2008年08月27日

最近のあれこれ

またもや更新をさぼってしまった。勉強はしているのだが、あまり成果に結びつかず、こういうときはあまり他のことをする気分になれない。あとやはりこのブログを書くモチベーションが少し失われてきていると思う。

前の記事で書いた、Walter Sinnott-Armstrong, Moral Skepticisms, Oxford University Press, 2006、のメインとなる章はかなり前に読んでみた。うーん、これは文脈主義がどういう立場なのかを極めて曖昧にしたまま書いていて、相当に混乱を招くようなところが随所にある。この点に関しては、最近のPhilosophical Quarterlyでこの本の特集があり、そこでMartijin Blaauwがほとんど僕の言いたいことを代弁してくれている。一つ付け加えると、Sinnott-Armstrongはassertion contentとsemantic contentを分けるので、Blaauwがしている分類はさらに複雑になるだろう。認識論で前者に定位した文脈主義を展開している人は、僕の知る限りGilbert Harmanしかいないが。

作者の立場は、文脈主義でもなく、ピュロン主義懐疑論だということで、路線としては、Robert Fogelinの"Pyrrhonian Reflections on Knowledge and Justification"にかなり影響を受けている。この本は名著だと思うが、あまり議論されないのが残念。一つの問題は、この本はゲティア問題の文脈主義的な解決に半分近く費やされるのだが、Stewart Cohenがこの種のゲティア問題の解決に対して強力な批判を展開していることが広く知られているということにあると思う。あともう一つ僕が問題だと思うのは、ゲティア問題が生じる状況はFogelinの分析では、通常より高基準が適用される状況だということになるのだが、これはあまり自明ではない。Keith DeRoseとAnthony Bruecknerはこの点に関して昔論争をして、そうではないというDeRoseの見解の方が広く受け入れられている。ただし、僕はDeRoseが全面的に正しいと思っているわけではなく、これは実に微妙な問題だと思う。

Sinnott-Armstrongの本にせよ、Fogelinの本にせよ、文脈主義に近い立場を展開しつつ、最終的にはある問題の解決が提示できないことを理由に懐疑論に行き着く。ただどちらも提示される問題が、本当にそれほど深刻な問題なのか、ちょっと疑わしいところがある。まあ懐疑論というのは常にそういうものなのだが。

最近はJohn McDowellを勉強し直していた。彼の認識論の全体がどういうものなのか、今までよりもよく分かったと思う。どちらかというと本文より註に書かれているアイデアの方が面白かったりする。ただ認識論的に興味深いような部分は、Williamsonが同様の路線を精緻に展開させているので、あまりMcDowellに拘泥する必要はないという思いも強くなった。
posted by hakutaku at 16:42| Comment(0) | TrackBack(1) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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