2010年01月29日

実験哲学からの挑戦

実験哲学で検索してうちのブログを見てくれた人が最近随分います。おそらく、実験経済学・哲学の学会の情報をかなりの人が知ってくれたからだと思います。

といっても、うちのブログは今まで実験哲学のことは全然書いていません。申し訳ないので、去年に応用哲学会で発表するために作成した論文をアップすることにしました。実験哲学の立場の一つである、実験的制限主義とその批判的検討が主題です。この論文は、最終的に学会誌に投稿することを意図していましたが、当時いろいろと不満な点があり、一年近く放置していました。あまり手直しもしていませんが、この一年でまたいろいろと論文が出ましたので、それらの情報を盛り込み、幾つか註を追加しました。まだ文章、内容面で完全なものとは言えませんが、実験哲学をこれから勉強したいという人には、それなりに役立つと思います。

この論文の内容は、

1、実験哲学内の立場の一つである、実験的制限主義を巡る議論のサーヴェイ。
2、直観の認識論のサーヴェイ。
3、実験的制限主義の批判的検討。

となっています。実験哲学についてはすでに幾つかサーヴェイが出ていますので、一応それら以上のものしようと頑張りました(他のサーヴヴェイは数年前に書かれていて、展開の早い実験哲学のサーヴェイとしては、やや時代遅れになっています。この論文は、現在入手できる限りで最新の文献までフォローしているので、2010年1月現在で、最もuptodateなサーヴェイになっていると思います)。また、実験哲学を巡る議論を理解するには、なにより直観がどのような認識論的役割を持っているのかを知る必要があります。このトピックは現在の認識論のホットトピックの一つなので、それについてかなり詳しく書き、結局サーヴェイ内サーヴェイという感じになってしまいました。サーヴェイばかりではオリジナリティがないので、一応最終節で自分の意見を書いています。

実験哲学の一立場に焦点を合わせていますので、実験哲学一般のサーヴェイとしてはやや不完全です。特に、実験哲学の立役者の一人、Joshua Knobeの実験と、それに関する議論については、註で文献を挙げているだけで、それについての記述がまったくありません。この実験は、次の学会の招待講演者の一人、James Beebe氏のやった実験のもとになっているものなので、いずれこのブログか、どこかできちんと紹介します。

この論文はまだ一部未完成なので、引用や転載を原則禁じます。もしそういうことをしたいという方がいれば、連絡してください(連絡はコメント欄か、僕の大学のホームページからメールでお願いします)。質問やコメントは歓迎しますが、答えられない場合もありますので、ご寛恕ください。

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最近の入門書

「文脈主義を学ぶひとのために」は、なかなか評判が良かったみたいで嬉しい限り。あそこで書き忘れたのだが、文脈主義の勉強をするためには、そもそも認識論を知っていないと、なかなか難しい。認識論の入門書はこのブログで幾つか紹介してきたが、今まで紹介してなかったものを幾つか紹介。僕は入門書マニアなので、こういうの書くのは楽しくて仕方ないなあ。

Duncan Pritchard, What is this Thing Called Knowledge? (Routledge, 1st ed. 2006, 2nd ed. 2009)

認識論の知識が全くないという人は、とりあえずこの本からがいいかもしれない。学部1回生向けなので、記述は簡単だが、いろいろ面白く読めるように工夫されている。2000年以降の認識論の動向も抑えられている。しかし、2006年に1版が出て、もう2版である。最近の認識論の流れの速さを象徴しているなあ。僕は2版は読んでいないが、どこが変わっているのかな?

2版といえば、この入門書も最近2版が出た。

Laurence BonJour, Epistemology: Classic Problems and Contemporary Responses. (Rowman & Littlefield, 1st ed. 2002, 2nd ed. 2009)

この本は学部中級向けの入門書。これまた1版しか読んでいないが、なかなかいい。

同じく学部中級向けで、もう少し詳しく個々の哲学者の見解に焦点を合わせたものが、これ。Cambridge Introduction to Philosophyというシリーズの1冊で、このシリーズはどれをよんでも結構いい。

Marcelino Lemos, An Introduction to the Theory of Knowledge. (Cambridge University Press, 2007)

現代の分析系認識論にある程度知識があるという人、またはあまり詳しくならなくても手っ取り早くいろんな立場を知りたいという人には、ここでしばしば言及しているFeldmanのやつか、これ。

Duncan Pritchard, Knowledge. (Palgrave Macmillan, 2009)

いろんな立場(かなり新しいものも含む)が簡素に整理されていて、薄いが充実している。しかし、Pritchardは短期間に2冊も入門書書いてるんだなあ。あいかわらずの仕事量。僕は数年前までかなりのPritchard好きで、彼の著作、論文を全部読んでいたが、最近追いつかなくなってきた。ほんとにすごい仕事量だ。

同じように薄いが、内容的にかなりディープなのが、これ。

Linda Zagzebski, On Epistemology. (Wadsworth Publishing, 2008)

Zagzebskiは徳認識論の第一人者。日本では徳認識論者といえばSosaが有名だと思うが、Sosaの徳認識論は信頼性主義の変形にすぎなくて、あまり徳認識論というネーミングが相応しくない(ただし、最近立場が変わって、ややZagzebskiのアイデアにやや近づいた)。彼女は、知識の価値を巡る認識論の展開(Value Turn)を牽引した一人としても有名。この本も、知識の価値というトピックが詳しく書かれている(Pritchardもその一人で、彼の入門書にもこのトピックは入っている)。


あとはやはりアンソロジーを入手して、トピック別にまとめられた論文を解説と共に読む、というのが勉強にはいいと思う。こちらの大学の学部生向け認識論のクラスで、最も使われる(と思われる)教科書はこれ。

Ernest Sosa, Jaegwon Kim, Jeremy Fantl, and Matthew McGrath, Epistemology: An Anthology. (Blackwell, 2nd ed 2008)

一昔前の1版とはだいぶ論文が変わっている。最大の違いは、ここ最近のホットトピック、文脈主義と知識の価値が項目として加えられたこと。前者に関しては、MacFarlaneの相対主義(relativism)の論文まで入っている、ちょっと未来に行き過ぎの感じ。知識の価値は徳認識論とまとめられているのが、ちょっと不満だな。

知識の価値はプラトン以来の問題だし、この問題から入ると、何故知識が哲学の問題になるのか、という点を理解してもらいやすく、認識論の入門には一番いいのではないかと思っている。去年非常勤で認識論を教えたときに、このトピックが入ったアンソロジーを探したのだが、新しすぎるのかなかなか見つからなかった。ようやく見つけて教科書にしたのが、これ。

Duncan Pritchard, and Ram Neta, Arguing About Knowledge. (Routledge, 2008)

僕が教えたかった他のトピック、何が証拠になるのか、信念の倫理、基準の問題、などが入っているのもいい。この本のトピックの分け方は、かなり最近の認識論の流行を反映したものになっている。また、懐疑論のところに、何故かボルヘスの「円環の廃墟」が入っているのも、個人的に好ましい。
posted by hakutaku at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

クワインと文脈主義

クワインの認識論、すなわち自然化された認識論には、日本語でも英語でも多くの論文が書かれたきた。今更僕ごときがそれらに付け加えるようなことはないが、一つ指摘できることがあるとすれば、クワインのかなり独特の知識観を知るには、彼の辞典、『Quiddities: An Intermittently Philosophical Dictionary』がよい手がかりになるということだ(僕の知るクワインの認識論に関する論文で、この本にまともに言及した論文はない)。

そして、クワインのそこでの見解は、文脈主義者たちの見解とある種の親近性を示すと共に、やはりかなり距離があるという、極めて独特のものになっている。まず、クワインは、「知る」という語について、以下のように述べる。

We do better to accept the word ‘know’ on a par with ‘big’, as a matter of degree. It applies only to true beliefs, and only to pretty firm ones, but just how firm or certain they have to be is a question, like how big something has to be to qualify as big. (p. 109)

ここでクワインが指摘しているのは、「知識」という語が、段階的形容詞と類似の性質(彼が曖昧さ(vagueness)と呼ぶ性質)を持ち、「大きい」がある対象に正しく適用されるためにどの程度それが大きくなければならないのかに関する明確な基準存在しない(ように見える)のと同じように、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるために、pがSにとってどの程度確実、ないし確固(firm)でなければならないのかに関する明確な基準が存在しない(ように見える)、ということである。

しかし、同時にクワインは、「知る」と段階的形容詞には相違があるとも指摘する。

There is no place in science for bigness, because of this lack of boundary; but there is a place for the relation of bigness. Here we see the familiar and widely applicable rectification of vagueness: disclaim the vague positive and cleave to the precise comparative. But it is inapplicable to the verb ‘know’, even grammatically. Verbs have no comparative and superlative inflections,... (ibid.)

段階的形容詞の曖昧さは、比較級を使うことで解消することができるが、「知る」は形容詞ではなく、語尾変化しないので、比較級や最上級を作ったりできない。この考察から、クワインは驚くべき提案をする。

[追記]ここでさらにクワインは、「大きい」という語は、科学内に居場所を持たないと指摘している。しかし、大小関係は、科学内に居場所をもつ。ここでの比較級への言及は、おそらく、特定の大きさを基準に、それより大きいか小さいか、つまり比率尺度で測定できるということを念頭に置いている。以下の「知る」の消去主義は、やはりクワインの自然主義が根底にあり、「知る」に対しては比率尺度が使えないので、(科学の一部としての)認識論には居場所がなく、それが使える「確実性」や「正当化」という概念だけで、認識論はやっていくべきだ、という提案である。

I think that for scientific or philosophical purposes the best we can do is give up the notion of knowledge as a bad job and make do rather with its separate ingredients. We can still speak of a belief as true, and of one belief as firmer or more certain, to the believer’s mind, than another...

These reflections perhaps belong in their rudimentary way to the branch of philosophy known as epistemology, or the theory of knowledge. Rejection of the very concept of knowledge is thus oddly ironical. (ibid.)

つまり、語尾変化しない「知る」では、どの程度知っているのかということを正確に語ることができないので、認識論は「知る」、ないし「知識」という語を使用することを、やめるべきである、とクワインは結論しているのだ。

ここでのクワインの議論には、ある程度文脈主義と類似点がある。

まず、「知る」と段階的形容詞がクワインのいう曖昧さを持つということは、文脈主義がしばしば用いるアナロジーである。文脈主義者は、この曖昧さは両者が文脈依存的表現だからだとみなす。そしてもちろん、ここから、「知る」がある認識主体S(と真なる信念pの組)に正しく適用されるための基準は、文脈によって設定されるとする。

ここのクワインの考察は、こうした文脈依存性とは無関係に成立するが、なにより奇妙なのは、クワインがこの考察から、pをSが知っていることそのものが、程度問題(as a matter of degree)としていることだ。つまり、二人の認識主体S1とS2が同一の命題pに対して、一方が他方よりもよく知っている、ということがあると言っている。ここでのクワインの議論には問題がある。pがSにとってどの程度確実であるのかということには程度があるとしても、Sがpを知っていることに程度があるということは帰結しない。文膜主義者がよくやるように、

S knows p only if S is certain that p, to a sufficient degree.

として、確実さには程度があり、どの程度の確実さが知るために要求されるかは曖昧だが、知っていることそのものには程度はない、と考えればいいからである。事実、こうした命題的知識に程度があるという見解は、現代の認識論ではかなりマイナーな考えであり、Hetheringtonくらいしか支持者がいない(そしてこの人は、僕が認識論マイナー大賞というのがあれば、受賞確実だと思うぐらい、いろいろな非標準的な見解で知られている人である。ただし、彼の見解は別段トンデモではなく、真剣に考察するに値する)。

クワインは、「知る」と段階的形容詞の相違に注意を向け、前者が後者と異なり、曖昧さを除去するための構文論的装置(語尾変化)を持たないと指摘する。「知る」と段階的形容詞の構文論的、意味論的相違というのは、Stanleyが近年詳細に調査し、相違がありすぎるために、文脈主義の依拠するアナロジーは成立しないと結論している(この路線の批判は、過去文脈主義に向けられたもので最も直接的であり、強力である。いまだStanleyに対する、これだという応答はでていないが、Blome-Tillmannなどが頑張っている)。ここでのクワインは、かなり単純な仕方でだが、同じようなことをやろうとしている(ただし、ここのクワインの議論は、やや単純すぎると思う。ここでの指摘は、「知る」と段階的形容詞の相違というより、動詞と段階的形容詞の相違を指摘するものにすぎないからである。まあ、これだけでもクワインのここでの目的には十分なわけだが)。

さらに、クワインの結論、「「知る」の曖昧さは除去できないので、認識論からこの語を消去すべきだ」、という消去主義の提案は、ある程度文脈主義の主張に近い。ここまでラディカルなことを言う文脈主義者はいないが、彼らは一様に、「知る」の曖昧さ、あるいは多義性が、様々な認識論的問題を引き起こす原因だとし、その点が明確になればこれらの問題は解消されるとする。つまり、彼らは、「知る」を消去しろというところまでいかないが、少なくとも曖昧さを除去すべきだという点で、クワインに同意するはずだからである。

文脈主義的な主張は、哲学史のあちこちに現れるが、これからも機会ががあれば、触れていきたい。
posted by hakutaku at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月23日

ゲティア問題と概念分析

ゲティア問題の解決として、最もシンプルなのは、その問題の存在を否定することである。すなわち、knowledge = justified true belief、これで良い。

この立場は、多くの認識論者には、ばかげたものだと聞こえるかもしれない。しかし、この立場こそ、21世紀に入ってから、著名な認識論者によって擁護されているものである。

まず、Jonathan Sutton (2007). Without Justification, Cambridge, MA: MIT Press.

この本は、Williamsonを使いながら、この立場を擁護する。ただし、彼は自分の立場に対する反論をいろいろ検討するが、ゲティア問題からの反論の扱いが最もうまく行っていないと思う。Williamsonも同様に、ゲティア問題の存在の否定にコミットしている。というのも、Williamsonの立場は、what justifies is knowledgeというもので、知識以外のもの、単なる信念や、正当化されてはいるが誤っている信念、またもし知識が正当化された真なる信念でないとすれば、正当化された真なる信念でさえも、信念を正当化することはできないという立場だからである。(しかし、Williamsonは実のところゲティア問題の存在を認めているので、ここに不整合があると、しばしば指摘される。しかし、僕の見解では、Williamsonはこの批判をjustificationの多義性に訴えることでかわすと思う)。

もう一つ、Brian Weatherson (2003). What Good Are Counterexamples? Philosophical Studies 115 (1):1-31.

Weathersonは、「知識」の概念分析としての知識論という考え方を擁護する。しかし、何故概念分析が、すべての直観に合致するようなものでなければならないのか、と問う。彼によれば、そうしなければならないと考えるのは、概念とは何かという点に関する誤った理解に基づいている。したがって、知識の概念分析は、ゲティア反例に対処する必要などなく、ゲティア問題は存在しない。

この見解は、例えばFrank Jacksonや、彼を中心とするCanberra Planに従事する人々の持つ概念分析についての考え方と極めて対照的だ。しかし、WeathersonもCanberra Planも、Lewisの考えを引いているところがおもしろい。Canberra Planは、まさに実験哲学者が攻撃しているものだが、Weathersonは、実験哲学者の攻撃を回避することができる(最近出たCanberra Planの本は、StichとJacksonの往復書簡が収録されていて、本格的な論争が見れると思ったのだが、議論が変な方向に行ってしまい、残念。Jacksonが最初に、実験哲学については後ほど、と書いているのになあ)。

そもそも「概念」という概念は、哲学、心理学、最近では社会学でも使われるが、これらの学問の内部においてさえ、まったくその意味についての合意がなく、実に多種多様な使われ方をする。とくに、心理学、社会学では「概念変化」というのが主題になるのだが、変化は同一性を前提にするので、それを語るためには、そもそも概念の同一性の基準が提示されなければならない。そして、そうした基準を与えるためには、少なくとも概念とは何かということが確定される必要がある。僕の知る限り、この点を発達心理学で、初めてつっこんだのは、

diSessa, A. A. & Sherin, B. (1998). What Changes in Conceptual Change? International Journal of Science Education, 20(10): 1155-1191.

である。この論文の前半はいろいろ例を挙げて、発達心理学内で、「概念」とか「概念変化」という語が、あまりにも多義的に使われているのに、研究者たちはそれに無自覚なところがあるので、きちんと自分の意味を定義するように、というもの。

さらに、この路線の延長とも言うべき本が最近出た(この論文は参照されていないので、両者はまったく独立に構想されたようだが)。

Edouard Machery (2009). Doing without Concepts, Oxford University Press.

著者は実験哲学の立役者の一人。この本は、哲学、認知心理学間で、そしてこれらの学問の内部でさえ、「概念」という用語があまりにも多義的に使われ、多くの人はそれでも同じものについて語っていると思っているが、それぞれ通訳不可能で、全く別ものなので、もうこの語を使うのはやめたらどうだと、「概念」についての消去主義を提唱する。この本はまだ全部読んでいないけど、実に勉強になる。

(ただし、この本についての書評は僕が読んだだけでも幾つかあるが、どれひとつとして好意的なものはない。僕自身も、哲学における概念の章は、あまりにも短いし、外在主義が全く扱われないなど、不十分だと思う)

最近ではWilliamsonも、概念分析としての哲学という考え方を批判する際に、概念の同一性のための条件を確定させることは不可能だと論じている。Williamsonによれば、哲学は、事象分析であって、概念分析ではない。同様の見解をSosaも持っているので、昨年Sosaと話し込んだときに、あなたの見解はWilliamsonと似てますねと言ったら、Jacksonの本の書評を書いたときにすでに言ってたんだよ、と返答された(なお、Sosaは、物腰の柔らかい、紳士的な人なので、怒っていたわけではない)。
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2010年01月18日

文脈主義を学ぶ人のために

より建設的に、文脈主義に関する議論をきちんと学ぶために、何を読めばよいのかを手短に解説したいと思う。もし、まったく知識がない状態で、本格的に標準的ヴァージョンの文脈主義と、そのライバル主体鋭敏性不変主義を学びたいという人がいれば、以下の順番で読むのが、僕のお薦めです。

1. Patrick Rysiew (2007). "Epistemic Contextualism," Stanford Encyclopedia of Philosophy.

かなり詳細なサーヴェイ。Rysiew自身の論文もWAMを支持する代表的なものなので、読む価値あり。


2. John Hawthorne (2004). Knowledge and Lotteries. Oxford University Press.

文脈主義と様々なヴァージョンの不変主義が詳細に比較される。現在の議論の土台を作った、記念碑的著作。読めばいろいろな立場にかなり詳しくなれます。主体鋭敏性不変主義を一応支持する。

3. Jason Stanley (2005). Knowledge and Practical Interests. Oxford University Press.

文脈主義って意味論的にどうなのという、詳細な言語的探求。主体鋭敏性不変主義を支持するが、議論自体はHawthorneとさほど違うわけではない。

4. David Lewis (1979). “Scorekeeping in a Language Game,” Journal of Philosophical Logic 8, 339-359.
5. --- (1996). “Elusive Knowledge,” Australasian Journal of Philosophy, 74(4), 549-567.

ここからは個々の文脈主義者の論文へ。まずはLewisから。かなり極端な外在主義的証拠主義と文脈主義の組み合わせ。Lewisって、やはり天才だよなーと思う。あと、知識は信念を含意しないって、やっぱり極端なこと言う。

6. Stewart Cohen (1988). “How to be a Fallibilist,” Philosophical Perspectives, Volume 2, 91-123.
7. --- (1998) “Contextualist Solutions to Epistemological Problems: Skepticism, Gettier, and the Lottery,” Australasian Journal of Philosophy, 76(2), 289-306.
8. --- (1999). “Contextualism, Skepticism, and The Structure of Reasons," Philosophical Perspectives 13: Epistemology: 57-89.
9. --- (2005), “Knowledge, Speaker, Subject," The Philosophical Quarterly, 55(219), 199-212.

次はCohen。内在主義的証拠主義と、文脈主義の組み合わせ。1998は、Lewisの文脈主義の批判を含むが、後でHellerに再批判されたり。1999は、立場を変えるが、かなり変なことになっちゃう。あるヴァージョンの懐疑論に対しては文脈主義はうまくいかないと敗北宣言して、でも懐疑論の否定を信じることはアプリオリに合理的だ、とむちゃくちゃなこと言う。2005はHawthorneの立場の検討と、文脈主義の擁護。

10. Keith DeRose (1992). “Contextualism and Knowledge Attributions,” Philosophy and Phenomenological Research 52(4), 913-929.
11. --- (1995). “Solving the Skeptical Problem," The Philosophical Review 104(1), 1-52.
12. --- (1999). “Contextualism: An Explanation and Defense,” in The Blackwell Guide to Epistemology, J. Greco and E. Sosa, eds., Malden MA, 185-203.
13. --- (2002). “Assertion, Knowledge and Context," The Philosophical Review, 111(2): 167-203.
14. --- (2004a). "The Problem with Subject-Sensitive Invariantism," Philosophy and Phenomenological Research 68 (2), 346-350.
15. --- (2004b), “Sosa, Safety, Sensitivity, and Skeptical Hypotheses,” in Greco, ed., Ernest Sosa and His Critics. Cambridge, MA: Blackwell, 22-41.
16. --- (2005) "The Ordinary Language Basis for Contextualism, and the New Invariantism," Philosophical Quarterly 55 (219), 172–198.

文脈主義最大の擁護者DeRose登場。最初の2つは、まあ古典なので、読むしかない。2004aと2005は、主体鋭敏性不変主義の批判だが、今はこんな単純にいかないと思っている。2004bは、1995を読んで、DeRoseの立場って、NozickのSensitivityと文脈主義の組み合わせでしょと、誤解!している人にこそ読んで貰いたい。この誤解は、Hawthorneもしているので、彼の本のDeRoseの箇所は、気をつけて読む必要がある。

17. --- (2009). The Case for Contextualism. Oxford University Press.

懐疑論に関するもの以外のDeRoseの論文は、この本でかなり修正された上でまとめられた。だからまあ1995と2004b以外は、この本読めば必要ない。でもまあ、彼の立場の発展を押さえたい人は、上の論文もどうぞ。

18. Matthew McGrath & Jeremy Fantl (2009a). Knowledge in an Uncertain World. Oxford University Press.

主体鋭敏性不変主義の提唱者、McGrath & Fantlが、満を侍して登場。彼らの議論は、めちゃくちゃ細かいので読みにくいかもしれないが、収穫は大きいはず。正直文脈主義関係の論者では、一番考えていると思う。あと彼らの主体鋭敏性不変主義は懐疑論に対しては有効でないと認めている。Stanleyは、この辺簡単に考えすぎてる。Hawthorneのヴァージョンは懐疑論にまだ対処できる。何故そうなるのかが理解できれば、かなりの上級者。

19. --- (2002). "Evidence, Pragmatics, and Justification," Philosophical Review 111 (1), 67-94.
20. --- (2009b). "Critical Study of John Hawthorne's Knowledge and Lotteries and Jason Stanley's Knowledge and Practical Interests," Noûs 43 (1), 178-192.

2002は、彼らの最初の論文。一部の隙もなく組み上げられた論証に感動する。ただあまりに細かいので、後の論文、本では繰り返していない。でも、主体鋭敏性不変主義をたたきたいなら、この論証を批判する必要がある。今まで出てきた批判の試みには2009aの本で答えている。2009bの論文は、Hawthorne、Stanleyの立場との違いを知るために。

文脈主義と不変主義の論争はこれにつきるわけではないが、まあ基本文献ということで。これらを読めば分かるが、文脈主義や主体鋭敏性不変主義の話は、どんどん懐疑論とは無関係になってきている。僕自身がかつてやったのも含めて、日本で書かれたり、発表された文脈主義関係の話は、懐疑論にちょっとこだわりすぎていたと思う。

これけっこう書くの面白かった。好評なら、またやります。文脈主義は、ここに載せたもの以外に、ほんとにいろんなヴァージョンがあるので。
posted by hakutaku at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

書評(4)

13. この論文の問題点は、文脈主義に関連する以下の3つの論点を同時に扱おうとしたところにある。

  a. 「知る」についての文脈主義が正しいのか、不変主義が正しいのか?
  b. 文脈主義による懐疑論への反論は十分なものか?
  c. 主張の知識説は正しいか?

これらは、それぞれ独立の論文のテーマになるぐらいの問題なので、最初から一緒に扱うのは無理がある。また文脈主義の論点を著者はごっちゃにしているが、例えばcがだめだからといって、文脈主義の否定や、不変主義の肯定がすぐに導けるわけではない。同様に、bがだめでも、文脈主義は生き残ることができる。文脈主義に直接関わるのは、aだけである。

14. それ故、著者の3つの結論が出てくるようには思えない。まず、3つの結論とは、

(1)DeRoseは、不変主義に対する文脈主義の優位を決定的に確立できていない。
(2)WAM(Warranted Assertability Maneuver)の、文脈主義は真理条件と主張可能性を取り間違えているという批判はまだ有効である。これが正しければ、文脈主義の懐疑論論駁はアドホックなものになる。
(3)古典的不変主義はまだ知識論の有力なパラダイムである。そして、古典的不変主義には、知識の適切な定義を与えることと、懐疑論に対処するという問題が残っている。

である。無数の問題があるが、最大の問題は、ここでの「古典的不変主義」、「不変主義」は、穏健な不変主義を指すとしか解釈できないことだ(p. 81で両者を同じ意味で使うと明言している)。どうも、古典的不変主義という語と懐疑論的不変主義という語が、同じ意味で使われたり、そうでなかったりして、意味が安定していない。なぜそうとしか解釈できないかというと、(2)で書かれているWAMの支持者は皆、穏健な不変主義を受け入れているし、(3)で言われている古典的不変主義は、懐疑論と対立する立場でなければおかしいので、やはり穏健な不変主義としか見なせないからである。とすると、先の二つめの批判、著者の言うところの(実はそうではないが)DeRoseは懐疑論的不変主義に対する答えになっていないという批判は、いったいどう結論に関係しているのだろうか。それが懐疑論的不変主義に対するDeRoseの反論を無効にするというのが、意図されている結論にならなけらばいけないが、懐疑論的不変主義と穏健な不変主義は全く違う立場である。どう考えてもここでの(2),(3)に関係がない(さらに、穏健な不変主義にとっても、懐疑論的不変主義は問題である)。以下、全く理解不能だが、古典的不変主義が穏健な不変主義と同一であるとして話を進める(皮肉にもこの同一性自体は、正しいものである)。なお、そうすると最初に言われた論文の目的、アンガー流の不変主義、著者の定義では、懐疑論的不変主義が今なお有力な選択肢であると示す、と、ここの結論が全く違うということは言うまでもない。

(1)は、まずミスリーデングだ。著者の最初の批判が正しいと仮定しても、ここで出てくるのは、DeRoseの主張の知識説から文脈主義を導く論証には問題がある、というだけである。DeRoseの他の不変主義批判には全く言及されていない。さらに言うとHawthorneの本を読めば分かるように、文脈主義と様々な不変主義の論争は、どれかがどれかを決定的に反証するとかそうういうたぐいのものではなく、それぞれの長所、短所を比較して総合的にけりがつくであろう、というようなものである。

[追記]ここで(1)と同じ立場を支持する論文として、Blackson(2004), Brown(2006), Weiner(2005)が言及される。これまた非常におかしい。何故ならまず、Weinerの論文は、主張の知識説を攻撃しているだけで、不変主義どうこうという話にコミットしないと明言されている。Brown(2006)は、DeRoseの論証が、主体鋭敏性不変主義と両立可能であると言いつつも、穏健な不変主義を擁護する。さらにまた、Blackson(2004)が参考文献に載っておらず、まるで関係ないBlack(1952)というのが載っている(どこかからコピペするときに間違えたのかな?)。これは、"An Invalid Argument for Contextualism," Philosophy and Phenomenological Research 68, 344-345 のことである。この論文もまた、DeRoseの議論は、主体鋭敏性不変主義と両立可能というものである。これらのうちで、Brownしか穏健な不変主義の話をしていないので、これ以外の論文と同じ立場とするのは、完全に誤りである。これら全てに共通するのはやはりDeRoseの論証は誤りか、不完全であるという論点で、上に書いたように、これこそ著者が言うべきことである。自分の主張を、必要以上に強いものとして書くのは良くない。

[追記2]今気付いたが、p. 79に(Black, 2006, Chap.7と参照がある。Black(1952)というのは、これを書くつもりで、コピペし間違えたのだろう。Black, 2006というのは、internet encyclopedia of philosophyの文脈主義の項のことで間違いない。本でもないのにChapはないだろう…。しかし、「7」で書いたように、何故Yourgrauの論文が挙がっているのに、この論文を有名にしたDeRoseの論文への言及がないのかと不思議だったが、このBlackのサーヴェイしか読んでないからだろうな、とようやく得心した。確信を持って言えるが、著者は参考文献に挙がっている論文の半分も読んでいないだろう。

著者は不変主義を擁護する議論は何もしていないので、不変主義の文脈主義に対する優位を何も(決定的どころかわずかでも)確立できていない。著者は、一方の立場を支持する論証が失敗することが、他の立場を支持する議論になると誤って想定している。この想定なしには、(2)が導かれるかも怪しいし、著者の主張が、どう(2)の点で文脈主義にマイナスになるのか分からない。というのも、WAMを使う穏健な不変主義は、真理条件と主張可能性が異なるのはどうして可能なのかを説得的に説明し、かつ何故我々がある場面で両者を混同してしまうのかのメカニズムを示さなければならないという、論証責任のハードルがかなり高い立場だからである。これらが示されなければ、文脈主義の対懐疑論戦略がアドホックだとは言えない(むしろ、なんでそんなメカニズムを懐疑論反論のためだけに想定しないといけないのかということで、こちらがアドホックになる)。さらに、(3)もまた、ここでの著者の議論からは全く出てこない。不変主義の批判は、DeRose以外にもHawthorneなどいろいろあり、(3)を言いたいなら、それらを論駁する必要がある。さらに言っておくと、穏健な不変主義は、懐疑論が誤りだということを含意するので、懐疑論の問題はトリビアルに解決されている。知識とは何かという問題は、文脈主義、穏健な不変主義、懐疑論的不変主義に等しく問題であるが、これは単にこの問題が、文脈主義対不変主義という意味論的問題と独立である、ということに過ぎない。

[追記]やはり著者の混乱の根は、懐疑論的不変主義と穏健な不変主義は区別され、本人も区別しているにもかかわらず、両者を古典的不変主義と同一視していることである。なので、前者への批判を後者への批判としてとったり、後者への擁護が前者の擁護にもなるとといったような受け取り方をしていて、この論文全体の論旨が意味不明になっている。率直に言って、著者が参照している文献の多くをまともに読んでいないか、読めていないとしか思えない。文献上の議論が、どういう立場をどのようにして擁護、批判しているのかという点の理解ができなければ、哲学論文を読んだ、あるいは参照したとは言えない。

15. 最後にこの論文の意義。今まで書いてきたようにかなり問題があるというか、決定的な事実誤認や、著者の論証が理解不可能といった、致命的すぎる欠陥がある。それでも、まがりなりにも主張の知識説やWAM、またShifferのSemantic Blindnessに対する批判などを日本語で紹介したことは、意義がある。これらは皆、今の認識論でいろいろ議論されているので、多くの人にこれらを知って貰う機会を作ったことは大きいと思う。

16.DeRoseは2009年に出した本で、この論文で言及されているような彼の主張の知識説から文脈主義への論証に対する批判になんとか答えようとしているので、興味のある人は是非参照してください。
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書評(3)

10. p. 81でようやく文脈主義の解説が終わり、著者による二つの批判が始まる。その一つ目は、DeRoseが文脈主義を導くために使う「主張のの知識説」を、反例によって誤りだと示すというものである。主張の知識説はp. 81でまず、「ある文Pが主張可能なのはそれを知っている場合のみである」と定式化される。この定式化も簡略化しすぎていて、やや問題があるのだが、さらに問題なのは、このすぐ下で、「知識の主張説」が「任意の文脈Xにおいて、Pが(個人Sにとって)文脈Xで主張可能であるのは、SがPを文脈Xで知っている場合かつその場合のみである」と定式化され直すことである。前者の定式化は、単に条件文であるのに、後者は双条件文であり、まったく違う(後者はさらに、文脈への知識帰属の真理条件の相対化を含める、メタ言語的な定式化を本来意図しているものである。まあDeRoseの2002はこの点にあまり自覚的でないのだが、筆者がこの論文で挙げているいろいろな参考文献で指摘されているので、ちゃんと読めば分かると思う。何故DeRoseがメタ言語ヴァージョンを必要とするかを、註5を読む限り、著者はまったく理解できておらず、意味不明な説明を与えているので、文献をきちんと読んでいないという疑いが強まる)。DeRoseは2002年の論文で、前者から後者を導くためにいろいろ議論をしているので、説明なしにこの移行を行うのは、不適切だし、混乱を招く。また著者がどこまで分かっているのか判定できないが、Williamsonは、非メタ言語の条件文ヴァージョンしか主張していない。

11. 次に、主張の知識説の反例が来る。しかし、著者が挙げる例はすべて、条件文ヴァージョンへの反例であり、それなら双条件文ヴァージョンを挙げなくても良かったのではないかと思う。というか双条件文ヴァージョンはメタ言語によって定式化されている(はずのもの)ので、これが文脈主義と組み合わされたなら、発話者の観点と、それの聞き手の観点を区別して、どちらの観点から見て発話が適切か、不適切かという議論が不可欠である。何故文脈主義がメタ言語による定式化を必要とするかという点が全然理解できていないので、ここでの議論はかなり不十分である。一応、条件文ヴァージョンに対する議論として、以下進める。

その前に、p. 82のDeRoseの論証の再構築は、まったくポイントが捉えられていない、というのも決定的な前提が書かれていないからである。それは、「文脈1と文脈2でSのepistemic positionが変わらない」という前提である。この前提がなければ、DeRoseの他の前提は全く不変主義と整合的であり、その否定である文脈主義、すなわちDeRoseの意図する結論はでてこない。上の問題にしてもそうだが、どうも著者はDeRoseの論証がどういうものなのかを全く理解していないと思われて仕方がない。

さて、著者は、反例によってWilliamsonの立場が問題があると示されたと結論するが、正直ここで書かれたような反例は、Williamson自身が、自分の立場の説明の際に対処できるとしてしているようなものばかりで、どう批判になっているのか分からない。また、Williamsonがやっているような、主張の適切さを分類し、ある主張がどういう意味で適切で、どういう意味で不適切なのかという議論をせず、この例は、ある文が(適切に)主張可能だが、Sがその内容を知らない例であると、単純に述べているだけなので、反例になっているかどうかが怪しい。Williamsonを知らない人には、Williamsonの議論がむちゃくちゃ単純なものだと思われる可能性もあって、かなりアンフェアな記述である。知識と主張の関係はホットトピックなので、まあもっとつっこんだ議論なしでは、何も言えない。

[追記]さらに言うと、ここで著者は「主張の確率説」と「主張の真理説」を併記し、両者が主張の知識説への反論を生み出すと書いているが、これら二つの説のうち、前者は後者が誤りであることを含意する。だから、必ずしも反例が数多くあるということにならない。さらに、筆者はここで知識を確実性と同一視して、だから主張の知識説は問題だと論じているが、これはちょっと意味が分からない。Williamsonは確かに、知識にevidential probability 1 を要求するという点で、この意味で不可謬論者とか、知識に確実性を要求しているとしばしば言われる。注意しなければいけないのは、彼はこのevidential probabilityが最大値をとることと、デカルト的確実性と同一視していないということである。さらに、DeRoseはいかなる意味でも知識に確実性を要求しない。なので、ここの批判は、何を批判しているのか明確ではない。

12. 二つめの批判は、かなり分かりにくいのだが、善意の原理を最大限に活用して解釈すると、以下のようなものである。不変主義者は、「ある文が主張可能かどうかは文脈によりかわる」(p. 83)ことを認める。すると、主張の知識説によって、ある文脈では、ある人Xの知識帰属文 ’S knows p’ が主張可能であり、それ故、この文脈では、この文(の内容)をXが知っている、すなわち、’X knows that S knows that p’が真である。’know’ のfactivityにより、’X knows that S knows that p’ は ’S knows that p’ を含意するので、’S knows that p’ が、この文脈で真であることが帰結する。すなわち、(この文脈での)懐疑論の否定が帰結する。これを認めない懐疑論的不変主義者は、何故、'X knows that S knows that p’が真なのかと問うだろう。この問いへの答えは、また知識の帰属説を用いて、この文が主張可能であるというものになるだろうから、無限退行を引き起こす。

僕には、これがどういう批判なのか分からない。まず、著者はDeRoseが「不変主義者が、ある文の主張の適切さが文脈可変的であることを認める」と言っている際に、先の間違いから、この「不変主義者」を懐疑論的不変論者だとしているが、そうではなく、DeRoseが念頭に置いているのは穏健な不変主義者である。さらに、この点を保留したとしても、著者の論点は、よくわからない。一応著者の狙いは、DeRoseは懐疑論的不変論者の問いに、無限退行で応じるしかなく、答えになってない、というもののようだ。

まず、このケースで無限退行は起こらない。何故から、著者の議論の最後のステップ、「何故 'X knows that S knows that p' が真なのかという問いへの答えは、また知識の帰属説を用いて、この文が主張可能であるというものになる」は偽だからである。そもそも主張の知識説は、知識と主張の間にある概念的つながりを指摘しているだけで、何故pと知っているのかという問いへの答えが、pと主張可能だからであると主張していない。(双条件文ヴァージョンの主張の知識説を仮定したとして)この答えが可能であるためには、pと主張可能であるための条件が、pと知るための条件とは独立に入手可能だという条件、ないし、後者の条件が前者の条件から非循環的な形で定義できるという条件が満たされる必要がある。主張の知識説の支持者の誰もそんなことは言っていない。まあ、この点はかなりテクニカルなので、ちょっと置くとしても、普通に、何故Sがpと知っているのかと尋ねられる状況を考えてみればいい。当たり前だが、この問いの答えがどのようなものになるのかを探求するのが知識論である。例えば、証拠主義者なら、Sはpのための十分な証拠を持っているから、と答えるだろう。そして、この答えが何故Sがpと適切に主張可能なのかという問いへの答えにもなる。主張の知識説が言っているのは、こういうことであって、主張可能だということが、何故知っているかという問いへの答えになる、などというようなことではない。主張の知識説を、あたかも知識論の一立場であるかのように理解しているからこうなるのだと思う。やはり、DeRoseの2002やWilliamsonを理解できていないとしか思えない。なので、著者の想定するケースで無限退行が起きるというのは、的はずれ以外の何者でもない。

そもそも、著者の主張は、簡略化して、不必要なものをとれば以下のものになる(例えば2階の知識帰属から始めているのが不自然で、普通に1階のそれから始めてないのも理由がわからない)。ある文脈でSにとってPが主張可能である。すると、主張の知識説から「Sはpを知っている」はその文脈で真である。懐疑論的不変主義者は、あらゆる文脈で、「Sはpを知っている」は偽であるという立場である。なので、主張の知識説、懐疑論的不変主義、ある文脈でpが主張可能であると認めること、の3つは両立不可能である(ちなみにアンガーはこの3つを同時に受け入れて、この不整合にも気付いているが、ほとんど議論しないままで残念)。無限退行を持ち出すことは、むしろポイントを外している。何故なら、無限退行が起こるための条件、懐疑論的不変主義者が「何故Sはpを知っている」と問うのは、端的に「Sはpを知っている」を懐疑論的不変主義者が受け入れないからであり、何故受け入れないかというと、それはこの不変主義が含意する懐疑論と両立不可能だからである。p. 83で、著者が議論の前提として、不変論者によれば、'S knows p'の真理条件が満たされたと知ることができないと言っているのは、単にこのことを2階の知識に対して繰り返しているだけである(原文では、「完全に満たされたと確認することは不可能」とおかしな言い回しをしているが、不完全に満たされたとは確信できるのか?ここも寛容の原理を適用する)。それ故、ここの議論は単純に両立不可能性を指摘しているだけであり、無限退行まで話を進めることは、むしろ余分でしかない。そして上で述べたように、無限退行が起きるというのも誤った考えに基づいている。

この不整合は、もし主張可能性の意味を区別しないとすると、懐疑論的不変主義から矛盾が導かれるということになり、むしろ懐疑論的不変主義への帰謬法的批判ともとることができる。というか、まさに主張の知識説は文脈主義を含意し、それが懐疑論的不変主義(懐疑論)の誤りを含意する、というのがDeRoseの反懐疑論戦略そのものである。本当に何故、これが懐疑論的不変主義の擁護になるのか分からない。著者は自分が何を言っているのかを見失っている。著者がここで言及しているLeiteが主張するように、この不整合を懐疑論者が回避するのは容易くて、主張の知識説が用いる「主張可能性」と、懐疑論者の認める「主張可能性」とは意味が違うとすれば良い。そして、確かにこの点が説得的に論じられたなら、DeRoseの論証は失敗する。しかし著者はこの点に言及せず、自分の議論はLeiteと同じく、DeRoseが懐疑論的不変論者の問いに答えられないと指摘するとし、それがDeRoseの批判から懐疑論的不変主義を擁護するものと見なしている。Leiteが擁護しようとしているのは穏健な不変主義だし、著者の議論は主張可能性の意味の違いに言及していないので、当然同一の議論ではない。Leiteの読みの問題を保留したとしても(Leiteは穏健な不変主義と懐疑論的不変主義を区別し、両者が認めうる「主張可能性」の意味も区別する。著者はこれらの区別ができていないので、かなり誤読していると思う)、本当に何故、これが懐疑論的不変主義の擁護とそもそも見なせるのかが分からない。また、善意の原理を最大限に使って、DeRoseの反懐疑論戦略のModus Tollensをとって、懐疑論的不変主義から主張の知識説の否定を導くことができるというのが、著者のポイントかもしれない。しかし、これこそまさにDeRoseが主張の知識説を独立的に論証しようとする理由そのものであり、そもそも著者の最初の批判は、この論理的関係なしに成立しない。なので、この第二の批判は、DeRoseがModus Ponensとして表現する論理関係を、Modus Tollensとして表現しただけであり、付け加えるべき内容は何ら存在しない(不必要かつ誤った無限退行の部分を除けば)。だからこの論文には実のところ、DeRoseに対する批判は一つしか存在しない。というか、むしろこの第二の批判のせいで、DeRoseの論証が理解できているのかという、先の疑念がさらに強化される。

ここでのミスの大本の原因はおそらく、主張可能性と真理条件を分けることで通常の知識帰属の真理性を懐疑論に対して擁護しようとする通常のWAMと、Leiteが懐疑論者として扱うStroud、Ungerが示唆している、懐疑論の真理性を日常の知識帰属の見かけ上の真理性に対して擁護しようとするヴァージョンのWAMとを区別できていないことである。前者は穏健な不変主義、後者は懐疑論的不変主義にであるが、著者はこの二つの不変主義の区別がごっちゃになっているので、二つのWAMもごっちゃになっている。DeRoseの2002の論文は後者に反論しようというものではないし、WAMの支持者が、DeRoseを批判するのも、後者を支持したいからではない。この辺の立場の整理がうまくいっていないので、めちゃくちゃになっているのだと思う。
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書評(2)

5. p. 75で、この論文の目的が、アンガー流の不変主義が今なお有力な選択肢であると示すことである、と設定される。これに続いて、文脈主義と不変主義の争点は、主に

A 懐疑論に対する解決力
B 知識論としての自然さ

だと述べられる。僕はこの2点が争点だとは全く思わないが、それ以上に、この2つは何を言いたいのか分からない。まず、アンガー流の不変主義というのは、懐疑論を含意する立場であり、そもそも懐疑論を解決できないという立場である。だから何故Aが問題になるのか分からない。次に、文脈主義と不変主義は、「知る」の意味論的内容が文脈依存的かどうかという点に関する、意味論的立場であって、その意味論的内容とは何かという問いに答えるものではない。後者に対して、知識ないし知識概念の分析によって答えを与えようとする認識論の一分野が、知識論と通常呼ばれるものなので、何故Bが問題になるのか分からない。

[追記]このBを著者は最近のDeRoseが重視しているとp. 78で述べ、DeRose 2002, 2005への指示がある。この2005年の論文は、参考文献に何故か載っていないが、"The Ordinary Language Basis for Contextualism, and the New Invariantism," The Philosophical Quarterly 55, 172-198 である。この論文を読み返したが、DeRoseの言う自然さとは、我々が様々なケースでの知識帰属に対して持つ直観をいかに自然に説明できるか、という観点である。確かにこの観点は、知識論の構築にも重要だが、DeRoseは主体鋭敏性不変主義との対立でこの観点に言及しており、やはりこれを知識論としての自然さとは読めない。

6. p. 78によると、Bは、我々が通常行っている「知る」の用法をどれだけ忠実に表現しているかに関わるとされる。この「知る」の用法というのは、語用論的な使用に関わるのか、使用の際に、知識帰属の意味論的内容を決定する意味論的メカニズムに関わるのか、意味論的内容そのものに関わるのか曖昧である。なので、筆者がBで何を意味しているか、不明である。

[追記]DeRose(2005)によると、これは知識帰属に関する我々の直観のことである、やはりこれを「用法」と記述するのは不正確である。

7. p. 79で、文脈主義の問題点として、Yourgrauの意見が言及されているが、これはDeRoseが1996年の論文で、すでに答えている(ただし、DeRoseのこの論文を著者は参照していないので、知らなかった可能性もある)。また正確に言うと、Yourgrauの意見は、relevant alternatives theoryに向けてのもので、文脈主義に直接向けられたものではない。

8. p. 80から、この論文は意味不明度が格段に上がる。まず、ここ著者が説明し始める立場(通常、Warranted Assertability Maneuver、略してWAMと呼ばれる)は、穏健な不変主義のヴァージョンである。ところが、p. 81で、「「古典的不変主義」――(中略)アンガーが最初に述べ、ここまで説明してきた立場(アンガー流不変主義)――(中略)を文脈主義に対する真の脅威」とDeRoseが認める、と書かれる。まず、古典的不変主義とは何なのか不明である。通常この語は、穏健な不変主義を指すと思うのだが、ここではそれがアンガー流の懐疑論的不変主義と同一視されている(まあ、これは単に操作的定義だと考えればいいのだが、それだと、何故ここでわざわざ今まで使っていたものに加え、同じ意味の新たな語を導入する必要があるのか分からない)。3で述べたように、DeRoseは懐疑論的不変主義を脅威だとは認めず、彼の言う古典的不変主義とは、穏健な不変主義を指す。

(追記)著者が不変主義をどう捉えているかが不明確で、混乱させられたが、おそらく細かい立場の区分がそもそも出来ていないのだと思う。僕の印象では、明らかにそれ由来の区分を使っているのに、Hawthorneの本をきちんと読んでおらず、二つの不変主義の違いが理解できていないのだと思う。

9.著者が何故こうも勘違いしているのかを註3,4を手がかりに考えると、おそらく以下のような推論をたどったのだと思う。

古典的不変主義」は、不変主義の初期の代表者が支持した立場に違いない。不変主義は、アンガーによって最初に明確に定式化された。だから、アンガーの不変主義は、古典的不変主義である(アンガー流不変主義=古典的不変主義)。アンガーの立場は、懐疑論的不変主義である。だから、アンガー流不変主義=古典的不変主義=懐疑論的不変主義が成立する。

最初のステップが誤りで、古典的不変主義という名称は、文脈主義登場以前に懐疑論を批判した哲学者たち(80年代までの分析系認識論者も含む)が暗黙裏にコミットしている不変主義を指すものとして使われる。そして、この立場はアンガーの懐疑論的不変主義ではない。DeRoseが、この立場を古典的と呼ぶのは、直接的には、このヴァージョンの不変主義を、近年台頭してきた主体鋭敏性不変主義と区別するために、古い方を「古典的」と呼んでいるだけである。

さらに、註3の文脈主義の歴史には、誤りがある。「初期の文脈主義はこれに対抗して登場した(Lewis (1979)がその代表)」とあるが、このLewisの論文では、Epistemic Modalの文脈主義的取り扱いが提唱されているだけで、Lewis (1996)に見られるような「知識」の文脈主義や、懐疑論の話は全くされていない。この註は、DeRoseの書いたものをほぼ訳しているだけなのに、著者が付け加えた部分は誤っている。

註4でも、DeRoseが「主体敏感的不変主義が正しいということはありえない」と言ったかのような書き方がされているが、これも事実誤認。
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書評(1)

書評 「「知る」は指標詞か」、神山和好(科学哲学42-2, 2009, p. 75-87)

本日は書評をしたいと思う。このブログでは、日本ではまだあまり知られていない分析的認識論の立場や、日本で誤解している人がいると思われるような微妙な点を解説してきた。この書評は、この試みの延長である。この論文は日本では珍しい意味論的文脈主義についてものであるし、文脈主義を知りたい人の多くが参考にすると思う。しかし、この論文には、僕が思うに、構成、内容にいろいろ問題がある。構成上の問題はともかく、基本的な事実の誤認などはちょっと看過することができないので、以下で幾つか誤りやミスリーディングな箇所を指摘する。

1. 題名がミスリーディング。まず、事実上全ての文脈主義者が「知る」が指標詞だとは考えていない。彼らは、「知る」の文脈依存性を、指標詞性(indexicality)か、段階的形容詞(gradable adjectives)の持つ意味論的性質、すなわち、段階性(gradability、またrelativityとも呼ばれる)に類比的に考えようとする。しかし、指標詞性はDeRoseが初期にほのめかし程度に触れただけで、現在の彼は、他の文脈主義者と同じく、「知る」の意味論を段階性をモデルに考えている。

2. それ故、「「知る」は指標詞の一つだとみるのが文脈主義であり、それを否定するのが不変主義」(p. 75)というのはかなり問題がある。ここで著者は、文脈依存性と指標詞性を同一視するという誤りを犯している。この箇所の前でやっている、知識帰属文の意味が文脈によって変わるという立場が文脈主義で、それを否定するのが不変主義という特徴付けは正確なものであるが、この二つの特徴付けは同一ではない。

3. p. 75で不変主義にも幾つか種類があるとした上で、Ungerのものを「アンガー流不変主義」と呼び、これはp. 76で「懐疑論的不変主義」と同一視される(ここで著者は、Hawthorneの懐疑論的不変主義(skeptical invariantism)と穏健な不変主義(moderate invariantism)の区別を念頭に置いている)。だとすると、「文脈主義はアンガー流不変主義の批判者としてあらわれた」(p. 76)というのは、事実誤認でしかない。文脈主義は最初から、アンガー流であれ、より穏健な立場であれ、不変主義に対する批判である。

4. さらにp. 75で、DeRoseがアンガー流の不変主義をまだ、文脈主義に対する最大の脅威だとしている、と述べられる。これはDeRoseの2004年の論文を念頭に置いて書かれたと思うが、そうだとすると、これも単純に間違いで、DeRoseが文脈主義のライバルと見なしているのは穏健な不変主義であって、著者の言うアンガー流の不変主義=懐疑論的不変主義ではない。そして、彼の今(2009)の立場は、主体鋭敏性不変主義(subject-sensitive invariantism)を、穏健な不変主義と同等ないしそれ以上のライバルとする、というものである(ただし、この論文はDeRoseの2009年の本より先に書かれたと思うので、この点は仕方ない)。
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2010年01月03日

学会:実験哲学と実験経済学

皆さん、新年明けまして、おめでとうございます。今日は学会の開催のお知らせをしたいと思います。

実験哲学は、近年英米圏で拡大している哲学運動ですが、まだ世界にも例を見ない実験哲学と実験経済学共同の国際学会が、3月27,8日に京都産業大学で開催されます。京都産業大学の小田先生の作成された学会の概要並びに発表募集要項を、以下に転載します。この学会には僕もわずかながら協力していますので、多くの人が参加してくれると嬉しいです。

京都産業大学は,今年3月27-28日に,実験経済学と実験哲学の国際会議

How and why economists and philosophers do experiments: dialogue between experimental economics and experimental philosophy

を京都産業大学で開催いたします.

年度末で御忙しいときでしょうが,ご参加いただければ幸いです.

招待講演者は,会議のサイト:

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/project/orc/execo/conf2010/index2010.html

にある通りです.Ido Erev,Urs Fischbacherは実験経済学にかぎらず心理学や脳科学の領域でも成果を次々にあげている有力な研究者で,Shu-Heng Chenは計算機経済学の指導者のひとりです.Stephen Stichは実験哲学の創始者(代表作は日本語で読めます),James BeebeはExpereminetal Epistemology Research Groupの主催者であり、倫理学で行われていた有名な実験を応用した実験を認識論で行うなど、実験哲学の哲学内部での応用の可能性を広げている研究者,笠木氏は,実験哲学を研究している日本の数少ない研究者のひとりです.

実験哲学とは何だろうかと訝しく思われる方もいらっしゃると思いますが,英語圏で近年注目されている哲学運動です.以下に笠木氏による紹介文を掲載します(英文は上記サイトにあります).

実験哲学とは、近年英米圏で急速に注目を集めている新たな哲学的運動を指す。様々な立場が実験哲学と呼ばれているが、それらに共通するのは、哲学的なケースに関するわれわれの直観的判断を実験心理学的手法を用いて分析するということである(また、直観プロセスについてのfMRI測定に基づく研究も含まれる)。伝統的哲学の方法論は、直観を所与と見なし、哲学的理論を構築するための、またそれを裏付けるための証拠として用いる、というものだった。しかしながら、こうした直観がどのようなメカニズムで生じるのか、またどのようなファクターが直観に影響を与えるのかという点に関して、従来十分な研究がなされてきたとは言い難い。こうしたメカニズムの解明に対して、実験心理学の手法は大きな成果を挙げると考えられている。しかしながら、実験哲学の成果が伝統的哲学に関してどのような重要性を持つのかということについては、哲学者一般、ましてや実験哲学者の内部でさえ合意が存在せず、活発な議論が現在行われている最中である。ある立場は、非哲学者の直観が哲学者のそれとは異なるという実験結果を受けて、直観の無制約の使用に依拠する伝統的哲学の方法論を批判する。他方、実験哲学の成果を伝統的哲学に対する重要な貢献と捉え、両者を共に発展させようとする立場もある。したがって、実験哲学は、単に直観に関する心理学的解明という経験的意義に留まらず、哲学の方法論の再検討を促すという点で、大きな哲学的意義をもつ運動である。

実験経済学も,半世紀あまりの歴史を経て経済研究の一方法として確立するとともに,脳活動計測実験や野外実験など新しい方法の導入と様々な科学との交流が深まっています.哲学との交流は日本ではまだ盛んではないように思われますが,Stich教授が「Danny Kahneman, who shared the Nobel Prize with Vernon Smith, has been a friend for decades」と言うように,関心と方法で重なりあい,互いに学べることが多いと思います.経済学,哲学,工学そのほかの分野のかたが気楽に集まって積極的に議論する会議になることを期待しています.

6名の招待講演のほか,一般報告のセッションも設けますので,希望者は1月末までに,概要(主要な参考文献の目録を含む,2頁以内のもの)を

exp-ksu2010@cc.kyoto-su.ac.jp

に御送りください.
実験経済学や実験哲学の発表はもちろん歓迎ですが,直接あるいは間接に会議の主題に関連するものなら分野を限定しません.
報告の可否と日程については,締切一週間後までに御伝えします.

会議の登録ページがまだできていませんので,参加希望のかたも上のアドレスにお名前と御所属と連絡先(メイルアドレス)を御送りください(この会議についての質問や意見も歓迎します).
会議の前後に実験哲学の入門セミナーなどを組織できるかもしれません.
新しい情報はサイトでそのつど更新されますので,ご面倒ですが参加希望のかたはときどきサイトをご確認ください.
posted by hakutaku at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 実験哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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