2008年07月30日

道徳文脈主義

文脈主義というのは、近年の哲学でははやりの立場で、まあいろいろなところに現れる。特に顕著なのは、言語哲学と認識論だろう。言語哲学における文脈主義とは、ある語の意味は常に文脈に相対的であるというかなりラディカルな立場で、これに対する反論としては、Herman CappelenとErnest Leporeの"Insensitive Semantics" (2004, Blackwell)が有名で、今やいろいろ議論が行われている。思えばこの本は僕が3年前に日本で読んだ最後の哲学書だったなあ。この分野に関する知識は3年間であまり進歩していないので、忸怩たるものがある(もっともこのうちの二年は授業や進級試験などで忙しく、自分の趣味の本はあまり読めなかったのだが)。

また近年では道徳文脈主義(Moral Contextualism)というのも論じられる様になってきた。少なくとも3冊の本が倫理学における、文脈主義と呼ばれうる立場に関して書かれている。

Mark Timmons, Morality without Foundations: A Defense of Moral Contextualism, Oxford University Press, 1999.
Alan Thomas, Value and Context: The Nature of Moral and Political Knowledge, Oxford University Press, 2006.
Walter Sinnott-Armstrong, Moral Skepticisms, Oxford University Press, 2006.

Timmonsの本は昔斜め読みしたことがあるのだが、あまり覚えていない。ThomasのはMichael Williamsの文脈主義をベースにしていて興味深いのだが、まだきちんと読んでいない。Sinnott-Armstrongのは、文脈主義の1バージョンであるContrastivismを倫理に応用したもの。このContrastivismという立場は、認識論、科学哲学である程度広まりつつある。この本は近々じっくり読む予定。

この辺りも暇なときにきちんとフォローしておきたいのだが、なかなか時間がなくてできないなあ。誰か倫理に詳しい人がまとまった紹介をしてくれればいいのだが。


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2008年07月24日

知識の価値

今の認識論でホットなトピックというのは、僕が見る限り二つぐらいである。文脈主義とそのライバルたちの論争と、知識の価値というトピックである。教科書的な認識論の解説に出てくるような、内在主義/外在主義の対立、基礎付け主義/整合説の論争、自然化された認識論の意義など、やっている人もほそぼそといるが、さほど話題にはあがらない。ある程度盛り上がってるのは他には自己知に関する問題、Disjunctivismの認識論的含意といったところだろう。

知識の価値を巡る問題というのは、プラトンが最初に提唱したと言われている。要するに、我々は知識を価値のあるもの、それ故獲得する意義のあるものと想定しているが、その価値は何にあるのかという問いである。単に真なる信念を持つことと、知識を持つことを比較すると、我々は確かに知識を持つ方がより価値のあることだと考えている。この価値は何に由来するのだろうか。こうした問いを現代分析系認識論に持ち込み、いわゆるValue Turnを促したとされるのが、Duncan PritchardとJonathan Kvanvigの二人である。後者はこのテーマで本を書いており、なかなか話題になった。

さて僕の知る限り、この問いに関する答えはだいたい4種類ぐらいしかない。

1.知識は他の認知状態に比べてより安定している(Plato, Williamson)
2.知識は他の信念、行為を正当化する(Fantl&McGrath)
3.知識は間主観的な情報源である(Craig)
4.正当化された真なる信念に付け加わるような知識固有の価値はない(Kvanvig)

括弧内は代表的支持者を選んだだけで、他にもこれらの見解を支持している人は大勢いるし、彼らの間で細かい相違もある。

この問題は認識論の他の分野との連関でもさかんに論じられていて、徳認識論の論者は信頼性主義を知識固有の価値を説明できないとして攻撃している。プラトン以来忘れ去られていた問題が現代で再び盛んに論じられるというのは、なかなか痛快なことで、哲学の面白いところだなとつくづく思う。

ちなみに分析系認識論という語を僕は非常に狭い意味で使っている。英米圏で認識論と呼ばれる分野には、伝統的認識論、社会認識論、フェミニズム認識論、ベイズ認識論などがあるが、このうちの最初のものしか指示していない。なので、他の分野には、僕はよく知らないが、それぞれホットな話題があるだろう。

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2008年07月09日

Sensitivityにまつわる諸問題

ふう、最近論文を書いていたのだが、ようやく初稿ができあがったので、ひと休憩。ちょっと今日は、この前書いたまっとうな認識論のことでも書きたいと思う。知識ないし正当化の理論としては、まあいろいろあるわけだが、僕が一番個人的に好きなのは、ノージックのsensitivity条件と言われるものである。僕がこれが好きな理由は、これは外在主義的理論のうちで、唯一明確に、弁別能力に焦点を合わせたものだからだ。この辺はいつか論文を書きたいと思っているので、そのうちにまた詳しく書きたい。

さて、ノージックによれば、sensitivityとは、知識の必要条件であり、以下のように定式化される。

(Sensitivity) if p were false, S wouldn't believe that p.

Sensitivityにはよく知られた問題が、6つほどある。

1.Epistemic Closureの否定につながる。
2.この条件を満たしながらも、知識とは呼べないような例、すなわち反例がたくさんある。
3.類似した二つの命題で、一方は知っていて、他方は知らないという奇妙な事例を許してしまう。
4.必然的真理を取り扱うことができない。

僕自身はこれらの問題は大してクリティカルなものだと考えてはいない。まず1はDeRoseが示したように、sensitivityそのものはclosureと整合的に展開できる。2、3に関しても、細部をいじればまあクリアできないこともない。3はクリプキが80年代にやった講義で触れて、それは出版されてないのだが、なぜか皆知っている。この講義ノートを誰か持っていないかなあと思っているのだが、認識論者の知り合いが少ないので、まだ見つかっていない。4は、まあ可能世界を使う分析にはいつもついてまわる、例えば可能世界意味論にも同じ問題があることが知られている。だからこれはsensitivity特有の問題というわけではない。

結構決定的だなと思うのは、以下の二つである。

5.高階の信念をうまく扱えない。例えばS knows that S doesn't falsely believe that pが成立しているとする。このときSは当然sensitivityを満たすのでなければならない。しかし、

If it were false that S didn't falsely believe that p, S wouldn't believe it.

は必ず偽である。この条件文の前件が満たされるときは、Sがpを信じているときなので、当然後件は満たされない。といわけで、sensitivityはこの高階の信念をうまく扱えない。

6.S knows that pであるとき、S knows that p or qも真であるということは、トリビアルな条件さえ加えれば、疑いようもない。このことは以下のような、比較条件文からもわかる。

(a) If S knows that p, then S is in a position to know that p or q.
(b) If S knows that p or q, then S is in a position to know that p.

前件と後件の間で、Sのepistemic factor、standardrが同一であるとすると、(a)は真で、(b)は偽である。単純に言えば、これは、pを知るのは、p or qを知るよりも簡単だということである。しかし、sensitivityはこれを反映できない。何故なら、p or qを知るためには、

if it were false that p or q, that is, neither p nor q were true, S would believe neither p nor q.

が真でなければならず、pを知るためよりよりも、一つ条件が増えてしまう。すなわち、より難しくなってしまうのだ。

この5,6は、sensitivityのメカニズムそのものに由来する、かなり根深い問題である。5は確かSosaが最初に指摘して、6は誰だっただろうか。Jonathan Vogelだったかな。いやそれよりも前に誰かいたと思う。

5に関してはDeRoseとTim Blackがそれぞれの論文でなんとか乗り越えようと頑張っている。6に関しては、bite the bulletというか、Closureを否定するなら、そうなるよという論文しか見たことがないのだが、Closureを受け入れたい僕のような人にはあまり役に立たないなー。



posted by hakutaku at 05:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする