2010年02月25日

Craigの社会学的アプローチ

Stichら自然主義者の考える、規範的理論がデカルト以降の第一哲学の残滓に思えると先のエントリで書いたのだが、Stichの1990年の本を読み返していると、最初にまさにそういうことが書いてあった。やはりある意味で、自然主義的認識論は分析的認識論よりも、ずっと伝統に忠実なのだ。

以前から書いているように、実験哲学の一つの意義は、哲学をめぐる方法論的な問いの重要性を哲学者たちに認識させたことにある。概念分析としての哲学という考えは、Frank Jacksonが10年ほど前に改めて定式化し、実験哲学の初期の成果は、彼の本の書評で発表された。この本はWilliamsonの最近の批判のターゲットでもあり、彼のJacksonとのAnalysisにおけるやりとりは、あまりにもJacksonをけなしていて、かわいそうになってくるほど。

しかし、概念分析をしないとすると、どうやって哲学をやったらいいのか。実験哲学者のWeinbergが提唱する方法論は、90年のCraigの本で提出された方法論をモデルにしている。

Edward Craig (1990). Knowledge and the State of Nature: An Essay in Conceptual Synthesis. Oxford University Press.

この本は、知る人ぞ知るという感じで、名著だがあまり読まれることがなかった。従来の認識論の概念分析を批判しつつ、Craigが提唱する方法論は、自然状態から「知識」という概念が何の目的で生まれ、維持されてきたのかという、概念の機能に関する社会的考察を、壮大な思考実験として行う、というものだ。実に斬新なアプローチだが、90年代はほとんど無視されていて、Weinbergは、あまりにも過小評価されていると会ったときに言っていて、僕が読んだことがありますといったら、マジでって感じで驚いていた(相当前に入手して、何故買ったのかを全然覚えていない。一時認識論関係の出版物を手当たり次第に買っていたときがあったので、そのときに買ったのだと思う)。

実のところ、この本が再び脚光を浴びたのは、Weinbergというよりも、認識論のValue Turnの中でである。Craigのアプローチは、「知識」概念の社会的機能に注目するものだが、Value Turnで注目された他の方向性の一つは、我々の実践における知識の機能に注目するというものである。SSIなどは、このアプローチから生まれた立場だ。

実験哲学はSSIが使うケースも批判対象にしていて、論文が幾つか書かれたが、一つの論文は、SSIを矮小化しているというか、SSIの立場が、あるケースに対する直観に依拠するものでしかない、と理解している。これは大きな間違いで、SSIは、直観以外に、この知識の機能の分析に依拠している。この理論的部分が強力だというのが、SSIの魅力である。

どうも、一部の自然主義者は、伝統派を攻撃するだけが目的になっているようなところがあり、それが前から全然自然主義に興味がない理由だった。もうあまり身のない批判はいいから、何か面白い成果を見せてくれよとずっと思っていたが、実験哲学というのは、その点でいろいろ実験してくれるから、面白い。
posted by hakutaku at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月20日

Stichと実験哲学(2)

さらに追加しておこう。Stichは、実験哲学の嚆矢となった2001年の論文で、何よりも分析哲学における認識論を、規範的理論だと見なしている。認識論は、記述的理論、つまり概念分析をやって、知識や正当化といった概念を支配する規則を記述するという側面もあるが、それだけではなく、(例えば、文化、歴史相対的に)複数存在する場合、どれを採用すべきかという規範的判断を行うことを目的とする、規範的理論であるというわけだ。

前の論文の註でも書いたが、僕は昔からこの分析的認識論についての彼の理解が、全然分からなかった。こんな規範的理論を目指している認識論者など、僕の知る限りもはやほとんど存在しないからである。ちょっと前まではいたのかもしれないが、僕からすればこれは大昔の認識論の理想、第一哲学の残滓にしか思えないし、そういう思いはおおむね認識論者で共有されていると思う。

しかし、Stichがこうした理解を持つのは、彼が哲学の方法論の問題ををthe Rationality Debateのにおいて指摘された問題とパラレルに捉えているからに違いない、と最近思い当たった。論理学や確率論というのは、確かにStichの言うような、強い意味で規範的であるように思うし。まさにこうした規範的理論と一般の人々が実際に用いている理論の相違というのが、 Rationality Debateの焦点だったからだ。そして、後者が実際にどのようなものなのかを構築する試みもなされて、Kahneman & TverskyのProspect Theoryが、実際の確率判断の「記述的理論」として提出された。この記述的−規範的理論の相違というのは、それ以来実験経済学でもずっと使われているようだ。これをモデルに認識論における記述的−規範的理論を考えているのだろう。まあ、だからといって、このモデルが認識論に対して正しいということにはならないが。

むしろ、Stichのような理解をしている人は、僕の見る限り、分析的認識論の外から来た人の方が多い。例えば、Susan Haackも、ほぼ同様の理解を認識論に対してもっていて(regulative epistemologyと呼ばれる)、彼女の本

Susan Haack (1993). Evidence and Inquiry, Oxford: Blackwell Publishers. (最近2版が出たが、これは1版)

では、繰り返しこの点が強調される。

ちなみに、Stichの認識論的プラグマティズムというのは、分析的認識論に正直なんら強い影響を与えなかった(なので、僕は読んでいないが、翻訳の惹句は言い過ぎだと思う)のだが、これはこの本が強力な批判を展開したことが理由だ。Stichと共に実験哲学者の立役者の一人であるWeinbergさえ、この本の批判によって、自分は認識論的プラグマティズムを支持しないと、ある論文で書いている。

なお彼女の立場、Foundherentismというのも、ほとんど影響を与えなかった。僕はこの立場が従来のものとどう違うのか、いまいち理解できない。しかし、この本は名著であり、認識論、とくに基礎付け主義と整合説の問題を勉強する人は必読である。Stichの本も翻訳されたし、誰かが翻訳すればよいと思う。

さらに言うと、

Michael A. Bishop and J.D. Trout (2005), Epistemology and the Psychology of Human Judgment, Oxford University Press.

も、同じように認識論を強い意味で規範的と解釈して、自然主義的観点からよりよい規範を探求するという内容だ。Stichにしてもこの本にしても、自然主義的でない現行の分析的認識論に対してかなり批判的なわけだが、彼ら自身のプロジェクトは、分析的認識論がもはや失った、第一哲学という実に古い認識論の伝統を引き継いでいるように見える。

日本で分析系認識論は人気がないが、自然主義的認識論は人気があると思う。近年の自然主義的認識論における指導的哲学者たちの中では、StichとKornblithはすでにかなり知られているようだから、残る大物はこのBishopしかない。この人はStichの盟友のような感じで、Stich and His Critics編集者でもある。そして、Stichもこの本の書評を書いている。

でも本音をいうと、自然主義的でない分析的認識論も面白いんだぜ、ということを言いたいなあ。このブログは、そのために始めたんだけど、どこまでこの狙いを達成できているかは、謎だなあ。分析的認識論を研究している人がいたら、是非交流したいんだけどな。
posted by hakutaku at 18:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 実験哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Stichと実験哲学(1)

実験哲学の方法論というのは、明らかにKahneman & Tverskyらの、Biases & Heuristics Approachをモデルに構築されている。これは、やはり彼らの一連の実験によって引き起こされたThe Rationality Debateの参加者であり、実験哲学の創始者でもあるStichの影響が大きいだろう。実験哲学には幾つか立場があるが、方法論は皆共通している。

The Rationality Debateは今でも継続しているが、まあ初期の頃に問題だった、人間の合理性を、経験的に反証できるのかというCohenによって提唱された問題は、できるということでけりがついている。Cohenは、できないという答えを擁護したわけだが、その際に彼が使ったのが反省的均衡に訴える戦略である。実験哲学者は、哲学の方法論を反省的均衡として定式化することが多いが、これもThe Rationality Debateの影響だろう。この辺りの事情は、今ではもう古典の部類にはいるが、以下の本が詳しい。

Stein, E. (1996). Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and. Cognitive Science. Oxford: Clarendon Press.

Cohenは、Stichの1990年の本にも、彼がKahneman & Tverskyに対して行ったのと、(より穏当だが)類似の路線の懸念を表明している。

実験哲学の中でもStichらがとっている、実験的制限主義という立場は、一番ラディカルなので、いろいろと論争を呼んできた。しかし、僕がややつまらないなと思うのは、この立場への反論のほとんどが、The Rationality Debateで既に提示された反論のパターンの範疇を超えていないということだ。例えば、非哲学者の直観よりも、職業的哲学者の直観が重視されるべきだ、とするいわゆるExpertise Defenseというのは、まあThe Rationality Debateでも見られたタイプの反論である。反省的均衡の観点からすると、これは哲学理論を反省的均衡にかける際に、いわゆる一般人の直観と職業的哲学者の直観のどちらの均衡を重視するのかというという問題に、後者だと答えることに等しい。

Alexander, J., & Weinberg, J. M. (2007). Analytic Epistemology and Experimental Philosophy. Philosophy Compass, 2(1), 56-80.

では、この立場をintuition elitismと呼び、前者だと答える立場をintuition populismと呼んでいる。彼らは言及していないが、これらの用語は明らかに、

Thagard, P. (1982) From the Descriptive to the Normative in Philosophy and Logic. Philosophy of Science 49:24-42.

という、the Rationality Debateに関わる論文に由来している。Thagardは、この論争で問題だった合理性関する理論(論理学、確率論)を反省的均衡にかける際に、専門家の直観との均衡を重視する立場を、elitist strategyと呼び、一般人(非専門家)のそれを重視する立場をpopulist strategyと呼んでいる。

Thagardの分類では、Cohenはpopulist strategyの論者であり、事実これこそ、一般人の直観が確率論の規則に合致しないことが、一般人の合理的でないと言う理由にはならない、という彼の論点の基礎である。簡単に言えば、合理性についての理論は、一般人の直観とおおむね合致するべく立てられるべきであり、後者が前者の基準であって、逆ではない。

面白いのは、Thagardがelitist strategyの論者として挙げるのが、

Stich, S. P. & Nisbett, R. E. (1980) Justification and the psychology of human reasoning. Philosophy of Science 47:188-202.

だということだ。この論文の内容は、専門家の直観が論理学においては重視されるという立場である。Stichはthe Rationality Debateにおいて、Expertise Defenseを擁護していたのだ!これは、実験哲学における彼の立場と真逆である。まあ、問われている理論が、論理学と哲学と全く違うし、かなり昔の論文なので、立場も変わっているだろう。しかし、これはなかなか面白い話である。今度の学会で彼と話すだろうから、是非この辺を聞いてみたいと思っている。


posted by hakutaku at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 実験哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月12日

ダライ・ラマと中国

あまり哲学以外の話をここで書く気はなかったのですが、これは多くの人に知っておいて貰いたいな、と思ったので。

去年の秋に、僕の住むカナダ、カルガリー市にダライ・ラマが来ました。市を挙げて歓迎し、いろいろなイベントがありました。そのときに、うちの大学も彼に名誉学位を授与するなどしたようです(全然知らなかったですが)。なんとこのせいで、最近中国がうちの大学を国公認の海外大学から除くという決定をしました。今後はうちの大学で取得した単位は中国では認められないということですし、現在うちの大学には中国からの留学生がかなり多いのですが、彼らの既存の取得単位も今後どうなるか分からないという状況です。これは、いくらなんでもひどいなと思うので、多くの人に知って貰いたいと思います。

詳しくは以下の記事をお読みください。

China removes accreditation from University of Calgary after Dalai Lama honour

Chinese ministry warns against attending University of Calgary

Alberta hopes diplomacy could soon restore U of C to Chinese list
posted by hakutaku at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月11日

マクダウェルとSSI

ジョン・マクダウェル(John McDowell)は、subject-sensitive invariantismにコミットしている。このことは全く知られていないが(MacFarlaneがある論文で、言及しているだけ)、その理由は、彼がこのアイデアを論文の註で言及しただけで、本格的に展開しなかったためだろう。彼の論文、Knowledge by Hearsay (in Meaning, Knowledge, and Reality, Harvard University Press, 1998)の註24が、問題の註である(この論文は、SSIが台頭する以前の1993年に書かれている)。

Note that the standards can depend on what is at stake. Consider again the case of the child at school. If nothing turns on it, we might casually credit her with knowledge of the arrangement of the furniture in the living room of her house. But if we tell the story so that something that matters a great deal to her depends on whether she is right, it may become doxastically irresponsible for her to vouch for the layout’s being as she recalls it to be. In such circumstances, it starts to be significant for her epistemic status that her parents may have moved the furniture, and she is in a position to know that that kind of thing does happen. (Knowledge by Hearsay, fn 24, p. 429)

SSIにはいろいろヴァージョンがあってややこしいのだが、ここではFantl&McGrath,Stanley, Hawthorneのヴァージョン全てに共通する、「どの程度のepistemic statusが知るために要求されるのかという知識の基準は、認識主体にとってのstake、つまりpragmaticな関心によって変動する」、というアイデアが明確に書かれている。違いは、マクダウェルは、知識の必要条件を、認知的責任を持つこととみなす、正当化についての内在主義的でdeontologicalな見方をとっていて、この認知的責任がepistemic statusの少なくとも1要素だとする、という知識論を採用しているところ。一番近い立場は、伝統的な内在主義者のFantl&McGrathのヴァージョンのSSIだろうな。でも彼らは認知的責任については、何も語っていない。

さらに言うと、マクダウェルは正当化についての内在主義者で、正当化には証拠を(内在主義的な形で)持つことが要求されるとする、証拠主義者である。しかし、彼は、証拠の同一性基準として、認識主体の主観的弁別性ではなく、外的条件をとる、証拠についての外在主義者である。正当化の内在主義と、この意味での証拠の外在主義は、両立可能な立場である。マクダウェルが認識論内で誤解され続けたのは、証拠の外在主義というのが斬新すぎて、ほとんどの人が思いつきもしなかったのが理由だ。例えば、正当化についての外在主義者も、ほとんど皆、証拠についての内在主義者である。現代の認識論で証拠を巡る議論が整備されたのは最近で、Williamsonの登場以降である。やはり、彼の認識論への貢献はとてつもなく大きい。WilliamsonのKnowledge and Its Limitsは、DeRoseがここ数十年の認識論関係の著作で卓越していると評していたが、やはりそうだと思う。ただこの本は、ほんとに読むの苦労するのだ。

閑話休題。SSIも文脈主義と同じく、哲学史のあちこちに顔を覗かせる。しかし、SSIが一哲学立場として確立するのは、何より上述の支持者達が、pragmaticなファクターが知識に影響を与える、ということを説得的な論証で示したからである。そうした論証なしのアイデアの披瀝というのは、哲学ではあまり重要ではない。でも、こういうのを調べるのが、哲学史の面白さの一つではある。

この註は、2年くらい前にマクダウェルを勉強し直しているときに見つけ、Fantlに報告して、面白いコメントが聞けたのだが、無許可で書くのも問題なので、ちょっとここでは書けない。申し訳ない。

というわけで、有名人と文脈主義シリーズの2回目。正確に言うとSSIは文脈主義ではないが。
posted by hakutaku at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。