2015年02月28日

史上初の実験哲学者Arne Næss

Sorensen, Roy. (2014). "Novice Thought Experiments." In Anthony Robert Booth and Darrell P. Rowbottom (eds.), Intuitions. Oxford: Oxford University Press: 135-147.

を読んでいたら、史上最初の実験哲学者としてArne Næssという人物が紹介されていた。非常に面白いと思ったので、この人物について調べてみた。

ノルウェイ出身で、同国では非常に有名らしく、Wikipediaにも項目があるのだが、不勉強で今まで知らなかった(ただ、あとで書くように、知っていても良かったはずだと思う)。とりあえず、詳しくはそちらを見てもらうことにして、ここで重要な事はまず、1934-35年に17ヶ月間ウィーンに滞在し、論理実証主義者と親しくなり、Schlickの講義に出たり、後にAyarと論争したりした人であるということと統計もかなり勉強した人物であるということ。

Næssは"truth"について哲学者が「常識的には、…だ」という言い方を頻繁にし、しかもその内容が異なること問題だと考え、同時にそれを検証する方法を持たなかったことを哲学の方法論的欠陥だと考えた。そこで、12才から65才までの非哲学者300人に質問紙調査をして、1938年に“Truth” as Conceived by Those Who Are Not Professional Philosophersという本を出版する(一回の調査ではなく、いろいろ質問を変えたりしながら、何回もやったようだ)。この本は残念ながら入手困難だけど、そのサマリーとして同年に発表された"Common Sense and Truth"が彼の全集VIIIに収められている(また、他にも関連する実験哲学と見なしうる研究をしている)ので、読んでみた。

質問内容は全部書かれていないが、ほとんどの調査で、以下の様な質問をしたと書かれている。

Do you distinguish between something true and something absolutely true?
Is there anything absolutely true? Give some examples of absolutely true statements. (p. 15)

Næssはこの実験を通じて、'truth'とそれに似た表現について厳密に言えば500種類の異なる定義をえて、それをいろいろな基準で分類している。例えば、哲学者が提示してきた真理定義との類似性による分類では45のグループにこれらの定義は分類されている(ただし500のうち半分以上が単純に分類できず、複数のグループに属すると分類されている)。この分類で最大のグループ(500定義のうち57を含む)は、真理を証明可能ないし
証明されたもの、とするグループで、実在との対応(500定義のうち16を含む)とするグループよりも大きい。既存の真理論に見られる全ての定義(そしてそれ以上の定義)は、非哲学者の中に見いだせたとしている。全集VIIIに入っている他の論文に、一部のグループが若干詳しく書いてある(1981年に発表された"The Empirical Semantics of Key Terms, Phrases, and Sentences: Empirical Semantics Applied to Nonprofessional Language")。

Group 4: if truth is identified (in various senses) with a relation of
correspondence with facts or actual things.
Group 7: if truth is identified with facts or real things.
Group 8: if truth is identified with what is the case, what is so, what is as one says; or when a function of mere affirmation is described. Compare theanswers of person Bto the utterance ofA: A−It is raining, B−(1) Yes, it is raining, (2) It is raining, (3) That is so, (4) Yes (the “Tarski group”).
Group 9: if what is true is identified with something fixed and determined by man himself (“Truth as Convention”).
Group 11: if what is true is identified with what cannot be challenged, disproved, contradicted, or discussed or with what is indisputable.
Group 12: if what is true is identified with what is unchangeable or what cannot be otherwise. Central notion: changelessness (the “Parmenides group”).
Group 13: if what is true is identified with the relation of agreement or correspondence between something and observation.
Group 14: if what is true is identified with something unmistakable, with something that cannot be mistaken(the “Incorrigibility group”).
Group 15: if what is true is identified with that which cannot be doubted or with what is not actually doubted by anyone (the “Cartesian group”). (p. 63)

この実験結果は学会でも発表されたけど、自然言語は混乱しており、それをexplication(解明)するのが哲学だというCarnapらの考えが支配的だったので、あまりうけなかったらしい。しかし、Næssはこうした非経験的な意味論には終始反対して、自分の方法論を「経験的意味論」と呼び、いろいろ書いているし、後に日常言語学派と関連付けたりしている。

彼の実験はTarskiにも知られていたらしく、恥ずかしいことにいままで気づいていなかったのだが、Tarskiの1944年の記念碑的論文"The Semantic Conception of Truth: and the Foundations of Semantics," Philosophy and Phenomenological Research, 4 (3)でも言及されている。Næssも1981年の先の論文で、Tarskiの見解の中には経験的にテスト可能なものがまざっており、自分の実験はそれをテストしたともしている。

さて、TarskiがNæssの実験について何を言っているかというと、以下のとおり。

"I should like to emphasize that in my opinion such investigations must be conducted with the utmost care. Thus, if we ask a highschool boy, or even an adult intelligent man having no special philosophical training, whether he regards a sentence to be true if it agrees with reality, or if it designates an existing state of affairs, it may simply turn out that he does not understand the question...

Therefore, I was by no means surprised to learn (in a discussion devoted to these problems) that in a group of people who were questioned only 15% agreed that "true" means for them "agreeing with reality," while 90% agreed that a sentence such as "it is snowing" is true if, and only if, it is snowing. Thus, a great majority of these people seemed to reject the classical conception of truth in its "philosophical" formulation, while accepting the same conception when formulated in plain words..." (p. 360)

このの応答は、今日の実験哲学を巡る議論で言えばいわゆるexpertise defenseと言われるもので、訓練を受けていない非哲学者の意見よりも、専門的スキルを持つ哲学者の意見を重視すればよいというもの(かなり極端だけど)。

いや、90年近く前に、こんな統計の知識をしっかり持った哲学者がいて、実際に質問紙調査をやっていたこと、哲学のアプリオリ性や非哲学者の専門スキルの欠如を理由とする批判にあったことなどを全然知らなかったので、非常に驚いた。規模は違えど、現代の実験哲学を巡る議論と同じような状況がかつてあったのだ。興味深いのは、こういった企てが論理実証主義者の哲学の規範的性格、アプリオリ性への志向と相容れなかったことで、自然主義の歴史を考える上でも興味深い。
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2014年12月21日

2014年の認識論を振り返る

今年もまったくブログを更新しませんでした…。書きたいことはいろいろあるのですが、全然時間が空かないという状況です。今年は4月から京都大学所属の学振PDとして、学振課題のアプリオリ・アポステリオリな知識の研究と、同時に受給している科研(若手B)の民間心理学の研究を行っていました。国内外のあちこちの学会で発表を多くして、人生で一番忙しい1年だったかもしれません。

さて、そういうわけで今年の認識論の動向のフォローはちょっと十分でないのですが、毎年恒例の「今年の認識論」を振り返るです。今年は大きな動きとして特徴づけられるものがあまりないのですが、現代認識論の多様性を示すように、いろいろなテーマについての著作、論文集が出た年でした。

(1)徳認識論の進展
毎年のように書いていますが、やはり徳認識論ブームが続いています。今年目立った動きとしては、徳の自然化という方向で徳認識論を進展させようという方向です。

Abrol Fairweather & Owen Flanagan (eds.). (2014). Naturalizing Epistemic Virtue. Cambridge University Press.
Abrol Fairweather (ed.). (2014). Virtue Epistemology Naturalized: Bridges Between Virtue Epistemology and Philosophy of Science. Springer.

まあ、どちらもAbrol Fairweatherが編者に入っているので、これを徳認識論の「動き」と呼んで良いか分かりませんが、徳の自然化は、徳認識論だけでなく徳倫理学でもずっと話題になっているテーマです。ただどちらかというと、心理学的な実験成果が、徳認識論、徳倫理学の基本的な想定とうまく整合しないという批判的な研究が多いです。そうした批判を受けて徳認識論はどうなるのか、どうすべきかという本はこれ。

Mark Alfano. (2014). Character as Moral Fiction. Cambridge University Press.

徳認識論と徳倫理の関係を知るには、その両者を研究している以下の研究者の「徳」一般についての入門書が参考になるかもしれません。

Heather Battaly. (2014). Virtue. Polity Press.

(2)認識的規範の研究
21世紀の認識論で盛んに論じられるテーマの一つは、知識が信念、断言、行為などの規範でありうるか、そうでなければ、何がそうした規範なのかというものです(ただし、信念の認識論規範の問題は、The ethics of beliefという問題に組み込まれることが多く、この問題自体は古い)。例えば、信念が断言の規範であるということは、「pと知らなければ、pと断言することは(認識的に)許容されない」ということであり、知らずにpと断言してしまう人は、プラグマティック、その他の観点からその断言が許容されても、認識的観点からは非難に値するということになります。

これらのテーマは、今までかなり論じられてきたのですが、雑誌論文が多くて、論文集という形ではまとまっていなかったですが、2冊ほど出版されました。

Clayton Littlejohn & John Turri (eds.). (2014). Epistemic Norms: New Essays on Action, Belief, and Assertion. Oxford University Press.
Jonathan Matheson & Rico Vitz (eds.). (2014). The Ethics of Belief. Oxford University Press.

(3)証言による知識・共同体の知識の研究
80年代頃からさかんになってきたのが、証言による知識の研究。われわれの多くの知識は他者の証言の伝聞によっているのは自明であるように見える。でも、他者の証言は、従来の言われてきた経験、非経験的な知識の源泉とかなり異なるので、それがどういう意味で知識の源泉なのか(あるいはそうでないのか)をきちんと探求しようというのが問題意識です。この分野を牽引してきた研究者の論文をまとめた論文集が出ました。

Paul Faulkner. (2014). Knowledge on Trust. Oxford University Press.

証言による知識は、個人の知識とは異なる、共同体の有する知識の研究の一部として扱われることがあります。分析哲学の認識論では、共同体の知識はまだあんまり研究されていない分野ですが、論文集がでました。

Jennifer Lackey (ed.). (2014). Essays in Collective Epistemology. Oxford University Press.

(4)実験哲学と認識論
実験哲学が伝統的認識論、あるいは哲学一般にどのようなインパクトを与えるかは、最近もずっと議論されています。初期の頃の過度に批判的な論調は、だいぶ初期の実験や議論の不備が明らかになってきたものの、新しい実験、発見は現在も続いています。実験手法もだいぶ洗練されてきました。それをまとめた、実験哲学の発展についての論文集シリーズの認識論編が出ました。

James Beebe. (2014). Advances in Experimental Epistemology. Bloomsbury Academic.

実験哲学についての批判派、擁護派の論争を知るために、こちらもどうぞ。

Edouard Machery & Elizabeth O'Neill (Eds.) (2014). Current Controversies in Experimental Philosophy. Routledge.

(5)無限主義
無限主義(Infinitism)とは、正当化の構造に関する基礎づけ主義、整合説に続く第3の立場で、理由による正当化が循環せず、直線的に続くという点で基礎づけ主義に同意する一方で、その正当化が終着点を持たず、無限に続くという点で基礎づけ主義を否定する立場です。Peter Klainという人が、現代の代表的論者で、それ以外の人はあまり受け入れてなかったのですが、最近注目が集まってきて(これは形而上学にこれを応用しようという動きとも連動してます)、論文集も出ました。

John Turri & Peter D. Klein (Eds.). (2014). Ad Infinitum: New Essays on Epistemological Infinitism. Oxford University Press.

無限主義を直接扱ってないですが、関連するテーマの本がこれ。Springerの新しいシリーズで、特定トピックに関する短い本。

Jan Willem Wieland. (2014). Infinite Regress Arguments. Springer.

(6)若手、中堅の実力派の著作
分析哲学はメインの研究発表媒体が専門誌なので、実力、実績十分でも単著がないという人が少なくありません。そんななか年齢的に若手〜中堅ながら、その実力を高く評価されている認識論者の単著が幾つか公刊されました。

John MacFarlane. Assessment Sensitivity: Relative Truth and its Applications. Oxford University Press.

長らく草稿が公開されていたものの、未公刊だった超実力派、MacFarlaneの本です。言語哲学の本ですが、彼の相対主義は、「知っている」という語をターゲットの一つとして展開されたので、文脈主義のライバルとされる立場です。

Michael Blome-Tillmann. (2014). Knowledge and Presuppositions. Oxford University Press.

文脈主義の最大の擁護者の1人ですが、語用論的前提を使った独自のヴァージョンの文脈主義を提唱しています。

Aidan McGlynn. (2014). Knowledge First? Palgrave Macmillan.

Williamsonの提唱した、知識を他のもので説明、分析するのでなく、知識を使って他のものを説明、分析しようというKnowledge Firstプログラムは、かなり議論される割に誤解も多いプログラムです。それをきちんと提示、説明し、批判的に検討するという待望の本。

(7)その他の論文集

論文集はホットなトピックで出されることが多く、内容を見てみると何が今話題なのか分かります。まずはやはり、近年話題の直観。

Anthony Robert Booth & Darrell P. Rowbottom (Eds.). (2014). Intuitions. Oxford University Press.

ちょっと面白いのが、信念についての論文集。信念って、認識論では知識のトリビアルな必要条件としてほとんど扱われないんですが、信念単独でもいろいろ論じるべきなんですよね、本当は。

Nikolaj Nottelmann. (2014). New Essays on Belief: Constitution, Content and Structure. Palgrave Macmillan.

(8)豪華執筆者による入門書
認識論の入門書は毎年多く公刊されるのですが、誰だよという人が著者のことも少なくありません。入門書を書くというのはすごく難しくて、その分野についての体系的な知識と最先端の知識を持っていないと書けない、と個人的には思います。なぜ入門書で最先端の知識がいるかと言えば、分析哲学の流れは速いので、長く使われるために、現時点のそして近い将来の動きも見越した観点を盛り込む必要があると思うからです。

今年は、この難しい条件を満たしうる大物認識論者による入門書の刊行が相次ぎました。これら入門書から認識論を学び始めることができるのは幸せなことだろうなあと思います。

まずは、前提知識をほとんど必要としない、Short Introductionシリーズの1冊。

Jennifer Nagel. (2014). Knowledge: A Very Short Introduction. Oxford University Press.

次は、学部生向けですが、もう少し本格向けの入門用。従来の入門書では触れられていない最近のトピックもちゃんと入っています。

Alvin Goldman & Matthew McGrath. (2014). Epistemology: A Contemporary Introduction. Oxford University Press.

最後は、珍しい懐疑論に定位した入門書。この著者も中堅の実力派の1人。

Allan Hazlett. (2014). A Critical Introduction to Skepticism. Bloomsbury Academic.

さらに、現代認識論の論争状況を知るために、こちらもどうぞ。上の実験哲学のところで紹介した本と同じシリーズですね。

Ram Neta (Ed.). (2014). Current Controversies in Epistemology. Routledge.


さて、今年も全部取り上げたと言えませんが、出版物から見る、認識論の2014年の動向はこんなところでしょうか。来年もいろいろ出版予定なので、今から楽しみです。では皆さん、良いお年を!
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2013年12月25日

2013年の認識論を振り返る

さてさて、このブログもさっぱり更新しなくなってしまいましたが、毎年こーれーのこれだけはせめても、ということで、「2013年の認識論を振り返る」です。しかしながら、今年は僕にとっても激動の年でした。2005年7月からカナダに在住していたのですが、7年9ヶ月ぶりに帰国して、日本で某大学で1年間勤務することになったからです。その仕事に加え、今年は自分の勉強、研究にも認識論以外の分野が占める比重がかなり増えて、正直なところ最近の認識論の動向を去年までに比べるとあまりフォローできていません。しかし、以下僕に目に付いた限りで、今年の動向を簡単に紹介します。

1、哲学方法論についての研究が相次いで出版される

実験哲学の台頭以降、哲学の方法論を巡ってさまざまなことが論じられるようになったのですが、ようやくそれらが書籍という形で目につくようになりました。その中には、認識論、あるいは分析哲学よりももっと広い観点から哲学一般を論じる入門書ももあれば、

Soren Overgaard, Paul Gilbert & Stephen Burwood (2013). An Introduction to Metaphilosophy (Cambridge Introductions to Philosophy). Cambridge: Cambridge University Press.
Kerry E Howell (2013). An Introduction to the Philosophy of Methodology. Los Angeles, CA: Sage.

分析哲学にのみ定位したより専門性の高いアンソロジーまであります。

Matthew C. Haug (2013). Philosophical Methodology: The Armchair or the Laboratory? Abingdon and New York: Routledge.
Andrew Chapman, Addison Ellis, Tyler Hildebrand, Henry Pickford, & Robert Hanna (2013). In Defense of Intuitions: A New Rationalist Manifesto. London: Palgrave Macmillan.

哲学方法論における論点で特に認識論でさかんに議論されているのは、「直観とは何で」、また「どのようにして直観が哲学的な主張を正当化するのか」という問題です。これらに直接取り組む、若き才能の著作が二つ出版されました。

Jonathan Jenkins Ichikawa & Benjamin W. Jarvis (2013). The Rules of Thought. Oxford: Oxford University Press.
Elijah Chudnoff (2013). Intuition. Oxford: Oxford University Press.

「直観とは何か」という問題に対し、両者が全く対立する見解を擁護しているのも興味深い。前者の著者のひとりIchikawaは同僚でしたので、この本の草稿を読む読書会を僕が企画して、認識論者ばかりの豪華なメンバーで読書会したりしました。

2、アプリオリ性への関心が再び高まる

哲学的主張の正当化の問題は、「哲学的な知識がアプリオリなものなのか」という問題に直接関連しています。先の2冊もこの問題を扱っていますし、アンソロジーも刊行されました。アプリオリ性に関する議論は再び活性化しており、これからも著作がいろいろ出る予定です。

Albert Casullo & Joshua C. Thurow (2013). The A Priori in Philosophy. Oxford: Oxford University Press.

3、信念の価値、規範性

21世紀の認識論は、いわゆるValue Turnと言われる展開を経て、従来とは異なる形で認識論的な価値、規範性を主題化する研究が多いことが一つの特徴です。信念の価値、規範性をめぐる著作も相次いで出版されました。

Allan Hazlett (2013). A Luxury of the Understanding: On the Value of True Belief. Oxford: Oxford University Press.
John Gibbons. (2013). The Norm of Belief. Oxford: Oxford University Press.

あとは、このアンソロジーも近刊。

Timothy Chan (forthcoming). The Aim of Belief. Oxford: Oxford University Press.

4、徳認識論ブームまだまだ続く

数年来の徳認識論のブームはちょっと下火になってきたとはいえ、まだまだ続く。アンソロジー1冊が出ました。

Tim Henning & David P. Schweikard (2013). Knowledge, Virtue, and Action: Putting Epistemic Virtues to Work. London and New York: Routledge.

そして、徳認識論最大の立役者、Ernest Sosaの哲学についてのアンソロジーも。執筆者には彼の弟子を中心に錚々たるメンバーをずらりと揃えています。

John Turri (ed.) (2013) Virtuous Thoughts: The Philosophy of Ernest Sosa. Dordrecht: Springer.

5、その他

phenomenal conservatism、あるいはdogmatismという、知覚経験あるいは直観が直接的に信念を正当化するという立場についてのアンソロジーが出版されました。これらの立場と対立する立場の間の論争は非常に面白いです。

Chris Tucker (2013). Seemings and Justification: New Essays on Dogmatism and Phenomenal Conservatism. Oxford: Oxford University Press.

あとは、これまた従来からのホットトピック、disagreementについての論文集が出ました。2冊めかな、これで。

David Christensen & Jennifer Lackey (2013). The Epistemology of Disagreement: New Essays. Oxford: Oxford University Press.

対立する立場の支持者に論文を書かせて、各トピックを論争と共に紹介するユニークな入門書、Contemporary Debates in Philosophyの認識論に第二版が出ました。2005年の第一版と比べて入れ替えらるか、追加されたトピックを見れば、最近の認識論の動向が分かるはずです。かなり入れ替えられていて、最近の認識論の展開の早さを象徴しています。日本には2000年代の認識論がほとんど紹介されておらず、残念。

Matthias Steup, John Turri & Ernest Sosa (2013). Contemporary Debates in Epistemology, 2nd Edition. Oxford: Wiley-Blackwell.

おそらく僕が知らず、紹介できなかった新しい動向もあると思います。例えば、今宗教認識論の大きなプロジェクトが複数あるので、それ関連の著作もあるでしょう。しかし、今年はこんなところで勘弁を。それでは皆さん、良いお年を。
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2012年12月26日

2012年の認識論を振り返る

さて、またもや全然更新しないうちに年末になってしまった。というわけで、今年も唐突にこの1年の認識論を振り返ってみる。今年は認識論関係の新刊、アンソロジーが数多く公刊されて、認識論にとっては豊穣な一年だった。

1、認識論的選言主義が台頭する。知覚の哲学における選言主義とは、知覚や見えがどのような心的態度なのかという点に関わる立場だが、認識論的選言主義とは、認識主体がどのような理由、ないし証拠を持っているのかという点に関する立場である。選言主義の始祖の一人マクダウェルの立場には両者が混在している(彼の立場を純粋に認識論的選言主義と見なす人もいるが、明確に知覚の哲学における選言主義を支持している論文もある)が、そこからインスパイアを得た立場を論じる人が現れてきた。Duncan PritchardとRam Netaで、共著論文もある。Netaは、積極的に認識論敵選言主義に対するアーギュメントを提示していて、Pritchardは主に予想される反論を論駁しようとしているというスタイルの違いがある。Pritchardが今年出した本がこれ。

Duncan Pritchard (2012). Epistemological Disjunctivism. Oxford University Press.

2、メタ倫理では最近、行為の理由を巡る議論が活発に行われていて、Buck-Passing ViewやWrong Kind of Reason Problemなど面白い立場や問題がいろいろ現れてきている。それらを信念の理由に応用しようとする試みも同時に起こっているのだが、そうした議論を踏まえ、より具体的な認識論を展開する本が出た。著者のLittlejohnは、認識論の俊英の一人で、ごりごりのアーギュメント重視の論文を書く人。好きなのだが、読むのはかなり難しい。この本も一度読んだが、再読中。

Clayton Littlejohn (2012). Justification and the Truth-Connection. Cambridge University Press.

3、知覚の認識論は、選言主義以外にもいろいろあるのだが、この辺りの議論も最近はおおいに盛り上がっている。特に、James PryorのDogmatismとそのライバルであるCrispin Wrightの立場は、いろいろと議論が続いている。本当に出版が延びに延びたけど、その両者の議論が読めるWrightについての論文集がついに刊行された。Pryorの論文は、5年以上前からネットにあったと思う…

Annalisa Coliva (ed.) (2012) Mind, Meaning, and Knowledge: Themes from the Philosophy of Crispin Wright. Oxford University Press.

Pryorと類似の立場にPhenomenal Conservatismというのがあるのだが、それについての論文集も近刊予定。これに収録予定の論文も、知覚の認識論に興味があるなら是非。

4、アプリオリな知識(正当化)とアポステリオリな知識(正当化)に関する伝統的な区別についての反省が進む。Hawthorneは数年前に、この区別に認識論的な意味は無いという主張をしていたが、同様の主張をする論文をWilliamsonが書いた。この区別の見直しに関しては、アプリオリといえばこの人という哲学者の一人であるCasulloの新刊に入っている論文も、読むに値する(上で触れたWrightの立場に触れつつ、伝統的な区別では捉えられない知識があるかもと示唆する)。

Albert Casullo (2012) Essays on A Priori Knowledge and Justification. Oxford University Press.

5、徳認識論のブームはまだまだ続く。徳認識論関係の議論はまだまだ活発。入門的なアンソロジーも編まれた。

John Greco & John Turri (eds.) (2012) Virtue Epistemology: Contemporary Readings. MIT Press.

PritchardらがExtended Cognitionを認めると、徳認識論の核となるテーゼが維持できないという主張を前からしていたのだが、今年はそれ関連の論文も特集が組まれたりして、数多く出版された(Pritchardのいるエディンバラ大学は今Extended Cognitionについての大規模プロジェクトを動かしている)。来年は、John Turriの編む、徳認識論の立役者Sosaについての論文集も出る予定。

6、哲学は直観を証拠として用いているという多くの哲学者が持っている哲学観は誤りである、実際には全然そんなことはしていない、という立場は、最近支持者がぽつぽつ出てきているのだが、それを展開する本が出た。この本は、哲学者の「直観」という用語の使用に関する社会言語学的な研究とい言っても良い(僕も最近はこの立場に傾いているが、この本には同意できない点も多い)。

Herman Cappelen (2012). Philosophy without Intuitions. Oxford University Press.

7、以前からこのブログでCraigの「知識概念の社会的機能」を探るという、通常とは異なる意味での概念分析のアプローチを紹介しているのだが、このアプローチが最近注目を集めている。この論文集に収録の論文はどれも一読の価値があるが、Craig流のアプローチについての論文は、実験哲学の成果を取り入れていて面白い。

Jessica Brown & Mikkel Gerken (eds.) (2012) Knowledge Ascriptions. Oxford University Press.

8、大御所の新刊が次々に刊行される。

Richard Foley (2012) When Is True Belief Knowledge? Princeton University Press.

Hilary Kornblith (2012) On Reflection. Oxford University Press.

Linda Zagzebski (2012). Epistemic Authority: A Theory of Trust, Authority, and Autonomy in Belief. Oxford University Press.

Adam Morton (2012). Bounded Thinking: Intellectual Virtues for Limited Agents. Oxford University Press.

この辺は全然読めてないので、残念ながらコメントできませぬ。

9、他にも重要な論文集いろいろ。

Declan Smithies & Daniel Stoljar (eds.) (2012) Introspection and Consciousness. Oxford University Press.

内観って昔からなんのこっちゃさっぱり理解できないので、これを読んで勉強したい。

Kelly Becker & Tim Black (2012) The Sensitivity Principle in Epistemology. Cambridge University Press.

NozickのSensitivity Accountについてはこのブログでも書いたことがある。哲学の他の立場と同じように、いろいろ難点が指摘されているが、乗り越えようと頑張っている人も多い。

Martijn Blaauw (ed.) (2012) Contrastivism in Philosophy. Routledge.

Contrastivismというのは、非常に独特な文脈主義の1ヴァージョンで、「知っている」が表すのが、主体と命題の2項関係ではなく、alternativeを加えた3項関係だとする立場。Relevant Alternatives Theoryの文脈主義的な展開と見なすこともできる。Jonathan Schafferが最近の支持者として著名だけど、認識論で最初に主張したのは、上で近著を挙げたAdam Mortonと共著者。

とりあえず、今年目についたのはこんなところ。DisagreementやSelf-Knowledgeについての論文集も出ているが、目を通していない。この辺は、全然勉強できていないので、何とかしたい。

今年は、結構ばたばたした年で、あまり本、論文を読めなかった。来年は、おそらく人生で最大級につらい年になると思うので、ますます読めなくなると思う。なんとか頑張りたいものである。

では皆さん、良いお年を。
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2012年10月29日

アプリオリとアポステリオリ(1)

哲学を学び始めるとかなり初期の段階で、アプリオリ性とアポステリオリ性の区別というのを教わる。しかし、正直言って、この区別は極めて厄介で、完全にmake senseするような形で教えることはできない。

まず、アプリオリ、アポステリオリというのは、どういう存在者が持つ性質なのだろうか。複数の提案が存在する。

(1)命題ないし言明、あるいは真理
(2)知識
(3)正当化、あるいは保証(warrant)

(1)は、「アプリオリな命題」などという形で言及されるが、アプリオリ性そのものは、本来(2)か(3)への関連において定義されるというのは、アプリオリ―アポステリオリの区別を学んだことのある人には周知のことだろう。

(2)の知識がアプリオリあるいはアポステリオリであるとは、どういうことだろうか。知識には、最低限(a)信念、(b)真理、(c)何らかのポシティブな認識論的身分が必要であるということは、認識論の合意となっている。(c)を伝統的には正当化としてきたが、ゲティア問題以降、正当化プラス何かが必要だとされたというのは、よく知られた事情だろう。「保証」というのは、この正当化+何か、あるいは正当化が知識に必要ないというなら、それ以外の何かというように、知識から(a)、(b)を差し引いた残りとして定義される抽象的な性質である(名前があったほうが便利なので、こういことをする)。

ある知識がアプリオリあるいはアポステリオリであるという性質を持つとき、それは(a)や(b)が持つ性質に由来するのではなない。したがって、(2)がこれらの性質の第一次的な担い手となる((a)の性質に由来するなら、(1)が第一次的であることになる。しかし、それだとアプリオリ・アポステリオリな真理とは何かを独立的に定義する必要がある)。

アプリオリ・アポステリオリ性の担い手が、正当化や保証であるなら、アプリオリ・アポステリオリな知識は、それによって簡単に定義できる。

(定義1)Sがアプリオリ(アポステリオリ)な知識pをもつのは、Sがpを信じるためのアプリオリ(アポステリオリ)な正当化・保証を持つときに限る。

同様にアプリオリな知識あるいは、正当化・保証によってアプリオリ・アポステリオリな命題を定義することはできるだろうか。これはそう簡単ではない。

(定義2)命題pがアプリオリ(アポステリオリ)であるのは、Sがpをアプリオリ(アポステリオリ)に知っている(正当化・保証を持つ)ときであり、かつそのときに限る。


定義1と違い、この定義は必要十分条件である。定義2は一見もっともに思えるが、いくつか問題がある。まず、この定義によれば、アプリオリ・アポステリオリ性はある認識主体Sに相対的に定義されることになる。したがって、ある人にとってアプリオリな命題は、他の人にとってアポステリオリであるということは排除されない。次に、もしSがアプリオリな知識p(正当化・保証)を持っていないとしよう。定義2から、pはアプリオリな命題ではないということが帰結する。ここから何が言えるだろうか。次の条件は妥当に思える。

(リンク)命題pがアプリオリであるのは、pがアポステリオリでないときであり、かつそのときにかぎる


この条件から、pはアポステリオリな命題であることになる。つまり、SがPをアプリオリ(アポステリオリ)に知らないという単なる知識の不在から(例えば、pが偽であることから)、pがアポステリオリ(アプリオリ)であるということを結論できてしまうことになる。さらに、Sがpをいかなる意味でも知らないとき、Sはpをアプリオリにもアポステリオリにも知らないと言えると思われる。すると、pがアポステリオリかつアプリオリであるという帰結ばかりか、(リンク)によって矛盾が帰結しさえする。

したがって、定義2か(リンク)のどちらかに問題がある。(リンク)は一見してもっともらしいし、また定義2には命題のアプリオリ・アポステリオリ性が主体に相対化されるという奇妙な事態を許すという問題があるので、定義2を別の定義で置き換えるのがもっともな方針であるように思われる。

これからしばらくアプリオリとアポステリオリについて、いろいろ書いていきます。
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2011年12月30日

2011年の認識論を振り返る

年末ということで、今年出版された本を紹介しつつ、今年の認識論を振り返ってみる。

1、徳認識論への関心が高まる。SosaやGrecoが従来のほとんどプロセス信頼性主義と変わらない立場から、知識の価値に着目して、近年、従来とは異なる立場に移行した。両者ともすでにこの新たな立場について本を出版しているが、Sosaがより入門向けの本を書いた。

Ernest Sosa (2011). Knowing Full Well (Soochow University Lectures in Philosophy). Princeton University Press.

知覚経験の内容に関する章を除いて、非常にわかりやすく彼の新たな立場が解説されている。

徳認識論は、主に信頼性主義に近い立場と、徳倫理をモデルにして主体のCharacterに定位した立場という二つの流れがある。後者にはKvanvigの昔の本くらいしか本として出版されたものがないのだが(Zagzebskiの両者の折衷のような立場についての本はあるが)、ようやく次世代の徳認識論者からの単著が出た。

Jason S. Baehr (2011). The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology. Oxford University Press.

これはまだ読んでいないので、近々読んでみたい。

他にも、徳認識論についてのアンソロジーも出版された。

Heather Battaly (Ed.). Virtue and Vice, Moral and Epistemic. Wiley-Blackwell.

幾つか論文を読んだだけなので、この本の評価はまた今度。


2、近年のKnow-Howへの関心の復活をWilliamsonと共に牽引したJason Stanleyが単著を発表した。題名が直球すぎる。

Jason Stanley. (2011). Know How. Oxford University Press.

これもまだ読んでいない。しばらくknow-howがホットトピックになると思うので、勉強しないといけない。

3、ConeeとFeldmanのEvidentialismについてのアンソロジーが出版された。彼らは、Bonjourなどと並んで正当化に関する内在主義の最大の擁護者として知られていて、長いこと頑張っていたのだが、ついに著名な認識論者との公開バトルが実現した(ただし彼らの内在主義は、Mentalismで、Bonjourのアクセス内在主義とは違う)。この本は、序文や付録が充実していて、実に良い。付録の一つは、各論文の要点と、それに対する応答の要点のまとめで、一瞬で議論の核心が分かるようになっていて、実に便利。

Trent Dougherty (ed.) (2011). Evidentialism and its Discontents. Oxford University Press.

4.Epistemic Modalityについてのアンソロジー。これも数年来のはやりトピック。最近の認識論は、相当に言語哲学との結びつきが強く、この本などもほとんど言語哲学の本である。編者は、分析哲学の次代を担うと言われている、すごく評価の高い哲学者たち。

Andy Egan and Brian Weatherson (eds.) (2011). Epistemic Modality. Oxford University Press.


宗教認識論が今年はかなり盛り上がっているらしいが、全然詳しくないので、その最近の動向を紹介できる立場にない。

来年以降も、面白そうなアンソロジーの出版が控えているので、実に楽しみ。では皆さん、良いお年を!



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2011年11月03日

内在主義とは何か

内在主義とは何かという問いに答えることはなかなか難しい。というのは、この言葉自体に幾つか意味があり、認識論で内在主義と呼ばれる立場全てが、同じ意味で内在主義というわけではないからである。そして外在主義は内在主義の否定であると定義できるが、同じ理由で、外在主義と呼ばれる立場すべてが、同じ意味で外在主義であるわけではない。

まず、内在主義・外在主義という立場は、知識に関わるものか、その必要条件に関わるかで意味が違う。それ故、例えば、知識に関する内在主義と正当化に関する内在主義というのは異なる立場であり、正当化を知識の必要条件とすれば、前者は後者を含意するが、その逆は成立しない。

知識に関する内在主義とは、真理を除く知識の必要条件のすべてが、何らかの意味で主体に内在するファクターのみによって成否が決まる条件であるという立場である。

正当化に関する内在主義とは、正当化条件が、主体に内在するファクターによってのみ成否が決まるという立場である。

ゲティア問題を、知識に関する内在主義で解決するのは基本的に無理なので、この立場の支持者はもはやほとんどいない。しかし、正当化に関する内在主義は、まだまだ支持者が多い。

さらにこの「ファクター」という言葉を、すべてのファクターととるか、主要なファクターととるか、一部のファクターととるかでもバリエーションが生まれる。


この点を棚上げして、大雑把な語りを続けると、僕の知る限り、正当化に関する内在主義と一般に呼ばれるのは以下の4つの特徴のうち1つ以上を備える立場であり、全てを満たすことは要求されない。

1、(Mentalism)正当化条件の成否を決定するファクターは、主体の心に属する。
2、(Access Internalism)正当化条件の成否を決定するファクターは、主体が内観のみによってアクセス可能なファクターである。
3、正当化の度合いとは、論理的な支持の度合い(partial entailment)ないし合理性の度合い(epistemic probability)である。
4、(Requirement of Inferential Justification)主体がpを信じるための正当化をもつならば、その主体は「pを信じるための正当化を持っている」と信じるための正当化をもつ。
5、正当化は根本的には、命題に属する性質であり、(心的状態としての)信念に属す正当化は、その派生である。

1は正当化に関する内在主義の代表的論者とされる、Richard FeldmanとEarl Coneeが内在主義と呼ぶ立場である。2は、まあ日本でなぜか内在主義の定義として常に紹介されるので、知っている人も多いだろう。当然のことながら、(2)は(1)を含意する。実のところ、これらの条件は、内在主義の条件としてはかなり弱い。William AlstonやJuan Comesañaといった外在主義者と自称する人たちでさえ、(2)を受け入れるからである。

(3)、(4)が、正当化に関する内在主義をGoldmanのプロセス信頼性主義のような正当化に関する外在主義から本当に区別する基準である。Goldmanは(全てのファクターという制限が付けられたならば)(1)から(4)の全てを否定するが、(1)、(2)の否定は彼の立場に本質的ではない。事実、AlstonやComesañaは、(2)を受け入れつつ、基本的にプロセス信頼性主義をとり(3)、(4)を拒否する。彼らの立場は、正当化にはアクセス可能な証拠を持つことが要求されると言う点で(2)と整合的だが、その証拠が与える正当化の度合いを、その証拠に基づく信念形成プロセスの信頼性の度合いと同一だとする点で、信頼性性主義の与える正当化の度合いの測定基準を受け入れ、(3)を拒否する。

(4)は、Richard FumertonやSellarsといった論者が採用する内在主義の条件であり、1階の正当化は2階の正当化を要求する、というものである。より詳しく言えば、Sの持つ証拠eがpを論理的ないし合理的に支持し、それに正当化を与えるとき、どのようにeがpの証拠になっているのか、すなわちeが論理的ないし合理的にpを支持する、という事実そのものに対する正当化を持っていなければならない、というのが要点である。

(5)は、いわゆる命題的正当化と信念的正当化(doxastic justification)の区別であるが、この区別はかなりややこしいので、説明は今回は省略する。

(1)から(5)の基準がどのように生まれてきたかを考えるには、伝統的な正当化概念とは、合理性とほぼ同一の概念だったということを思い出さなければならない。(3)はその直接的な帰結だし、(4)のような2階の正当化要求も、eがpの証拠であるとき、その事実そのものに対する正当化を持っておらず、単にeを持っているというだけでは、pを信じることに何ら合理化を与えない、という反省から生まれたと思われる。eを持つということもまた抽象的な条件であり、(2)はそれをeを自覚しているという意味にとる。
(1)はかなり弱いが、心のうちに存在すればいいとするもので、伝統的な正当化概念からかなり離れてしまうが、完全な外在主義よりはまだ近い。(5)も、合理性は、信じられる内容(命題)の間の関係に関わるものであり、心的状態としての信念に関わるものではない、という見解から生まれている。


僕が思うには、内在主義と外在主義の対立で最も重要なのは(3)で、ここで根本的に異なるので、内在主義と外在主義というのは、簡単に調和できない。先のAlstonやComesañaも、この点を自覚してか、自分の立場をあくまで外在主義と見なしている。(3)に関する明快な解説として、

Richard Swinburne (2001). Epistemic Justification. Oxford University Press.

を挙げておきたい。
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2011年10月15日

デカルト的懐疑論に対する諸論証とその諸前提

新しい大学に移り、ポスドクを開始してから、早くも一月半が経ちました。ここには優秀な認識論者が多くいて、毎日本当に充実しています。

以前書いてここにもアップしていた論文を改稿しました。6節にかなり手を入れて再構成し、前よりも少しは面白いものになっていると思います。タイトルも変えて、「デカルト的懐疑論に対する諸論証とその諸前提」です。なんかあれなので、もう少し良いタイトルを考えています。

コメントは随時受付中です。

PDFのダウンロードは、ここからできます。
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2011年08月17日

34th International Wittgenstein Symposium

8/7 ~ 8/13
34th International Wittgenstein Symposium, Kirchberg am Wechsel, Austria

8/7
明日からの学会を前に中休み。日曜なので、飲食店除いて店が全て休みだった。朝に2時間くらい一人で散歩。ちょうど行くときに、またGoldmanと会ったので、あいさつ。

帰ってきて、友人たちと一緒にランチをつくって食べ、さらに散歩に出発。Kirchebergという名前から分かるように、教会が多い村で、それらを回ったりする。それから皆で、アイスクリーム屋によると、またGoldmanに会った。それから一休みして、また僕のホテルであったレセプションに参加。その途中またGoldmanに遭遇し、「君はなぜか私の行くところにばかりいるなあ」、「これは偶然ですかね、それとも僕があなたのストーカーなのかもしれません」、「しかし、君のストーキングは実に不思議だ。私より先にそこにいるんだから」、「実は予知能力があるんです。今のところ、信頼可能だと言えますかね」、「わはは」、というようなやり取りをした。レセプションは、サマースクールのときと、まったく同じ感じだった。このとき、日本から来たSさんと知り合う。


ウィトゲンシュタイン・シンポジウム 8/8 ~ 8/13

8/8
いよいよ。ウィトゲンシュタイン・シンポジウム。今年のテーマは、認識論で最もホットな、「contextualism/invariantism」、「Value of Knowledge」、「Peer Disagreement」で、著名な認識論者を一杯招待している。まあ、この学会も査読が名目だけで、ないに等しく、なんでも通しているので、かなり論文の質ににばらつきがある。なのでかなり綿密にすでに発行されているProceedingsをチェックして、どの発表に参加するかを決めようと思ったのだが、なぜかProceedingsに載ってない論文がいっぱいある。これはほんとになぜか分からない。

後に、招待講演者の扱いに差があり、一部は飛行機代、宿泊代、一部は宿泊代のみと差別があると聞いた。一部は1時間半の講演で、一部は一般発表と同じ40分の発表だったのも、そのせいかもしれない。英語圏とドイツ圏からの招待講演者を同じ数にしているようだった。

この日は、後で仲良くなるドイツ人院生Kさんの発表を聞いて、質問したりした。

この日のJohn Grecoの講演は、知らない話はあまりなかったが、非常に明快で、とても良かった。講演後に、ひとつ質問しに行ったら、「その通りだ、ちょっと考えてみる」と、とても誠実な人だった。彼が他の発表で質問するのを何回か聞いたが、どれも的確で感心した。一度きちんと話したかったが、学会途中で帰ってしまったようで、実現できず。とても残念。

その後近くのワインセラーの提供で、ワインの試飲会。この学会は、コーヒーや昼食などのサービスが有料だったけど、いろいろイベントがあるので、高い学会費も分からないでもない(飲み物用のクーポンは何枚かもらえるけど、それを超えると有料)。まあ、僕は頼み込んで学生用の格安の学会費しか払ってないので、不満はまるでない。

8/9
朝一のWayne Davisの講演が、極めてクリアーで、分析系のお手本のような発表だった。しかし、次のドイツ人の講演は、まあ最悪だった。なぜか延々と、contextualismとrelativismのまとめをやっていて、40分経過しても、まだ自分の主張とやらに至ってない。このまとめが、かなり内容を詰め込んでテクニカルなところまで踏み込んでいるのだが、僕らこれを専門にしているものにはすでに自明なことだし、非専門家には、テクニカルすぎて分からないだろうというもので、ホント何のためにあれをやっているか疑問だった。しかも、その次に彼女が、自分が発見した文脈主義の問題と主張する問題も、すでに他所で言われているばかりか、解決まで提示されているもので、なんだこりゃという代物だった。彼女が挙げていた文献にも、それを扱っているものがあるので、なんでそれを見逃しているのか、訳がわからない。しかも、その解決の一つは、この講演の司会をやっていたCohenのアイデアか、それに基づくもので、よくこれCohenの前で言うなあ、とはらはらしてしまった。

その解決を指摘しようと思って手をあげたのだが、最初のKornblithがした質問が、まさにその解決そのものだった(彼が知っていたかどうか知らないが、普通に考えつくのもそう難しくないものだ)。その後、マイクが僕のところに来たが、彼が言っちゃいましたと言ったら、Kornblithが笑いかけてくれた。彼の質問に対する回答は、「ある可能性を思い浮かべることが、必然的に文脈を変化させる」という、どの文脈主義者もとってない想定を自明視したもので、まあ当然回答になっていない。

この後、前からメールでコンタクトをとっていた、Jessica Brownが来て、あいさつを交わした。とても気さくで良い人で、学会の間幾度も話すことができた。彼女ほどの人が一般発表で来てるってのが、信じられないな、しかし。

午後はまず、Sven Berneckerの発表に参加。言ってることは正しいけど、あまりにもトリビアルな内容で、あんなことを発表する意味が分からなかった。予想通り、質問では、猛攻撃に合っていた。正しいこと言えばいいってもんじゃなくて、やっぱりどの程度面白いか、意義があるかが重要だ。その次の発表も、あの悪名高いGypsy Lawyerケースを使ったもので、あれだけ批判されたケースを、何の説明もなく、自分の直観に合っているからというだけで使うのは、論点先取でしかない。なぜあのケースが悪名高いのかを説明して、同様に彼のケースも問題だと指摘したら、、KornblithとBrownから、後で褒められた。しかし、発表者と次の日に話したのだが、直観の使用に関する考察が極めて甘く、彼によれば、僕のような立場が、彼に対する論点先取だと言って譲らなかった。何度説明してもわかってもらえなかったので、やや疲れた。

あとIgal Kvartの発表も聞いたが、論文から受ける印象以上に混沌としていて、自分独自の観点からいろいろとアイデアを展開してるのだが、内容の複雑さ、新奇さに加え、英語の滑舌が悪くて、あまり理解できなかった。

この日は、また僕のホテルで、発表者用の会食会というのがあった。でも行ったら、発表しない人もいっぱい来ていて、遠慮した人にアンフェアだなあと思ってしまった。この会食に行く最中に、KornblithとAdam Leiteを間違えて、かなり失礼なことを言ってしまうが、それを機に、Leiteの立場についての質問がいくつかできた。

会食では、Brownとちょっ認識論のと話をして、Kornblithに、「日本であなたの見解はとても人気があります」と言って、いろいろ話をした。彼が自然主義者になった経緯なども聞いて、面白かった。

その後、ホテルで同室のJ君と、昨日発表を聞いたKさんと話す。このKさんが面白くて、僕の言うことにいちいち反論するのだけど、まずそれは違うと言って、それから理由を考えるという感じで、とても負けず嫌いな感じ。自分でも負けたくない、とか途中で言っていた。僕はサマースクールのときから、こういう若い人達に対する教育的配慮が少し生まれてきて、いろいろと彼らが見過ごしていそうな点に言及しては、質問して、その反応を楽しんでいたのだが、このときの反応が一番面白かった。

8/10
最初の講演は、Meredith Williams。『探求』の最初のあたりの詳細な解説で、話はうまかったが、内容的にはさほど新しいものはなかった。次のドイツ人の講演は、学会のテーマと何の関係もない、自己知に関するものだった上に、ある概念を定義して、それが言えれば、一人称特権を特殊な能力やマジックに頼らず説明できるというもので、そりゃ自分で最初の概念定義してるんだから、何でも言えるわ、というもので、まあ最悪の発表だった。あと、質疑応答もひどくて、重要な質問に一つもまともに答えていなかった。

昼からまず、Peter Baumanの発表。すでに出版されて、批判されている論文の短縮版。この論文の内容を覚えていなかったが、話を聞いた瞬間に、一つの前提が、明らかに偽なので、なんじゃこれはと思った。Wayne Davisが一発目にそれを指摘したのだが、その回答が、必要以上に強いテーゼを批判者側に読み込んでいたので、その点を指摘したけど、回答はどう考えても、一階と二階の知識を混同しているとしか思えなかった(この点もすでに、CohenとDavisが指摘していた)。この次のChristoph Jagerというドイツ人の研究者の発表も、聞いた瞬間に一つの前提が明らかに偽としか思えなかったのだが、やはり一発目にJohn Grecoがそれを指摘した。そしたら、他の前提については考えていたけど、この前提だけはだれも疑わないだろうと考えていた、とか言って、かなりぐだぐだになってしまった。この前提は、すべての哲学的文脈が懐疑論的文脈だというもので、当たり前だが文脈主義者は、それを受け入れる必要はない(Lewisはこれに近いことを言ってるけど、彼にしても別にそれを積極的に受け入れる必要はない)、それにDeRoseが、この点についてはすでにいろいろ言っていたはずで、まあなんとも考えなしの論文だった。こんなことなら、同じ時間のMartin Kuschの発表に行けばよかった。

この後の発表が、この学会の優秀論文の2つのうちの1つで、是非聞きたかったのだが、上で書いたように、昨日の発表者の一人と話していたら時間が過ぎてしまった。ものすごく後悔。

その後、Marian Davisの発表。まとまっていて良い発表だったが、内容にあまり共感を覚えず。

次のコマで、Sanford GoldbergとAnnalisa Colivaの発表とかぶっていて、ひどいと思った。Goldbergはとても人の良さそうな人で話も面白くて、発表に行こうと思っていたのだが、Colivaも優れた研究者で、彼女の論文、本を僕は全て読んでいる。彼女とはちょっとだけ話して、あなたの本が『確実性について』の本の中では、ベストだと思う」と伝えておいた。

この次のコマには、Erik J. Olssonの発表があったのだが、ウィトゲンシュタイン型文脈主義の発表があったので、断腸の思いでそちらへ。ところがこれがひどくて、文脈主義を解説して、それには批判があるし、ウィトゲンシュタインの解釈としても合っていないないので、自分は他の解釈をとると言って、それを解説して終わり。その解釈も、極めてオーソドックスなもので、それ言いたいなら、べつに文脈主義ださなくてもいいじゃん、というひどい内容。質問で、「2つ質問がある、まず、あなたの解釈に基づく反懐疑論戦略には問題がある、それがMichael Williamsが、その方向に行かない理由だ」、と言って、その理由を解説した。予想通りこの辺をまともに考えてなくて、すでに彼が言ったことの繰り返しだったので、「あなたはまたそれを言うと思っていた。、そこで、二つめの質問がある」といって、そのポイントがなぜ、懐疑論に対して有効でないのかを述べた。回答がやはり明確でなかったので、さらに言おうと思ったが、時間を取り過ぎているので、「まあここで終わります」と言ったら、後ろからDaniele Moyal-Sharrockが「面白いから、もっとやりなさいよ」と声をかけてくれた。もっともやってもよかったが、自粛。

しかし、この直後、発表者が乗らなければならない列車の時間が迫っていて、タクシーが今到着したという連絡が。ここで司会が、あと一つくらい質問受けてからと言ったのだが、僕とMoyal-Sharrockが列車の方が重要に決まっている、今すぐ行け、と言って、時間を余してお開き。彼女は、この後、自分の観点から僕の質問に答えてくれたけど、やっぱりウイトゲンシュタインの話をすでに受け入れてないと、肯定できないなあというものだった。でも、認識論者として、そこまで極端なことは言いたくないので、まだ彼が正しいか考えています、と言ったら、ニヤリと笑って「まあ頑張ってみなさい」だって。

夜はSさんと、初日に発表したNさんという日本人のみで食事。明日発表だというのに結構遅くまで飲んだので、ホテルに帰ってあわてて、もう一度重要な文献をさっと読み直し、自分のスライドのチェック。


8/11
朝一のドイツ人の講演がまたもや意味不明。前半はSartwellの話のまとめで、後半はそれをもとに、知識概念なしで認識論をやるべきだ、という話。どう考えても、前半と後半がつながっていないし、前半の話にもすでにめちゃくちゃ批判があるのに、あまり触れていないので、かなり不満だった。休憩のときに、Kornblithと話したけど、彼もよくわからんな、という感じだった。その後、Goldmanの講演。社会認識論と民主主義という内容で、言ってることは全て正しいだろうと思ったけど、あまり内容が無いように思えた。

午後は最初の発表をさぼり、もう一回スライドのチェック。2個目の友人の発表にはなんとか間に合った。

その次は、いよいよ僕の発表。自分ではいつも通り、あまり緊張していないと思っていたけど、思った以上に緊張していたらしく、あまり英語がスムーズに出てこなくて、まだまだだなという感じ。Jeniffer Lackeyの見解を批判するというものだったので、当然一つ目の質問は、Lackeyから。これは予想済みの質問だったので、うまく答えられた。次にKornblithが、完全に同意するが、他にもこの直感を説明するやり方があるのでは、といってある例を挙げた。これは、僕を助けるための例なので、ありがとうございますと言ったのだが、後からLackeyから、あのタイプの例に関しては論文中で拒否するための議論をしている、と指摘された。次に、Igal Kvartから、確率論的見地からの質問がきた。彼はやはりかなり独自の見解だったけど、似たようなことは僕も考えていて、今回の発表で時間がなくてスキップしたことだった。ちょうどいいと思って、そこのスライドを見せて、自分の考えを説明。最後に、Brownが時間がないから、簡単にと言って、自分やBaron Reedの反例について、どう思うかと質問。僕も、時間がないから、簡単に答えます、と言って、「僕の直観とあなたの直観が違うと思う」といって、ほんとはもっと言わないといけないけど、時間がないからあとで、と言った。そのReedも手を挙げていたけど、時間がなくて、回らず。彼とLackeyは夫婦で、一家総出で来ていて、かなり忙しそうにしていたので、最後まであまり話す時間が取れず。

この後、Lackeyと話して、「何か自分に質問ある」と言われたのだけど、発表が終わったあとの反動か、なにも思い浮かばず、特にはないです、と言ってします。なので、彼女から、いろいろ僕の論文についての意見を言ってもらって、さらに読むべき文献なども教えてもらう。KornblithとBrownから、それなりに褒めてもらったので、まあ満足できる出来だったと思う。この後Lackeyへの質問を思い出して、もう一度話そうとしたのだが、彼女が忙しすぎて、メールでということになった。

Brownの発表を次に聞いたが、どうも納得できない点が残った。どうも何かを僕が見逃している気がして、次の日にも彼女と話したのだが、ちょっと話が食い違っている感じだった。

この後のBaron Reedの発表が、一部おかしいと思った所があったが、内容の豊富さ、新しさ、アーギュメントの緻密さ、などで、この学会でベストと思えるものだった。ほんとよくあれだけの内容を、あんなに簡潔かつ要領よく、クリアーに話せるものだと感心した。あんな発表したいものだ。

このReedの発表もDaniele Moyal-Sharrockのと同じ時間帯で、なぜ有名人2人を同じ時間に入れるのか不思議だ。僕は彼女の本も読んでいて、是非発表も聞きたかったのだが、専門からするとReedの方に行くしかない。5,6日目はほとんど学生の発表だったのだから、もう少しスケジュールを考えてほしかった。

この後ウィトゲンシュタイン・ツアーに参加。彼が教えたという小学校を見て、ワイン、ビール、食事を振舞ってもらう。この村の村長の挨拶や、ウィトゲンシュタインの小話も聞いた。横に小さな博物館があり、ウィトゲンシュタインが使ったベッドなどが展示してあった。

8/12
オーストリアの朝食は、ハムとチーズとパンで、毎日同じ。かなり飽きていたので、朝飯を買いにスーパーへ行くと、Brownも来ていて、これから帰るという。最後なので、また少し話をして、激励の言葉をもらう。いい人なので、いろいろ褒めてもらって嬉しかった。

朝のStwart Cohenの発表も、クリアでとても良い発表だった。この日は、ドイツ語の発表ばかりで、しかたなくウィトゲンシュタイン関係を聞きに行ったのだが、これもなぜかサマースクールの生徒のものばかりで、かなりクオリティが低かった。あと英語が不安だと前から言っている人が、ハンドアウトもパワポもなして、読み上げで発表しているのを見て、やる気あるのかと思った。やはり、理解してもらう努力は必要だろう。

それなりに良かった発表が一つあったが、その立場の整合性に疑問があったので、質問した。すると後から、Kornblithが自分も同じ疑問を持ったというので、我々と質問がかぶることが多いですね、と笑いあった。

夜のLackeyの講演は、クリアでまとまっていたけど、今までの彼女の理論を踏まえてのものだったので、その辺に知識がない人には、わかりにくい内容だっただろうと思う。

8/13

最終日。学会の最中は、基本的に同じホテルのKさんとS君の朝食を一緒にとっていた。なのでKさんと毎日話していたのだが、彼女の僕への態度が、初日の結構強烈なものから、徐々にリスペクトあるものに変わってきた。これはサマースクールのときにも少し感じたことで、僕はアジア人で、かなり若くみられるのだけど、僕が質問したり、解説したりするのを聞くうちに、それなりの哲学知識を持っているのが分かるので、態度が変わるのだろうと思う。この日のKさんは、自分の発表でのあなたの質問を考えてきたけど、あなたに賛成して立場を変えることにした。やはり、自分の発表した立場は、おかしいと思う、などと言い出した。ちょっと行き過ぎだと思ったが、こういうふうに率直に立場を変えられるというのも、すごいことである。

その後まず、ドイツ人の文脈主義についての発表を聞いたけど、彼が新しい文脈主義と言っているものは、単に昔からある不変主義で、しかもそのどちらが優位かで議論があるのに、彼は、これこれのケースに自分の文脈主義は、通常の文脈主義と違う診断を与えますというだけで、そんなもん、その定義聞いた瞬間分かるわ、というものだった。彼の文脈主義の内実も、いろいろな知識の理論をまとめただけで、整合性にも問題があるしろもので、まあひどかった。この学会を通じて、ドイツ人の認識論の発表、講演に一つも感心しなかった。やはりドイツで分析系の認識論は、まだまだ黎明期で、そこのトップでも、英語圏の上位スクールの博士の生徒にも負けるくらいのレベルだという感想である。

この後、Hintikkaの発表を聞いたが、もごもご話していて、誰も理解できず。ただ、CarnapとHeideggerについての発表で、彼が"I know Carnap. He is a very nice man, very serious, but very pedantic."と言ったらしくて、生ける歴史の証言だと、みんなで受けた。

最後のKornblithの講演は、非常にシンプルなポイントを、いろいろ形を変えて語っていて、一般聴衆向きの発表としては、非常に良く、認識論の専門家以外には、すごく受けが良かった。僕にはやや簡単すぎて、もう少し深く突っ込んで欲しかったけど。

この後、ウィーン行きのバスに乗るために歩いていると、何度も顔を合わせたけど名前を知らない年配の人から声をかけられて、「君の質問をいくつか聞いたが、どの質問も非常に鋭くて、君は優れた知性の持ち主だ」と言われる。ほんとかどうか分からないが、まあ学会を締めくくるにこれ以上の言葉はない。ありがとう!

この学会でもいろいろ質問したし、ほんとうに多くの人と知り合いになり、議論もいっぱいした。本当に充実した学会だった。これだけ僕の興味がある分野のトップの人達が一同に介する機会は、もうないかもしれない。ほんと会場にいても、有名人ばかりで、ほとんど夢の世界だった。

この日は、夜行まで時間をつぶす必要のあるサマースクールからの友人たちと、昼飯をたべで街をぶらぶらした。D君とはここでお別れ、かなり長い間一緒にいたので、なかなか分かれ難かった。その後、夜はSさんと台湾人研究者のCさん夕食を食べ、また散歩。最後はアイスクリームで締め。ウィーンのおかしは、カナダのものほど甘くなく、甘いものがあまり好きではない、僕でも普通に食べられた。

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3rd Ludwig Wittgenstein Summer School

8/3 ~ 8/6
3rd Ludwig Wittgenstein Summer School, Kirchberg am Wechsel, Austria

8/2
サマースクールは8月3日からだが、2日の夜にレセプションがあるということで、夕方にウィーンから移動。最寄り駅まで電車で行き、特別のシャトルバスでそこから会場のKirchbergに移動。7時のシャトルバスには、5人しかいなかったので、バスを待っている間にうちとけて、特にスイスから来た、これから修士に進むというS君、D君と仲良くなった。

会場で登録を済まし、レセプション会場のホテルへ。偶然にも自分の泊まるホテルもそこで、便利だった。ホテルの部屋は二人部屋で、今は僕一人だけど、学会が始まるときにもう一人来るとのこと。僕は学会の規定で、論文投稿時にホテルを申し込んでいたのに、それでも希望通りの一人部屋にならないのかと驚いた。ホテルは、まあちょっと大きな民宿という感じで、立地もよかったが、部屋は一風変わっていた。まず、部屋の隅にシャワーがあるが、敷居がなく、いわゆるバスルームがない。トイレは廊下に共同のものがあるが、手洗いがなく、手を洗うためには一回部屋に戻ってこなければならない。部屋の鍵も一つしかないので、外に出るときに必ず玄関のキーホルダーにかけないと、部屋の掃除ができないので困ると後で言われた。

レセプションは、ホテルのホールが会場だったのだが、なんのアナウンスも、オフィシャルの自己紹介もなく、皆が集まったときにてきとーに食べ始め、飽きた人から帰るという感じで、もう少しなんとかならんのかという感じだった。周りの人と話すと、学部生から、修士、博士と広く集まっていて、ポスドクも僕以外に1人いた。国籍はやはり、ドイツ、オーストリアが多かったが、世界中から集まっていて、インド、中国からの人もいた。サマースクールは今回で3回目だけど、ヨーロッパからの人は、以前も参加したという人も多かった。

そんなに会費も高くなく、3食付きで、宿も会場の小学校の横にあるボーイスカウトハウスなら格安なので、リピーターが多いのも分かる。高原にある、とても綺麗なところで、夏を過ごすには最高の場所だ。

この村は、かなり観光地として有名らしく、もっと僻地を予想していて、食材もいろいろ持ってきたりしていたのだが、レストランやスーパーも充実していて、完璧にリゾート地として整備されていた。物価も安くて、かなり快適だった。今後ウィトゲンシュタイン・サマースクール、シンポジウムに僕が参加するかどうかはテーマ次第だけど、是非とももう一度行きたいくらい。

8/3
一夜明けて、3日の朝からサマースクール開始。教師役は、Peter HackerとJoachim Schulteの二人。開始直後に、Schulteがほとんど準備ができてなくて申し訳ない、といいながら、「確実性について」の執筆背景を説明した。それがほんとにぐだぐだで、かなり拍子抜けした。その後、本格的に講義開始かと思いきや、購読方式で進むということで、数パラグラフを誰かが音読し、それについて生徒が質問かコメントし、教師がリプライするというもので、正直期待はずれだった。僕は最近の『確実性について』ブームはかなりフォローしていて、いろいろ解釈上の争いがあることも知っていたので、サマースクールでは、そういう諸解釈を踏まえて、二人の教師がうまくウィトゲンシュタインの立場を解説するものだと思っていた。それが購読で、ペースもかなり遅く、1コマ1時間半で、1,2ページという進度である。読む箇所も、教師が適当に選んでいて、ここ読む必要あるかというところもあり、正直教師の準備不足が目立った。こういう購読スタイルはヨーロッパでは普通らしいが、北米でやったら、めちゃくちゃ批判されるだろう。

始まってすぐ思ったのだが、まあ生徒が多様なので、質問にも相当質、内容に差がある。僕と学部生以外は皆ウィトゲンシュタインをある程度専門に勉強している院生ばかりなので、皆ウィトゲンシュタインに一家言あるのはわかるが、相当とんでもなのもあり、あれだなあ、という感じだった。あと、こういう自由発言方式だと、どうしても発言が一部の話好きの人に集中してしまう。サマースクールの間に、全く発言しなかった人も多くいて、もう少し進行を考えたほうが良いと思った。あと、教師の司会にもかなり問題があり、ある生徒の発言に何のコメントもないとき、何も言わず次の生徒を指さして、先に進んでしまうことが多々あった。これは生徒がかわいそうだし、発言意欲を削ぐので、絶対にやってはいけないことだろう。まあしかし、Hackerはある程度断定的なことをいうので、まだ理解の助けになるところもあったが、Schulteは全く断言的なところがなく、つねにここはここに書いてある以上のことは分からないだとか、『確実性について』は、不整合な箇所もあり、統一的に読めないから、などと消極的な発言ばかりしていて、全く理解の助けにならないばかりか、やる気あるのかという感じだった。二人共基本的に生徒に話させ、自分たちは黒子のような役割をしたいという感じのスタンスだったが、これだけ背景、知識の違う生徒相手に、それが適切だったとは思えない。

生徒の発言を聞いていて思ったことは、まあ議論のスタイルがまったく分析哲学のクラスと違う。アーギュメントを問題にせず、ウィトゲンシュタインが何を言ったのか、その哲学的意義は何かというあたりが中心トピックだった。皆ウィトゲンシュタインの言葉にすごく感銘を受けていて、それが正しく、かついまだに認識論的に新しく、重要だという考えが、広く共有されていて、僕のようなスタンダードな認識論者からすると、アーギュメントもないのに、なんでそんなにこれが正しいと思えるのだろうか、と異様に感じたほどだった。後にD君がからかい半分で言っていたが、「ウィトゲンシュタインが言ったことが、正しいのは確実だ。残る問題は、彼が何を言ったか、ということだ」、というスタンスの人が多かったと思う。

1日目の午後に、僕がここのウィトゲンシュタインのアーギュメントは、少なくとも彼の狙いが"I know"というフレーズを含む文の分析にあるとしたら、あまりにも一般的すぎて成功していない、という質問をしたのだが、教師二人共まるで理解してくれないのでがっかりした。長いことやりとりして、ある程度は僕のポイントをわかってもらえたと思うが、結局Hackerがなんの根拠もなく僕に対する論点先取の主張を繰り返すばかりで、ほんと実りのない議論だった。

そんな感じで、1日目からかなりヤル気が下がったのだが、授業終わったあとS君が興奮した顔で僕のところに来て、「あなたの質問はエクセレントだった。自分にはあなたが完全に正しく、あそこのウィトゲンシュタインのアーギュメントで、"I know"は何の役割も果たしていないようにしか思えない」、と言ってきた。おー、教師さえも理解してくれなかったのに、理解してくれる人がいたよ、と嬉しくなった。この質問は、後に2人ほどからも、非常に良かったと褒められた。

その後飲み会。いろんな人と話して、全然話が通じかったり、感情的になる人もいて嫌な思いもしたが、D君、S君は、ある程度分析系の背景があり、かなり手が会い、話していて楽しかった。なお、この日からウィトゲンシュタイン・シンポジウムが終わるまで、毎日飲み会に行った。やはりビールがおいしい上に、安いので、飲まない訳にはいかない。


8/4
2日目。基本的に昨日と同じだが、1コマ潰して、Hackerの発表と、質疑応答があった。この論文は、かなり微妙で、まずこのサマースクールを通じて、あんなにサールのウィトゲンシュタイン批判はおかしいと言っていたのに、自分の論文ではサールと同じことを言っていて、なんだそりゃという感じ。それから、Williamsonのknowledgeはmental stateであるという主張を取り上げ、それを否定するというのが、一つのポイントなのだが、Williamsonの論点に関する反論はまるでなく、何のためにWilliamsonを出しているのか理解できなかった。


8/5
3日目。基本的に同じ。Hackerが、世界像命題は経験命題で、文法命題と類似しているが、文法命題そのものではない、というので、その場合の「経験的」の意味は認識論的にしか介せないと思うが、どういう意味だと聞いたが、アプリオリでないというだけで、それ以上全然説明してくれないので、かなり不満だった。経験による正当化を認めないウィトゲンシュタインなので、通常の意味ではないはずで、もっと特定しないと話にならない。

夜の飲み会で、ウィトゲンシュタインが仮定していると思われる、"for all e and p, e is evidence for p only if e is more certain than p"という原理を巡り、S君、D君と議論。Hackerの論文には、これに対する反例を提示する箇所があるのだが、その例が反例になってない、と皆で合意し、僕がpを論理的に弱くすれば反例なんかいくらでもつくれるよ、とこの原理の問題を説明した。このときに改めて思ったが、この二人はかなり頭がよく、僕の話にすぐついてこれるし、そこから自分の意見を展開することもできる。特にS君は、その能力がかなり高く、舌を巻いた。

8/6

4日目。半日授業で、サマースクール終わり。修了証明書と、各大学で使える単位を数コマもらう。3日半やって、結局10ページくらいしか読んでないだろう。正直学んだことはあまりなかったが、全く背景の違う人達といろいろ話すことによって、分析哲学というのは、ほんとに英米圏の一部の現象だったんだなあ、と思い知った。僕にとって他の参加者との話をするのは、かなり異文化コミュニケーションで、いろんな意味で楽しかった。この日S君が、スイスに帰るというので、写真をとったりして、またいろいろ話したのだが、なんと彼はSt Andrewsに1学期留学したことがあり、この9月からOxfordで修士をやるのだという。そりゃできるはずだ。

この日いつものレストランで昼食を食べて、出ようとすると、見覚えのある顔の人が一人で座っている。学会のパンフを持っていたので、「学会の参加者ですか」と聞いて、もう少し丁寧な言い方をすればよかったのだが(後で謝った)、「名前は何です」と不躾に聞いてしまう。答えは「Alvin Goldman」で、そりゃ見覚えあるはずだよ!彼とは昔、うちの大学の院生学会に来てもらって、一緒にハイキングにいったこともあるので、「覚えてますか」と聞くと、やはり覚えていなかった。しかし、ちょうどいい機会なので、彼の最近の直観についての考え、(同僚でもある)Stichと実験哲学についての考えなどを聞く。

夜はみんなでバーベキュー。炭火焼みたいな感じで焼いていて、途中あまりにも勢いが弱いので、D君が巻を足したら火がボーとなって、一部黒焦げになってしまった。そこで彼が僕の名前を呼びながら、"What I did is a terrible mistake!"とか言っていて、かなり笑えた。
posted by hakutaku at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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