2010年01月25日

クワインと文脈主義

クワインの認識論、すなわち自然化された認識論には、日本語でも英語でも多くの論文が書かれたきた。今更僕ごときがそれらに付け加えるようなことはないが、一つ指摘できることがあるとすれば、クワインのかなり独特の知識観を知るには、彼の辞典、『Quiddities: An Intermittently Philosophical Dictionary』がよい手がかりになるということだ(僕の知るクワインの認識論に関する論文で、この本にまともに言及した論文はない)。

そして、クワインのそこでの見解は、文脈主義者たちの見解とある種の親近性を示すと共に、やはりかなり距離があるという、極めて独特のものになっている。まず、クワインは、「知る」という語について、以下のように述べる。

We do better to accept the word ‘know’ on a par with ‘big’, as a matter of degree. It applies only to true beliefs, and only to pretty firm ones, but just how firm or certain they have to be is a question, like how big something has to be to qualify as big. (p. 109)

ここでクワインが指摘しているのは、「知識」という語が、段階的形容詞と類似の性質(彼が曖昧さ(vagueness)と呼ぶ性質)を持ち、「大きい」がある対象に正しく適用されるためにどの程度それが大きくなければならないのかに関する明確な基準存在しない(ように見える)のと同じように、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるために、pがSにとってどの程度確実、ないし確固(firm)でなければならないのかに関する明確な基準が存在しない(ように見える)、ということである。

しかし、同時にクワインは、「知る」と段階的形容詞には相違があるとも指摘する。

There is no place in science for bigness, because of this lack of boundary; but there is a place for the relation of bigness. Here we see the familiar and widely applicable rectification of vagueness: disclaim the vague positive and cleave to the precise comparative. But it is inapplicable to the verb ‘know’, even grammatically. Verbs have no comparative and superlative inflections,... (ibid.)

段階的形容詞の曖昧さは、比較級を使うことで解消することができるが、「知る」は形容詞ではなく、語尾変化しないので、比較級や最上級を作ったりできない。この考察から、クワインは驚くべき提案をする。

[追記]ここでさらにクワインは、「大きい」という語は、科学内に居場所を持たないと指摘している。しかし、大小関係は、科学内に居場所をもつ。ここでの比較級への言及は、おそらく、特定の大きさを基準に、それより大きいか小さいか、つまり比率尺度で測定できるということを念頭に置いている。以下の「知る」の消去主義は、やはりクワインの自然主義が根底にあり、「知る」に対しては比率尺度が使えないので、(科学の一部としての)認識論には居場所がなく、それが使える「確実性」や「正当化」という概念だけで、認識論はやっていくべきだ、という提案である。

I think that for scientific or philosophical purposes the best we can do is give up the notion of knowledge as a bad job and make do rather with its separate ingredients. We can still speak of a belief as true, and of one belief as firmer or more certain, to the believer’s mind, than another...

These reflections perhaps belong in their rudimentary way to the branch of philosophy known as epistemology, or the theory of knowledge. Rejection of the very concept of knowledge is thus oddly ironical. (ibid.)

つまり、語尾変化しない「知る」では、どの程度知っているのかということを正確に語ることができないので、認識論は「知る」、ないし「知識」という語を使用することを、やめるべきである、とクワインは結論しているのだ。

ここでのクワインの議論には、ある程度文脈主義と類似点がある。

まず、「知る」と段階的形容詞がクワインのいう曖昧さを持つということは、文脈主義がしばしば用いるアナロジーである。文脈主義者は、この曖昧さは両者が文脈依存的表現だからだとみなす。そしてもちろん、ここから、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるための基準は、文脈によって設定されるとする。

ここのクワインの考察は、こうした文脈依存性とは無関係に成立するが、なにより奇妙なのは、クワインがこの考察から、pをSが知っていることそのものが、程度問題(as a matter of degree)としていることだ。つまり、二人の認識主体S1とS2が同一の命題pに対して、一方が他方よりもよく知っている、ということがあると言っている。ここでのクワインの議論には問題がある。pがSにとってどの程度確実であるのかということには程度があるとしても、Sがpを知っていることに程度があるということは帰結しない。文膜主義者がよくやるように、

S knows p only if S is certain that p, to a sufficient degree.

として、確実さには程度があり、どの程度の確実さが知るために要求されるかは曖昧だが、知っていることそのものには程度はない、と考えればいいからである。事実、こうした命題的知識に程度があるという見解は、現代の認識論ではかなりマイナーな考えであり、Hetheringtonくらいしか支持者がいない(そしてこの人は、僕が認識論マイナー大賞というのがあれば、受賞確実だと思うぐらい、いろいろな非標準的な見解で知られている人である。ただし、彼の見解は別段トンデモではなく、真剣に考察するに値する)。

クワインは、「知る」と段階的形容詞の相違に注意を向け、前者が後者と異なり、曖昧さを除去するための構文論的装置(語尾変化)を持たないと指摘する。「知る」と段階的形容詞の構文論的、意味論的相違というのは、Stanleyが近年詳細に調査し、相違がありすぎるために、文脈主義の依拠するアナロジーは成立しないと結論している(この路線の批判は、過去文脈主義に向けられたもので最も直接的であり、強力である。いまだStanleyに対する、これだという応答はでていないが、Blome-Tillmannなどが頑張っている)。ここでのクワインは、かなり単純な仕方でだが、同じようなことをやろうとしている(ただし、ここのクワインの議論は、やや単純すぎると思う。ここでの指摘は、「知る」と段階的形容詞の相違というより、動詞と段階的形容詞の相違を指摘するものにすぎないからである。まあ、これだけでもクワインのここでの目的には十分なわけだが)。

さらに、クワインの結論、「「知る」の曖昧さは除去できないので、認識論からこの語を消去すべきだ」、という消去主義の提案は、ある程度文脈主義の主張に近い。ここまでラディカルなことを言う文脈主義者はいないが、彼らは一様に、「知る」の曖昧さ、あるいは多義性が、様々な認識論的問題を引き起こす原因だとし、その点が明確になればこれらの問題は解消されるとする。つまり、彼らは、「知る」を消去しろというところまでいかないが、少なくとも曖昧さを除去すべきだという点で、クワインに同意するはずだからである。

文脈主義的な主張は、哲学史のあちこちに現れるが、これからも機会ががあれば、触れていきたい。
posted by hakutaku at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする