2009年12月25日

FactivityとInfallibilism

最近指導教官がある本の査読をしていたのだが、とにかくひどい、例えばfactivityとinfallibilityを区別していない、などとぼやいていた。そりゃあ、大昔の認識論みたいですねー、と返したのだが、この間違いは、今でもごくごくたまに見かけたりするので、ちょっと解説しておきたいと思う。

'know'という動詞は、'remember','see'などと同じくfactive verbと呼ばれる。factive verbとは(主語と)その動詞v+that節によって表現される命題が、そのthat節の表す命題を含意(entail)するような動詞である。すなわち、'S knows that p'(という文の表す命題は)は'p'(という文の表す命題)を含意する。具体的な時期は分からないが、30年くらい前までは、このfactivityといわゆるinfallibilismがあまり明確に区別されず、しばしば混同されていたような気がする。infallibilismとは何かというのはこれまた厄介な問題で、定式化が何種類もあり、それらは論理的に独立なので、ちょっとこの問題を棚上げしつつ、まずはこの混同が起きる推論を書いてみよう。

1.'S knows that p' entails 'p'.
2. Necessarily, if S knows that p, then p.
3. If S knows that p, then, necessarily p.
4. If S knows that p, then it is necessary that p.
5. If S knows that p, then it is impossible that p is false.

5から、もしSがpを知っているならば、pが偽であることは不可能である。すなわち、Sがpを知っていることと、pが誤りである可能性があることは両立不可能である。これは標準的なinfallibilismの定式化に一致する。それ故、factivityはinfallibilismを含意する。

まあ、この推論がinvalidであることは、言語哲学を少し学んだことがある人には明らかだろう。問題のあるステップは3で、ここで必然性オペレーターの位置、より適切にはスコープが変わっている。だから、この推論はよくあるscope fallacyないしscope confusionの一例である。infallibilismに対する論証は幾つかあるが、少なくともこのfactivityに基づくものは完全にだめだし、現代の認識論者が使うことは、まあまずない(先日紹介したFeldmanの本には、上の推論の誤りが解説されている。読んだときは、なんで今更こんなのを書くのだろうと思ったのだが、初学者は混同しやすいので良い配慮だと思う。)

ここ20年ぐらいの認識論は概念整理がだいぶ進んでいて、infallibilityにもいろいろな種類があるとされているし、infallibilityとincorrigibilityも区別される。もうすぐ"A Companion to Epistemology"が16年振りに改訂されるが、どれほど変わっているか楽しみだ。1版が出た1994年は、今の目から見ると大昔に思えるので、大幅に変わっているだろう(ただし、infallibilityとincorrigibilityは1版でも区別されている)。

ただ今年の認識論にあまり大きな動きはなかったかなー。DeRoseの本とFantl&McGrathの本が出て、文脈主義やSubject-Sensitive Invariantismが盛り上がるかと思ったけど、まだこれらの本の書評はDeRoseの本についてのものが一つ出ただけだし、本格的議論は来年以降になりそう。ただDeRoseの本は、個人的にはやや残念な出来だった。やはり文脈主義を支持する理論的根拠はだいぶなくなりつつある。Value Turnについての本もようやく論文集が出たが、ほとんどの論文がすでにネットで公開されていたので、あまり新味がなし。Williamsonの認識論についての論文集も出たけど、同じ理由であまり今年の本だという気がしない。

ああそうだ、文脈主義やsubject-sensitive invariantismがよく使うbank caseについての実験哲学がいくつか行われた。今後こういう研究はさらに増えるだろう。それから、倫理学の最近の動きとも連動して、理由の存在論とでも言うべき領域が開拓されつつある。今年目についた新しい動きはそれぐらいだなあ。来年の認識論はどうなるだろうか。今現在のネット上での動きを見る限り、これは新しいというような動きはなさそう。
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2009年12月22日

Propositional Justification と Doxastic Justification

ものすごーく久しぶりの更新。最近は博論執筆と非常勤が忙しすぎて、全然ブログを書く暇がなかったです。いろいろとネタはあるんだけど…。

最近日本語で書かれた認識論関連の文献をいくつか読む機会があったのですが、改めて翻訳って難しいよなーと思った。特に、

S is justified in believing p

を、「Sはpを信じる点で正当化されている」とか「Sはpを信じることが正当化されている」と訳すのは、かなりミスリーディングなのではないかと思う。僕の日本語の理解では(最近かなり怪しくなってきているが)、これらの文は共に、「Sがpを信じている」という文を含意する。しかし、'S is justified in beliving p'は'S believes p'を含意しない。英語そのものがそういう含意を持っていないし、また両者は、周知のように、古典的知識の定義の3つの条件のうちの2つであり、もしこの含意が成立するとすれば、'S believes p'が余分になってしまう。

また認識論では、propositional justificationとdoxastic justificationが区別され、前者が古典的定義のこの条件で捉えられているものである。すなわち、pという命題がSにとって正当化されているということと、Sの信念p(より正確には、Sがpと信じていること)が正当化されているということが区別される。この区別は非常に重要なので、先の翻訳の問題点は、この区別を見過ごしてしまうことにある。

もっと良い翻訳はないかなと考えてみたが、全然思い浮かばない。一般に、'S is justified in believing p'は'S has justification for believing p'と同義だとされているので、「Sはpと信じるための正当化を持っている」と訳すぐらいしか、解決が見当たらない。何かいい案をお持ちの方がいれば、ぜひ教えてもらいたい。

これは単に翻訳の問題だけではなく、日本ではこの区別がほとんど知られていないので、文献を読みながら、正当化という概念をやや誤解している人がいるという印象を受けた。

僕は今でも認識論の入門書をいろいろ読むのだが、この区別を説明してあるものとして、Richard FeldmanのEpistemologyという本がすごく良いと思う。とても薄い本だが、かゆい所に手がとどくというか、初学者や一部の専門家でさえ誤解しやすいところが、きちんと解説してある。ただし、propositional justificationとdoxastic justificationの区別をきちんとやろうとすると、いろいろややこしい問題が出てきて、未だにこれだというものは出ていない。



posted by hakutaku at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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