだと考えない人も結構いるということ。ただ彼らにしても、それが端的に誤りだと考えるわけではなく、ある条件が満たされれば、(B)が成立するようなケースもあるとするだけである。
posted by hakutaku at 15:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月24日

文脈主義とUse-Mention Fallacy

文脈主義に関してよく知らない人がする批判の1つは、「文脈主義は知識をあまりにも容易に獲得できたり、失われたりするものにしてしまう」、というものである。この批判は頻繁に耳にするが、海外の専門誌で取り上げられたことは、僕の知る限りない(曖昧な記憶では、あるとしても1つくらいのはずで、この記事を書くためにネットで探してみたが、見つからなかった)。これは当たり前の話で、この批判は誤解であるか、そうでないにしても極めてミスリーディングだからだ。

まず、文脈主義(Lewis, Cohen, DeRoseらの意味論的文脈主義と呼ばれる立場)とは、知識帰属文といわれる"S knows that p"という形式の文、ないしその否定("S doesn't know that p"という形式の文)が、その文の発話される文脈に応じて、どのような命題を表現するかが変わる、という立場である。したがって、文脈主義とは、何よりもまず、知識帰属文が表す命題が文脈可変的である、という、特定の形式の文に関する意味論的立場であり、それが表す命題が真である条件を定める認識論的立場ではない。

しかし、後者に関して全く語ることなく、知識帰属文がどのように文脈可変的なのかを説明するのは難しい。そこで導入されるのが、warrantだとかepistemic positionという抽象的な概念である。おおざっぱに言うと、これらの概念は、以下の三つの性質によって定義される(標準的に、epistemic positionという概念を使って以下述べる)。

(a) epistemic positionには、強度が存在する。ある命題に関するepistemic positionは人によって強かったり、弱かったりするし、同一の人の異なる命題に関するepistemic positionも強度が異なりうる。
(b) epistemic positionの強度は、epistemic、つまりtruth-relatedなファクターによって決定される。
(c) Sがpを知っているということが成立するための条件から、non-epistemicな条件を差し引いた残余が、S is in a strong enough epistemic position regarding p である。

(b)に関して補足すると、epistemic positionの強度を決定するepistemic factorが何かという問題こそ、認識論あるいは知識論の第一次的な問題である。例えば、証拠主義なら十分な証拠を持っていることとするし、プロセス信頼性主義なら、pという内容の信念を生み出す認知プロセスの一般的に信頼可能性が、そのファクターであるとする(これらのファクターには強度が存在し、自然に(a)を満たせることに注意)。知識の成立に関わる典型的なnon-epistemic factorは、S believes that p と、p is trueである。したがって、(a)、(b)、(c)から、Sがpと知っているための一般的条件は以下のようになる。

S knows that p iff (1) S believes that p,
(2) p is true, and
(3) S is in a strong enough epistemic position regarding p.

文脈主義は、このように知識の条件を抽象的に定義した上、知識帰属文の文脈可変性を以下のように説明する。どの程度のepistemic positionの強度が、(3)の条件を満たすために要請されるかは、文脈によって決定される。そして同時に、この要求される強度に応じて、その文脈において、知識帰属文がどのような命題を表すかも決定される。

例えば、不可謬主義的懐疑論が問題となるような文脈では、(3)の条件を満たすために要求される強度は極端に高くなる(すなわち、極端に高い強度でないと、strong enoughでない、となる)。議論の簡易さのため、この要請される強度をmaximalだとしよう。すると、知識帰属文"S knows p"がその文脈で表す命題は、

(1) & (2) & S is in a maximally strong epistemic position regarding p

となる。あるいは、この命題を知識に関する極端に高い(maximalな)基準が用いられたと解して、以下のように表現することもできる。

S knows by the maximally high epistemic standard that p

この命題を満たすことは、事実上、どのようなSと経験命題pの組にも不可能なので、不可謬主義的懐疑論の文脈では、知識帰属文"S knows p"は、Sとpがどのようなものであれ、偽となる。しかし、たとえSが例化するepistemic factor, Sがpと信じるかどうか、pが真かどうかといった点が懐疑論的文脈と同一であるとしても、通常の文脈では、同一の形式の文が表す命題は、

(1) & (2) & S is in a less-than-maximally strong epistemic position regarding p、か

S knows by the less-than-maximally high epistemic standard that p

であり、多くの人はこれを満たすことができる(正確には、その文脈が要求する強度、pの内容によるが、この点は簡略さのため省略する)。したがって、通常の文脈では、知識帰属文は(多くの場合)真である。

文脈主義者の多くは、文脈が変化する要因として、知識帰属文を発話する人物の心理的要因(pに関するどのような反対の可能性(alternative)が顕著であるか)や、実践的要因(pが真であることにどの程度の実践的重要性があるか)を挙げる(しかし、僕の知る限り、いかなる文脈主義者も、これらの要因が存在するならば、必然的に文脈が変化するとは主張しない。文脈変化のメカニズムは部分的に経験的な問題で、哲学的根拠のみで決定できない)。このことが、最初に述べた「文脈主義は知識をあまりにも容易に獲得できたり、失われたりするものにしてしまう」という批判を誘発する原因だろう。

しかし、今まで述べたことから明らかなように、文脈主義とは知識に関する立場でなく、「知識」あるいは「知っている」という語を含む文が表現する命題に関する立場である。そしてもちろん、compositionalityから、「知っている」という語の意味論的値に関する立場だと言える。ここで外延的に、知識とは「知識」の指示対象、あるいは「知っている」が表す関係だと置いてみよう。別の言い方では、この指示対象ないし、関係が文脈に応じて変化するというのが、文脈主義である。

文脈AとBで、同一の形式の文がAでは真、Bでは偽であるということは、その文が文脈可変的な語を含む限り、起こりうる。例えば、"S is tall"という形式の文は、Sの身長が180センチであった場合、多くの文脈では真であるが、バスケットボールプレイヤーについて話している文脈では偽であるかもしれない。これは後者の文脈で"tall"が表す関係が tall for a basketball playerであり、Sはこの関係を例化しないからである。しかし、これらの文脈間で、Sの身長が変わるわけではない。

知識に関しても同様で、Sの例化するepistemic factorが変化しない限り、(b)により定義上、Sのepistemic positionが変化するということはない。これが意味するのは、「知っている」という語が表現しうる関係(knowing by the maximally strong epistemic standard、knowing by the ordinary standardなど)のうち、どれをSが特定のpに関して満たし、どれを満たさないのかということは、真理とSの信念というnon-epistemic factor、そしてSの例化するepistemic factorに変化がない限り、文脈間で異なることはない、ということである。文脈が影響を与えるのは、あくまで、そのうちどの関係を「知っている」が表現するのかという点に過ぎない。

したがって、「文脈主義は知識をあまりにも容易に獲得できたり、失われたりするものにしてしまう」ということはない。Sがどのような知識を持つかは、Sが「知っている」が表現しうるどの関係を満たすのかということと同義だからである。この批判の誤りは、知識、知っているという実質的な事柄と、「知識」、「知っている」という言語表現に関する言語的(カルナップなら形式的と呼ぶだろう)事柄を混同している点にある。簡単に言えば、これはある種のuse-mention fallacyの一例であり、"tall"の文脈可変性を根拠に、人の高さが容易に変化するものになってしまうと言っているようなものである。

DeRoseの2009年の本には、この批判をいつも聞いてきたと述べた後、ここで述べた路線で反論を述べている箇所があるので、参考にして頂きたい。

【追記】「知っている」とそれが表す関係が、一対多の関係であるということが文脈主義の前提であり、これを否定する立場、すなわち「知っている」は常に同一の関係を表現するという立場は、不変主義(invariantism)と呼ばれる。
posted by hakutaku at 16:11| Comment(3) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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